その他のページへ戻る
HPへ戻る
その他
2012年以前のその他


11年12月30日記
 原発事故の検証が
 政府が始めた事故調査・検証委員会が事故調査の中間発表をした。26日のことです。来夏には全容を発表と言う。
 想定外と言う言葉が何を意味するかや、官邸内での事故情報の把握や、スピーディーの活用や、現場での現状把握が出来ていないことや、「安全神話」に酔っ払って東電も政府もミスに次ぐミスを犯したことが伝えられた。
 考えて置かなくてはいけない事を想定外にしたから、そのことが起ったら何も出来ない。つまりマニュアルが無いのだから何をして良いのかわからない。茫然自失です。
 官邸内でさえ意思統一が出来ない状態が起ったことも伝えている。東電と政府の間は勿論官邸内でも情報が錯綜していたと。
 スピーディーと言う予報器機が全く機能させられなかったとも。これを利用したら退避場所がもっと明確になったし後々憂いを増幅することもなかった。
 現場の現況把握で言うと最も大切な注水をしているのか、いないのかさえ責任者が知らない。これでは手のうち様がない。
 まだ検証は始ったばかりで、これから驚くような事実が語られるに違いない。驚くのは未だに原発村が健在で事故収束の為の発言順位から言うと東電が一位、次が政府のように見える。
 何事も東電がトップを走っているように見える。
 原発を規制する政府機関が発足するのは来年春と言う。東電を叱り付ける規制機関が日本政府内に作れるかどうか、気に懸かる。
 「3・11」で180度行き先が変わると思っていただけに、何とももどかしい。原発行政の行き先が日本政府には今も見えていない。


11年12月23日記
 餅つき大会のこと
 今年も後6日したら「餅つき望年会」を迎える。始めてから数えて45回目です。何故29日が餅つき日になったか?仄聞するところは、「にくき自衛隊を搗きのめす」29(にく)の語呂合わせから、と。
 例年100人から120人の人達が川瀬東牧場に馳せ参じ9時から12時までに餅をつき終えて、正午からは矢臼別の平和運動の総括、新年の決意を固めて運動の締めくくりをする。
 少し書き添えると、夏の盆踊りに前夜祭があるように、持ちつき大会にも前夜祭があって28日18時から矢臼別ホテル内でとり行われる。
 一度だけ参加したことがありますが、寒くて寒くてそれっきり参加はしていません。が入植時の冬の生活を体験する上では絶好の機会です。ホテル内の床に置いたコップの水が凍るのですから。
 例年若者だけでなく年配の方も参加されるようですが、私は年配の方にはお勧めしません。
とにかく直ぐそこまで持ちつき大会がやってきました、沢山のご来場をお待ちしています。


11年12月16日記
 福祉除雪の話
 11月末に別海町民生委員の方の訪問があって、福祉除雪の申請書を出すようにと助言してくれました。
 申請すると除雪対象者かどうかを先ず査定される。70歳以上であること、除雪距離が200m以上であること、で査定の対象者と言う。
 12月9日に除雪業者が東牧場と西牧場をつなぐ団結道路1kmを下見に来たと言う。これはお隣のWさんが教えてくれた。
 20年前は後1世帯西牧場に住人が増えたら町も道管理なども考えましょう、と言ってくれた。が1世帯増えることもなく20年が過ぎた。がここに来て急に話が進んだ。首長が代った事もあるが、川瀬さんがこの話を聞くとびっくりするだろうな、と思う。
 最終的には福祉除雪を今冬から実施します、まで話は進んでいない。がそれにしても西牧場の住人にとっては朗報です。
 直接、業者とは話していないので付帯する条件を詳しく聞いてはいないが、Wさんから聞いた話だと路側の立木の枝や、道の幅等にも問題ありとか。
 何はともあれ町が金を出して除雪をしてくれるなど思っても見なかった除雪作業です。こんな有難いことはない。上手く話が進みますように。
 12月12日、役場の担当者が見えた。除雪業者も一緒だった。木の枝が除雪車の走行を遮ること、鉄柱が道路側に立っていて走行の邪魔をしていること等で、その事を処理してからでないと今冬の除雪は?との話に。
 1カ月早く話が進んでいたら打つ手はあった。こちらから、今冬は見送ることで話は終わった。
 来シーズンに備えて道幅を広げる話や、路側の立木を切る話も進めることが出来る。
 

11年12月9日記
 「しんぶん赤旗」で
 12月2日付のしんぶん赤旗(2)面に”犯罪行為自認する暴言”の見出しで日本共産党の志位委員長の国会内の記者会見での発言がでている。
 「これは一個人の偶然の発言ではない。政府が辺野古『移設』を県民の頭越しに力ずくで進めていることの象徴的なあらわれであり、自分たちの行為が犯罪行為であることを自覚した発言だ。『評価書』提出を中止すべきだ」と述べました、と。
 先週書いたばかりで、何時この認識が新聞に載るかと思ってたら、「しんぶん赤旗」でした。防衛相が不適切発言として沖縄県知事に謝罪したが、知事は不快感を表明、会談は8分でちょん。
 沖縄の住民が100%望んでいるのは、現在では県外移設です。辺野古『移設』などではありません。移設ゴーサインの評価書は犯罪行為なんです。
 政府がやろうとしていることは「犯罪的な行為だ」と自覚していないとでてこない言葉だ、と。前沖縄防衛局長を弁護するつもりはない。ただ政府の立場をこれほどはっきりと表明した官僚もいないだろう。
 銃剣とブルドーダーで奪われた普天間基地、移転など許す筈がない。無条件に閉鎖させる。これが沖縄県民、日本国が独立する基本的条件なのです。
 かつては中国、韓国、台湾、等々に侵略した日本国、今66年もの長きに亘って侵略されている普天間基地。
 この平和の時代に新に基地を造る等、許す筈がない。アメリカにもの申す国にならなくては。
 アメリカと喧嘩する国にではない、対等に物が言える国にです。普天間は沖縄住民に返して欲しい、返せ。これは当然の主張です。
 そうしないと普天間問題の解決はない。


11年12月2日記
 玄葉外相の飛行機代
 29日朝のグーグル日本語版で目にした記事。中国への普通便なら26万円で行けるのにチャーター便を使って1200万円で日帰り訪中をした話。
 外相の訪中で、そんな金を使って良いのだろうかと批判しています。緊急性があって、直行便がなくて等の国に行くときは別に、今の時期チャーター便が必要だったのか?と。
 これを伝えたのは「日刊ゲンダイ」です。同紙の書き手に同感です。外相は何故にチャーター機を使ったのでしょうか?
 30日朝のニュースで伝えられた沖縄防衛局長の更迭。これにはびっくりです。更迭は当たり前ですから何もびっくりすることはない。けど何故びっくりかを。
 「やる、やらない」が更迭に至る問題の出発点だが、環境評価書がそもそも何なのかである。何かを始めようとする時、つまり基地を造ろうとする時は沖縄県に環境評価書を提出することから始まる。
 この環境評価書の提出を「やる、やらない」で話が弾んだらしい。ここで対女性関係のたとえ話に及んだらしいが、環境評価書に対する防衛局長の基本的な姿勢が良く表れていると思う。
 環境評価書そのものについて罪悪感の濃い書類、と言う認識です。その下地があって犯罪行為のたとえ話に・・。
 その意味で、政府の地金がそっくり出てしまった。で、「何で地金を出すか」と防衛省は慌てた。
 法治国家で手続き抜きで基地建設は出来ない。長く沖縄基地問題に関って来た沖縄防衛局長にとって環境評価書は悪政の塊で、提出そのもが犯罪に思えたのでは。
 自らの心内に正直な防衛局長だと思う。そんな見方をする新聞はないが、どう思います?変なのかな?こちとらが。


11年11月25日記
 カジノ賭博、100億円
 億の単位で賭博をする感覚とは。誰々さんと言わなくとも今週話題になった、百億円をばくちで使ったニュースを聞いてびっくり。
 パチンコ屋ではどれだけ使おうとしても使いきれない金額だろう。何でそんなにばくちに注ぎ込むのだろうと思ってしまうけれど、金をたんまり持っている人にとってははした金なのかも知れない。が庶民にとっては理解に苦しむ金使いだ。
 ソフトバンクの孫氏は、百億円を義援金として3・11で提供した。凄い人だと思った、持ってる人で尚且つ心のある方だからそれが出来るんだ、と思った。
 賭博で負けて払った人も持ってるから出来たのでしょう。ただニュースによると自己の責任で払う筈が少し手違いあったようなことが伝えられたが。
 千円単位で四苦八苦する庶民の世界とは異なる1%の上流社会では100億単位の話は大した話ではないのかも知れない。
 その辺のことは、つまり世界の経済での金の動きからすると、100億円などははした金なのかも、と想像する。
 だからテレビでその人の顔を見る限り、平然としていて、大したことではないんだ、と。本の少し時間が過ぎると、その平然さが理解できるように。
 リーマンショック、そして今ヨーロッパで騒がれているギリシャ、イタリア、スペイン等の債務問題、100億円賭博など細かい事なのかも。
 1%の層に居る人の感覚は凄いんですねぇ。賭博で負けても平然。それにびっくり。
 庶民の感覚では想像も出来ないことが地球規模で渦巻いているようです。


11年11月18日記
 今年の降水量は?
 西牧場の井戸の水深、11月14日現在155cmです。今年の10月までの降水量は785.5mmMです。 これは別海町の観測点での数値。
 30年くらいの観測数値が残っていて3年前の2008年の年間降水量、788mmMが最小値だ(気象庁の年間降水量統計)。
 09年の3月8日、我が宅地内の井戸の水深が22cmで、これが最小水深。
 最上層の地下水の高さと前年の降水量の関係は密接に関係している。井戸の水深値の記録は短いけれど。
 08年の11月中旬の井戸水深は88cmでした。現在は155cmですから70cmほど高い。と言うことは来年の春先、22cmにはならない。一先ずは安心です。
 西牧場の井戸の新設は05年のことで、その3年後に30年来の少降水にあって慌てふためいた。が現在の井戸の水深なら来年も井戸の水枯れない、と思っている。
 しかし水の自給自足は生活の安定では必須事項。井戸を追掘り込み(1m)は西牧場の住人には欠かせない課題だと思っている。
 追掘り込みの仕様は今の住人が最も良く知っている。それで、せめて仕様でも書いておかなくては。
 「3・11」では即井戸水の汚染などが気に懸かった。その心配は今は不要。でも原発事故は進行中の話で、今後も何が起こるか分からない。
 泊原発や青森の原発は400km圏内に。杞憂に終われば良いが。人災に懲りない面々、原発を止めようとはしない、困ったことだ。


11年11月11日記
 TPPはどうなるか?
 今日は11月7日、「どじょう首相」はTPP交渉参加を政治決断すると張り切っている。アメリカと財界の言うことを忠実に聞く「どじょう首相」、99%をないがしろにアメリカの土俵に乗って良いのだろうか。
 8日朝日、毎日、読売も揃ってTPPには賛成の論陣を張っている。それでかどうか知らないが、「どじょう首相」も政治決断をすると張り切っている。このまま行くと「どじょう内閣」は民主党内閣で最短命の内閣になるかも。
 WTOで上手く行かなかったことをTPPでグローバル化しようと言うのがアメリカの国益戦略だ、と考える。
 国際ルールを決めてそれによって各国の社会規則を作ろうが、今言われているTPPではなかろうか。
 国際ルールとは何か。関税ゼロが基本だと言う。これは国境を認めない商ルールです。難しいことは分からないが、日本の米作りが壊滅するのでは。そう思えてならない。
 TPPには24もの交渉項目があって米だけの話ではない。金融、医療、労働等多方面で規制撤廃が考えられ、規制項目は相手国から訴訟を起されるとか。
 その辺のことは分かり難いけれど、心配なのは日本国の食糧自給率が13%に下がると言う、交渉参加を説く政府の試算が出ている。
 この一点だけで、交渉参加は止めるべきだと思う。日本の国土から水田が消える。と日本のアイデンティティーも消えうせるのでは、そんな思いに陥る。
 国境はちゃんと守らなくはいけない。アメリカの51番目の州になってはいけない。
 アメリカに従属して66年、いい加減に独立しなくては。ここまでは8日に書いた。ところが、事は異な方向に展開する。10日「どじょう首相」記者会見がドタキャンに。どうする「どじょうさん」。


11年11月4日記
 援農に感謝
 先週のベリー園拡張はあっと言う間に終りました。6人のボランテァは凄いと思った。28本の鉄柱打ち作業も芋掘りも午前中の2時間半で作業を終了し、午後の2時半には釧路に帰って行かれた。
 30mX30mの増設ブルーベリー園、残る仕事は金網を張巡らして、しかも移植が出来るように除草作業や枯れ木の取り除く作業など。残る仕事の方が大変なのだが、120本分の移植が出来る園地が確保できた訳で雪が降るまでに準備作業をコツコツやることにした。杭さえ打って置けばフェンスの仕事や園地の整備は一人でも出来る。
 援農で助けられたのは芋掘り作業。3倍の速さで作業は終了した。これからも一人でする作業は少なくして、大仕事は援農をお願いする事にしたい。
 馬を捕まえることやパドックを造ること等もあるが、これからは出来るだけ外からの援助を受け入れて菜園の法人化への改革の道を進めたい。
 法人化の話をすると、今の規模の活動では財政的メリットはないけれど、長く活動を続ける上では法人化が望ましい。それで即法人化は一休みして、近い将来を見据えて、と思っている。
 法人化とは西牧場の運営や建物の公園クラブへの移譲で、これらは既に現「矢臼別平和公園クラブ」に申し出ている事柄です。
 ボランティアの人たちの援助を得て改めて法人化のことを考えました。


11年10月28日記
 ベリー園の拡張
 29日か30日にベリー園拡張作業を計画しています。昨年に続き2年連続の拡張作業だ。ボランティアは釧路市からの2人組が来てくれます。
 今秋もベリー園拡張(30mX30m)を計画、そしてブルーベリー苗100本の移植を来春に予定。造園の仕様は3m間隔で高さ2mの鉄柱を打ち込み、高さ1.2mの金網フェンスとプラス有刺鉄線で囲んでベリー園の拡張は完了する。
フェンスの張付けは一人作業となっているが、これもボランティアが加わってくれれば有難い。
 菜園には未だジャガイモがある。で、女性のボランティアにも応援を願って芋掘りもして貰うつもり。
 とにかく今月中に杭打ちの仕事をやりきって、収穫作業も閉じたい、そんな気持ちで居ますが果たして。
 年を重ねて、ここの所、仕事量が増えている。今まで遊びすぎて時間を有効に使えず、急に焦りが出て来た。で少しオーバー気味が続くこの頃。
 あれもこれもでなく、目標を絞るべきか。とは言えベリー園の増株は早いほうが良い。ボランティアは有難い。待ってますよ。


11年10月21日記
 基準を何処に置くか
 食べ物の汚染度を何処に置くか。「しんぶん赤旗」を読んでいたら、その基準値に問題ありだ。日本は100ミリシーベルトでこれをクリアーしたので安全宣言を、という。
 とにかく厄介なことが起きてしまった。放射線の量を測って、何処を基準に食べて良し、悪しを決めるか。何処に線を引くのか、厄介だ。
 8月に、ドイツのテレビ局が56ミリシーベルトのジャガイモのニュースを伝えたと言う。線量は低い方が良いに決まっている。
 北海道に居て先ずどれ位の放射線が飛んできたのかが気になった。どうやら直接被爆するようなことはない、そのことが分かってきた。
 かと言って不安がない訳ではない。杞憂とは心配しなくていいものを心配する。そうありたくない。でも放射線の心配は杞憂ではない。福島では原発事故は進行中なんだから。
 一件落着などではない。食物の汚染、水の汚染、海水の汚染、土の汚染、福島原発の人災は計り知れないほどの害を撒き散らした。
 別海町では汚染物質の持込をさせないように、町当局に申し入れをした。汚染物の拡散を図るような法制をしいたからだ。
 安全神話をふりまいた方々の庭先に置いて貰いたい、汚染物は。そんな気持ちが先立つ。未だに除染処理後の置き場さえが決まらない。
 ドイツやスイスやイタリアの脱原発政策には感服します。日本の政治家のアメリカ従属には驚きます。
 泊り原発は矢臼別の西方400kmです。何時暴走を始めるか心配の種が直ぐ西方にある。青森の原発も直ぐそこだ。
 米の安全宣言とジャガイモの汚染記事、放射能汚染の「潮流欄」を読む。 困ったことだ。


11年10月14日記
 TPPの話
 11日朝の新聞には野田首相が米の収穫するコンバインに乗った写真が出ている。被災地の農業視察をしたニュースだ。記事にはTPP会議に参加する、それで議論を政府・与党に指示した旨の発言も。
 私の理解する所はTPPと言うのは環太平洋連携協定のことで関税ゼロが基本の国際協定を意味すると解している。
 シンガポール、チルー、ニュージーランド、ブルネイの4カ国で始まり現在はアメリカ、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの5カ国が加わって9カ国が交渉を進めている、と。
 この話が出て先ず新聞に書かれたことは日本の食糧自給率が現39%が13%に落ち込む記事だった。北海道は農業で生業を立てる地方だが、これが結ばれるとたちまち困る。その辺のことは直ぐ分かる。北海道で出来る農産物より格安の外国産が入ってくると北海道産は売れなくなる。話は良く分かる。
 でもこの協定には物品だけでなくほかの部門でも規制緩和の項目があってそれが23項目にも、という。
 これをネジ巻くのは財界です。新聞もこぞってネジ巻き係のよう。そんなに時間を経ないでバスに乗るか乗らないか分かる。つまり野田政権の浮沈が決まるのではないだろうか。
 沢山の関門があることは横に置いて、食糧の自給率が13%に落ち込む話は政府自身が出した結論です。
 すでに40%の食糧自給率を守ることもおぼつかない日本国、食べ物がなくて困ったのは65歳以上の人なら身に沁みて知っている筈。
 金を出しても買えないことだってあります。農業を潰すような政治をしてはいけません。食糧は自国で賄えるようにしなくては。
 TPPにはさようならをしなくては。そう思います。バイバイTPP、と.。


11年10月7日記
 規制機関を持たない国家
 日本には原発を規制する機関がない。プルサーマルだとかもんじゅだとか問題ばかりの原発関係の行政が動いている。しかしこれを規制する行政機関がない。
 推し進める働きしかしない機関は規制機関ではない。経済産業省の原子力安全・保安院なんて所は原発行政を進めることだけをやってきた機関であることが、良く分かる。
 そして「やらせ」をしてきた事が次々と明らかになっている。
 早くからこのことは指摘されているのだが、「3・11」人災を過ぎて半年、未だに昔のままだ。独立した規制機関を来年度からはスタートするらしいが、これが動き出さない間は原発の再稼動などは凍結すべきでは、と思う。
 終戦直後の黒塗りはそれまでの天皇制の教えを否定する黒塗りであったと思っている。それまでの考えの全否定だ。
 東電のマニュアルの黒塗りは企業秘密を隠蔽する為らしい。終戦直後の黒塗りと似ているが内容が違う。企業としての利益を考えてらしい。そういうことが罷り通る原発行政なのです。
 未だに、原発に関する知見ががっちり東電に押さえられていることが良く分かる。東電だけの話ではない原発行政が日本政府にあるのでなく電気企業に握られていることが益々はっきりしてきたと思う。
 すること為すことが東電発である事がその実態を良く示している。行政機関がこうしなさいではなく、原発発で収束作業が為されているところが奇妙である。
 ここまで東電を好き勝手にさせたのは規制する術を持たなかった政府の自業自得なのでしょうか。


11年9月30日記
 新聞記事で
 毎日の電子版、26日朝によると原発への天下りや天上がりの話が載っている。原発行政の東電権力の様が良く見える。
 金で原発行政を牛耳ってきた様でもある。日本では東大と言えば最高に評価される大学でその大学の教授だと言うことになれば、ああこの人が言うのだから、となる。事故直後のテレビニュース等で盛んにコメンテーターとしてその東大の先生が出てきた。
 「しんぶん赤旗」では確か「原発利益共同体」つまり原発業者、金融グループ、ゼネコン、メディア、学会を称して言った言葉だと思っている。これらがつるんで今も原発神話を推し進めている。
 平和利用の原発に何の秘密が必要なのか、黒塗りの手引書を政府に提出して胸を張る東電と言う企業。それが出来るのは金で脇を固めて、スクラムを組み、したい放題をする。これが現原発行政の実態でしょう。
 野田首相、国連で何を言うかと思ったら最高技術を持った原発を造ると。この人懲りずに未だ原発を続けると言う。
 金に操られる本家本元は政治家、その時々の政権が原発利益共同体の本態なのかも。そう思うとそれを変えるには有権者がしっかりしないと、になります。
 今日26日、予算委員会のやり取りを車中のラジオで聞いた。共産党の志井さんが原発の再稼動で何を根拠に再稼動を判断するのかと。
 経産省の保安院、東電、原子力委員会、これらは当てにならない三つの団体。事故を引き起こした本家本元、その人達が大丈夫と言って再稼動? それでは国民が信用しないと。
 「3・11」直後に斑目さんが「どうすれば良いか分かってる人が居たら・・」と話したことを思い出す。この人、原子力安全委員会の代表。
 代表が神様でないのは分かるが、頼りない代表であることがこの時分かった。「原発利益共同体」に任せていては国は潰れます。知恵のある人をその地位に差し向けなくては。天下り、上がりではそれは成し得ない。


11年9月23日記
 黒塗りの報告書
 1946年だったか、いや45年だった黒塗りの教科書があった。小学2年生のことであまり記憶が定かでないが、戦争に負けて掌を返すように黒塗りで話を変えた。
 最近東電の震災時の手引書なるものが黒塗りで保安院(取り締まる役所)に提出、という新聞記事を読んだ。
 役所の権威のなさに驚く。東電の力の強さにはびっくり。規制監督の役所にこれは言えないと黒塗りにして出す。同じ黒塗りでも意味するところは別だが。
 東電の意のままに収束作業が任されているのもむべなるかなである。早くから言われている事だが、こと原発に関しては東電の方が「安全神話」に関して最高見識(?)をもっているのだ。
 この黒塗りの手引書を批判した保安院の責任者がいたが、メディアはその後何の報道もしていない。
 メルトダウンを避け得たかもしれない、と言う処理の拙さを指摘する学者がいた。がその内にもっと杜撰な処理マヌュアルが出て来るのでは。
 先週も書いたが深刻な事態を伝えないで、もう収束が済んだかのような原発記事には騙されてはいけないと思う。
 3月12日の時点で東電のトップは撤退を口にしたらしい。これは放置することを意味したらしいが、とんでもない事を口走ったと思う。最も責任ある東電が後始末を放棄する。良くもそういうことが言えたと、あきれる。
 盛んに東電を潰してはいけない旨の救済緩和策を新聞は書くけれど、東電のような企業は潰れて当然だと思う。
 黒塗りで威張って居れる様な会社はこの際は破産させて良いのでは。心から人災を悔いているなら、黒塗り報告などは出来ない筈。けしからん会社だと思う。


11年9月16日記
 原発の収束とは
 京大の小出裕章助教のインビュー記事を読んだ。最近はもう原発事故が終ったかのような感じにさせられるが、決してそうではない、と言うこと。
 小出裕章助教の話では溶融していることは確かだが、そこまででそれから先が分からないと言う。圧力容器の底に穴が開いて、格納容器に落ちた燃料がどうなっているのかが分からないと。
 格納容器に穴が開いていたら地下水に影響が及ぶと言う。それを防ぐには防水壁(地下ダム)を造るべきだと。
 金がかかるからそれには取り掛かっていないらしい。9月9日の毎日新聞の記事を読んでの話だが、今何が進行中なのかを考えると背筋が寒くなる。そんな最中に原発の再稼動が始ろうとしたり、新しく始動をさせようとしたり、政府は何を考えているのかと言いたい。
 ここで言葉の意味を考える。収束とはおさまること。放射能を撒きちらさないこと。その為には廃炉が最終結論。小出裕章助教はその時間を10年、20年はかかろうと言っている。
 氏はこの様にも言っている、原発は事故を起す物だと、だから事故をどう防ぐかではなく原発をなくすことだと。答えは明快です。
 ドイツ、イタリア、スイスの選択は明快です。脱原発です。日本で起った原発事故、これを薬にしない手はない。日本のような地震の多い国では原発は造れないし、例え地震がなくとも使用済み燃料の処理が出来ない核分裂をさせてはいけないのです。
 毎日新聞、味なインタビュー記事を載せてくれました。


11年9月9日記
 少しずつではあるが
 他でもない原発情報の話です。先日津波の想定が10mとかを予測したが安全保安院には届かなかったとか、原発事故発生後のミスの出色はスピーディー(放射線拡散予想)の未活用などです。
 津波の被害予測で東電は想定外と言っていたけれど、これは嘘で、想定していたのです。ただ対応しなかっただけです。「想定外」と言う言葉、新聞でもテレビでも良く使われた。しかし何年も前から知っていても知らぬ振りで、対策を立てない。
 「スピーディー」の利用もしなかった。その言い訳が凝っている。不確かな情報による予報だから利用を避けた、と。
 今朝の新聞で内部被爆の線量を測定・・云々、が遅すぎと伝える記事を読んだ。半年も過ぎたら分からないとも。半減期が短い物は測れないという意味だと思う。
 「スピーディー」の話に戻ると、これを参考にしたら放射線被爆をもっと正確に、早く手を打てたのではないか、と。
 「3・11」がどんなことだったのか、そして現在も進行中なのだが、もっと早く事実を正しく伝えられるべきだと。
 島根の原発3号機は殆んど完成していて来年3月に運転が予定されている原発だと新聞は伝えている。読売などは原発を続けよ、とキャンペーンを社説で。
 メディアの責任は重いと思う。電力がないと困ることは確か、しかしだからと言ってトイレのない原発を稼動させることは許されない。
 その事を確りと認識したい。後は野となれ山となれの考え方は正さなくては。
 脱原発に明確に「ゴーサイン」を出すべき時に、野田さん頼みますよ。「3・11」からの事実を積み重ねるなら答えは明確に出ている筈。
 

11年9月2日記
 自然農法を考える(2)
 基本的には、耕さない、草をとらない、施肥しない、農薬を使わない。これが大きな約束事らしい。しかし昭和12年頃から唱えられた農法の実践者には少しずつ差異があって少しは違うところもあるらしい。
 蕨は自然農法そのもの、耕しもしない、草もとらない、施肥もしない、農薬も不要、で毎年収穫が出来る。勿論野生の蕗もそうだ。13年前に移植したベリー園は草だけが伸びる。それに野菜園の方はジャガイモの場合土寄せ期に畝間を確り除草しておけば雑草に負けないでジャガイモは生育する。花豆も出だしが大切で、杖を立ててから初期に除草をしておけば雑草に負ける事はない。人参、大根、金時などは今は雑草に負けている。背の低い作物は除草を怠ると収穫は大いに減る。
 それは写真のページで見て頂くと察しがつきます。5年前に菜園の除草を夏場しなかったら収穫が出来なかった経験があって、種によっては除草が大切なことが良く分かる。
 人間の勝手でベリーは元来野生種だったものを作付け果樹に代えた、と。専ら経営を目的に変えられた果実だと言う。
 今はそういう農業が全盛の時代なのかも。私が生まれた当時から考えられた自然農法、これからどういう風に取り入れられてゆくことやら。
 今夏、人参、大根、金時には除草にかける時間がなくて自然農法的になってしまった。収量が如何程になるか注意深く収穫してみたい。
 山菜は矢臼別では100%、自然農法です。何処まで真似るか、もう少し良く見ることに。


11年8月26日記
 いよいよ次の内閣が
 29日には民主党の次の代表が決まると今朝の新聞は伝えている(23日)。毎日新聞の社説は政見論議が必要と論じている。
 とにかく多数を得るために動いてはいるが、菅さんの後の人が何をするのかを言って欲しい、その事を代表選の課題にと。
 「3・11」から5カ月半、政治に携わる人ならこれからの日本をどの方向に向かうかを決断できている筈。出来ていないなら政治家を辞めるべきでしょう。
 さてそれで、「ゼロ原発」とまでは行かなくとも、せめて「減原発」を次なる代表は政策のトップに掲げられるのでしょうか。勿論増税論もありましょうが。金がないのですから。
 毎日の社説で説く代表選の課題、候補者の政見を問うに対する私見だが、「減原発は」民主党では菅さん個人の見解だというし、自民党も賛成ではない、と。
 現時点ではゼロ原発や減原発は国会議員では少数派です。新しい代表が生まれる前に新しい流れが期待できない話はしたくない。しかしそのことが見え見えで期待薄です。
 原発の安全神話を何十年来振りまいてきた読売・朝日・毎日新聞はこの際罪滅ぼしで「ゼロ原発」に「しゃりき」(会社の力で私造語)でキャンペーンを張るべきでなかろうか。
 これら3社が安全神話のふりまき3社と考えての話。現在、読売は反省の欠片もないが朝日・毎日には反省の脈はある。
 ドイツ・イタリア・スイスに続いて日本にもそんな首相・「ゼロ原発」が生まれて欲しい。ちょっと無理かな?ははは。 


11年8月19日記
 井戸水の心配
 放射線のことで「3・11」以降井戸水が汚染されて・・・と随分心配した。その心配は一先ず去った。しかしここに来て今年の降水量のことが気になりだした。
 川瀬牧場は東も西も井戸から生活水を供給している。3年前の年間降水量が30年来の降水記録で最も少ない年だった。それは気象庁の記録として残っている。2004年、961mm。2005年、876mm。2008年、788mm。これに対して井戸の最小水深は何れも3月で33cm、62cm、37cmと記録されている。
 年間降水量と我が家の井戸の水深値は符号しないが、最小値が33cmまで下がったことが問題なんです。
 年中で3月中に井戸水は最小値を示す。井戸の給水口が底から15cmなのか30cmなのかでその時点の給水が決まる。
 今の降水量からすると30年来で最も降水量の少ない年になりそう。そうなると来年の3月には井戸が水枯れするかもしれない。放射線で汚染されるのに比べたら、単なる水枯れで降水を待つだけ。その方がましと諦めるけれど、冬の水枯れ対策はしなくてはならない。対策は簡単、200リットル程水を貯蔵すればその間に天からの降水が来る。雨が降ればの話だが。
 1日10リットル使っても20日は耐えられる、来る冬はそんなことになるかも。それで今からの降水が気になるところ。
 その内にとは近年中に井戸の増し掘りも考えなくてはなるまい。ここに住む人のためにも。


11年8月12日記
 民・自・公では
 最近の政治の動きは民・自・公の会談で決まる。民主党は総選挙で大勝ちして衆院では多数を握った。しかし昨夏の参院選では野党に負けて衆参は捻れた。だから民主党は天下を取ったとは言え国会運営は意の如くならずです。
 菅首相が今も首相を続けているのは不信任案の提出が引き金になっていると素人の判断をします。常に政局を年頭に民・自・公は3・11以降動き回った。そして6月2日だったか内閣不信任案で政局を迫った。しかしである、見事に空振り。
 とにかく三つの条件が整うと辞めると言った菅さん。その日限が迫りつつある。かと言って日本の政治どう動くのでしょう。
 自公に退場券を突きつけた2年前の総選挙、何も出来ない民主党政権、その民・自・公が大打撃を受けた日本を何処に導くのか、誰がこの難問を解きほぐすのか。
 日米同盟で解決は望めそうにない。民・自・公、大きな所で大差なく。その3党が多数を握っていて、3党が談合すると国会は何でもスイスイと決まる。
 だが日本の政治が迷路に入ったのはこの3党の政策に則ってである
 迷路の轍の始まりは選挙制度と思っている。選挙制度に欠陥があって、民意が正しく反映しない。そう思っている。
 現政党を支持しない無党派層が世論調査の度に多数派になる。
 1000兆円の借金財政の元凶は自民党や公明党、そして現民主党が組んできた予算のなれの果てです。国民の負託を受けた国会議員が借金財政の責任を負うべき、と。だから早く負託に応え得る議員を選ばなくては。 今の自公民、これに頼っていては未来真っ暗。
 豪い時代に生きているんですねぇ、21世紀の日本国民は。


11年8月5日記
 政党交付金のこと
 8月2日、ネット新聞で民主党の岡田幹事長が公債法が今国会で決まらないようなら政党交付金の次回交付をしないと言い出した。これは面白いことを言い始めたと思う。
 政党交付金を一切受け取っていないのは日本共産党だけ。
 政党交付金とは国民の税金で政党活動をする。元々は企業献金を無くす為に考えられた方便だったと思う。そんなことは知らぬ顔ですっかり交付金で党活動をする。支持もしない政党に税金を使われる。とんでもない話です。
 民主党もその交付金にたっぷり浸かっている政党だが。赤字公債を発行するためには何が何でもと言う訳で、政党交付金を先ず自粛するべきと自公・その他の野党に揺さぶりをかけた訳。
 さてこの結末、どうなるのでしょう。貧者に支えられて共産党が自力で政党活動をしているのに、他の政党は国民の税金を食い物にして党活動をする。
 税金の使い道で言うなら、真っ先に止めるべき無駄使いが、この政党交付金。絵空事を言っているのではない。政党交付金なしに政党活動の実態を証明する日本共産党。
 共産党以外の政党はその意味で言うなら税金泥棒党です。国会で決めたことだから貰って当然は当らない。多数で決めたことだから正しいは通らない。
 赤字公債を発行するための方便として、交付金を交付しないと言い出した動機は不純だが、とにもかくにも政党交付金を出さない発言は効き目がある、そう思う。
 政治家が如何にぬるま湯に浸かっているかを自らが発言した、揺さぶりなのだが。共産党を除く他の党はどういう反応をするのか。じっくり見てみようではありませんか。


11年7月29日記
 盆踊りまで1週間
 暑かったり、涼しくなったり、と言ってる間に前夜祭が7日後に迫ってきた。歳を取るに従い時間の過ぎ行くのを早く感じる。このことは高齢の方には「同感・・」、と。
 川瀬さんとは盆踊りが済むと、又静かになったねぇ、等と話していました。そして季節は一気に秋になる。先ず最初に葉を落とし始めるのは白樺です。
 賑やかだった、盆踊り広場が元の姿に戻って普段の川瀬牧場になる。だから今日からの一週間が最も賑やかな矢臼別に。言うなれば晴れの矢臼別、そして盆踊りが終ると褻(け)に戻る。
 今年の晴れはどれ程の人達が盆踊り広場に集うことになるのか楽しみです。人が多いほど賑やかで気分が乗る。最近は3日延べで500人などと言われるが、広場駐車場に車が溢れて停まり切れなくなった夏もあった。そんな時は1夜で500人にもなって本当賑やかです。
 川瀬さんが居た時は「川瀬さんを励ますことをモットーに」、と「しんぶん赤旗」などで読んだことがある。しかしそれは少し違うと思っている。
 私の視点はそんなものではない。現に知っている盆踊りは、平和の示威運動の場として仲間が結集する催しと。そう思っている。その意味で川瀬牧場は道東平和運動のメッカなんです。
だから、道東平和運動の消長がこの盆踊りを見詰めることで良く分かる。
 根っからの住人が居なくなって、後を引き継ぐ人たち、どの様に運動を繋いで行くのか今年も課題は大きい。
 あっと言う間に晴れの舞台がやって来た。おたおたしてる訳には行きません。現、川瀬西牧場の住人として、「褻の矢臼別」を確りと伝えたい。川瀬さんがそうだったように。


11年7月22日記
 東牧場の散策道
 「矢臼別平和公園クラブ」が事業計画している散策道造りの話を。
 7月16日、17日に道造りを実施しました。作業員は二人で初日は5時間。2日目も約5時間の労働で全長約500mのクマ笹刈りを行ないました。腰の高さに生い茂る笹や、背丈に伸びた小潅木を切倒しての道造り大変でした。
 昨年夏場にコースを設定したままが、漸く今週、東牧場の南側半分に散策道を造りました。
 未だ出来たてのほやほやですから雨上がりの状況では気持ちよく散策は無理ですが、杉野さんや川瀬さんが、55年前に開墾された当時を振り返るには格好の散策道だと思います。
 盆踊りに参加された方には川瀬牧場が開墾された当時のことも年頭に、先人の苦労の程を偲んでみてはいかがでしょう。
 これは私の想像ですが、川瀬宅の南側に出来上がっている林は2次林ではないだろうか。そんな想像をしています。
 現川瀬東牧場は川瀬さんが開墾した牧場ではない。川瀬さんは1978年までは西牧場に居て、それ以降に東牧場の居宅に移り住まれた。入植以来26年は西牧場を守り、1978年以降は杉野さんが開墾した土地をも守りました。
 だから東牧場の開墾状況は杉野さんが良く知っているのです。今は二方とも鬼籍の人。私の矢臼別の生活はたったの22年、でもそれだけ時が経つと木がどれ程に生るかは分かる。
 今まで木がなかった所に木々が生い茂ることも分かってきた。川瀬さんは木は直ぐ大きくなる、と事もなげに言われた。
 矢臼別に入植来57年住み続けた人が言い得る言葉だと、最近分かってきた。20年でもそれを実感できるのですから、半世紀の時を矢臼別原野に生活した人には、そういう表現になるのでしょう。
 散策道で半世紀の移ろいを脳裏に巡らせては?


11年7月15日記
 盆踊りがもう直ぐ
 今年の盆踊りは8月5、6、7日。3週間後の5日が前夜祭で、6日の土曜日が本祭りで、7日はお別れ日、と私は呼んでいる。宗教的色彩は何もないのだが、お盆のしきたりがその底流にあります。
 今年のスローガンはどの様になるのか、矢臼別の根っからの住人、その人が亡くなって2年余が過ぎた。
 初めて矢臼別盆踊りに参加したのは川瀬さんが還暦を迎えた年で、25年前のことだったか。その時は川瀬宅に5日ほど泊めて頂いた。その時の前夜祭がとても印象的で新しく参加される方には前夜祭を目当てに来て下さいと案内している。
 前夜祭の前には設営隊の作業があって、3日間を会場準備にあてている。道外からの参加者も結構あって、毎夏盆踊りに顔を会わす人も居る。
 私は矢臼別公園クラブの文字入りのテントの中に毎夏テントキーパーとして居ますので、前夜祭から気軽に立ち寄って下さい。
 川瀬さんが記された自伝、「矢臼別の馬飼いと自衛隊」をテントに置いて販売することを楽しみにしています。川瀬さん健在の時には盆踊りで大いにアピール出来た矢臼別の姿が、これからはこの本が見事に語り継いでくれるからです。まあ言えば矢臼別のバイブルですかねぇ。
 例年お別れ日の早朝、基地散歩があって、徒歩で15分、東から西牧場への案内があります。
 西牧場には今にも倒れそうになった川瀬旧宅や樹齢300年とも言われるドングリの木が在って、川瀬牧場を語る上では忘れることの出来ない生き証人です。
 今の私には3週間はあっと言う間に。是非盆踊りの際は西牧場にも顔を見せて下さい。
 

11年7月8日記
 7・2反原発集会は
 しんぶん赤旗のネット版で2万人の集会であったことを知る。朝日、毎日、読売のネット版ではその記事を見つけることが出来なかった。もちろんNHKでも。
 ただ毎日の世論調査で反原発の声が50%以上であったことを伝えている。ようやく日本もそこまで来たか、とほっとしたり、7・2集会に対する報道のあり方で、日本のマスメディアの在り方に何時まで提灯持ちなのかと憤りを感じる。
 福島県の知事が「もう原発の継続はない」には納得です。福島県民の総意もそうだろうと思う。今盛んに政府は原発の再稼動を促している。が本当にそれで良いのだろうか。これに直接待ったを掛けられるのは立地自治体だと言う。
 九州の玄海原発は再稼動に同意したらしいが、隣接自治体の意見は関係なしだと言う。福島原発の教訓などは何も考慮されていない。原発から20km、30kmと離れていても被爆した地域のことを考えるなら、玄海町だけの対応ではおかしい。
 安全神話に踊らされて、40年ほどは見逃した原発の危険、今度こそはその安全神話に引導を突きつけなくては、ドイツやイタリア、スイスの様に。
 燃え滓の冷却は出来ても、最終処理を出来ない原発を止めないことには日本列島は悪魔と同居を迫られてしまう。終ることのない悪魔との同居を。
 廃炉すれば40年分の燃え滓で済むけれど、続ける限りはその燃え滓に日本の国民は、世界の人々がいつかは酷いことに会う。
 核兵器の全廃と願いは一つです。ガンバラらなくっちゃ。


11年7月1日記
 反原発の動き
 ドイツ、スイス、イタリアと3・11FUKUSHIMA以後、脱原発の動きがヨーロッパで顕著です。最近「しんぶん赤旗」で志位日本共産党委員長のインタビュー記事を読んだ。
 何故原発が発電源として悪いかを分かりやすく説いている。事故は現在も進行中であって、その危険の程は納得です。ストロンチウムが計測されただの、東京都のごみ焼却場から線量の高い灰が出ただの、と日々放射線量のニュースが絶えない。
 たとえ現原発事故が収束してもそれで終わりではない。日本には原発は54基もあって100万KW規模の原発からは日々広島型原爆の3発分、のウランの燃え滓が残り、年間1000発分の燃え滓が残ることに。
 これを放置する訳にはいかず万年単位で管理しなくてはならないという。つまり一旦始めたら最後、増え続けるウランの燃え滓を管理しなくてはならない。原発は易くて、安全な発電なんていっておれない厄介者なのです。
 今さえ良ければ、では人の道にそいません。原発の技術とは科学的には未完成の技術だと。
 原発は生き物同然で、水がなくて管理が出来ない代物。今、東電がその水の供給でしっくはっくしています。収束のためには水は欠かせない物質なのです。
 現在、原発が安全を満たしていないと稼動を停止し、そのために電力供給が問題視されています。
 が今こそ節電を考える時だし、節電は出来ないことではないと考えます。東日本大震災で3カ月を耐えてきた人たちの事を考えるなら、節電は耐えられる筈。
 暑い夏に向かってますが、政治が果たすべきは如何に脱原発を政治日程に上げるか、日本の政治が問われている。その正念場と考えます。
 7月2日、脱原発集会に期待したい。


11年6月24日記
 普天間のこと
 今朝22日のネット新聞では外交・防衛の2+2とかで普天間の移設時期は先送りでV字案が合意した等と出ている。その上種子島の北側にある馬毛島が艦載機の離発着訓練地になる事等も合意文書に書かれているとも。
 アメリカは自分の国でやらないことを日本では平気な顔で実行する。口では立派なことを言ってても相手が日本人だと法を平気で犯す。普天間基地でヘリを飛ばすこがこれに当ります。世界一危険な基地とアメリカの国防長官に言わしめたのは自国ではあり得ない事をやっているからです。
 鹿児島の馬毛島を離発着訓練場にしようと言う話は最近持ち上がった話ですが、周辺の自治体は反対の動きを強めています。狭い日本国で飛行騒音が問題にならない地域など在り得ない。原発で大変な時、防衛・外交でとんでもない事が進められている。そんな気がしてならない。
 海兵隊のグアム移転に絡んで、民主党は辺野古基地建設を国外移設を看板に沖縄県では前総選挙では大勝をした。ところが肝心のアメリカには何も言えないで、自民党の政策に逆戻り。
 いまやヘリコプターより騒音の酷いオスプレイを普天間に持ち込んだり、普天間をそのままに放置するなど自民党政治より悪いことを続けようとしている。
 政治を変えるなら日米同盟の進化などではなく、解消に向かうべきでしょう。
 20世紀で従属の政治はもう沢山、21世紀は平和自主独立の日本であって欲しい。3・11を転機に日本の政治を変えなくては。
 普天間を閉鎖させれば日本は変わる。沖縄が変わる、と矢臼別も変わる。ここら辺りで舵を大きく取らなくては、従属からは開放されない。
 なんとも情けない政治が続くことか。怒らんといかん、怒らんと。


11年6月17日記
 汚染水の行方は
 お茶が放射線に塗れている、海水浴場の放射線はとか、汚泥が放射線に塗れてとか、次から次と放射線塗れの話が続く毎日。
 15日朝の朝日新聞の社説はイタリアの脱原発の国民投票の結果を取り上げて、良い事だと。ようやく脱原発の動きを報じたかとほっとしている。
 が、マスメディアが役割を忘れているようなので次に。どんなことかと言うと、福島原発で汚染水の放射線除去が始まったというのは良い。しかしそれで報道を終られては困る。除去された放射線が残る濃縮物は何処に行くのか?が大問題なのに。この事が報道されない。
 冷却されたウラン燃料の燃え滓が何処に行くかも大問題なのに。
 放射線には半減期というものがあって日単位のもの、年単位のものもあって30年とか100年とか言う、とこれは厄介です。
 震災から3カ月が過ぎたが、終息の目途も立たない、その上次々と新たな問題が持ち上がる。なのに損害補償はしない。東電にはその補償能力はないと思っている。ではどうなるか。東電は潰れる。後は政府が補償するしかない。国民の税金で損失を補う。
 地震が起こることは致し方はない。しかし人が起すことは人災でこれが「3・11HUKUSIMA」問題です。
 集団的ヒステリー等とイタリア国民の脱原発を誹謗する政治家がいる。しかしマスメディアにはイタリアの動きを大いに報道してもらってこの流れ脱原発を大きくしてもらいたい。
 少数派の非現実の夢想家に責任があるのではなく「トイレなきマンションを告発し」なかったメディアには大いに責任がある。
 原発が運転される日々、如何程の燃え滓が日本国内に放置されるか、そのことが確り報道されるなら、日本の有権者もイタリアのように拒否するに違いない。


11年6月10日記
 事故調査・検証委員会
 何処まで出来るか?6月7日のニュースで原発事故の検証委員会が仕事を始めることを伝えた。委員長に任命された東大名誉教授は100年後にも称えられる仕事をしたいと。そうあって欲しいものです。
 まだ検証がこれから始めようとする時に、事の成り行きを勝手には言えません。今年中に何らかの中間報告を出すと言う。待つことにしましょう。
 3・11以降、原発に関しては色々とちぐはぐな事が続きます。首相が福島に飛んだことの是非、ベントのタイミング、危険度の評価、溶融の事実、避難地域の設定等々切がないくらい不手際が続く。失敗学の先生が私流に検証と言うのですから期待したい。
 私が言いたいのは政府に任命される検証委員の人達が現在の原発行政の主流を検証し得るかと言うこと。
 菅さんは間もなく首相を降りる人。そしてドイツのように180度政策転換を打ち出せないで現原発行政を続ける政府をそのままに。
 これだけ金を掛けても安全を保障されないトイレなき原発を造ろうとしたり、続けようとしたり、事故に懲りない面々が多いことに驚く。
 3・11を境に原子力の使い道が地球上で大きく変わったと言われる検証作業、これを検証委員会に期待するのはない物ねだりだろうか。
 トイレが考案されてから、原発造りはまだしも、技術未完成の垂れ流しの原発は造らない。技術が開発されるまで、地球上ではウランの燃え滓を造らない、これが知恵ある人間の道と考えます。
 ドイツの選択は正しいと思うし、日本もそうあるべし、と。検証委員会がどの様な報告をするか期待しましょう。


11年6月3日記
 オスプレイの配備
 31日の新聞には普天間にオスプレイを配備すると言う報道がされた。いや正確にはアメリカの申し出を日本政府が容認し沖縄知事にその旨を伝えたと言うこと。
 普天間基地には海兵隊の使うSH46型というヘリコプターがあって、2004年だったか大学校内に墜落したことがあった。
 このヘリに換わって垂直に離陸して水平飛行する早くて行動半径の大きなオスプレイ機をこともあろうに世界一危険な普天間基地に配備すると言う。
 この新型機、開発時には未亡人製造機と言われた曰く付きの飛行機です。先週も書いたけれど「クリアゾーン」のない普天間基地に配備するなど狂気の沙汰だと思います。それを日本政府は唯々諾々ですからどこの政府かと言いたい。
 戦後66年アメリカは日本を好いだけ踏み躙って来た。ここらで沖縄県民とともに日本国民怒ろうではありませんか。
 大きな事を言うようですが、矢臼別で生活するのはこのアメリカの横暴に対する怒りの心です。憲法違反の自衛隊を咎めることは勿論ですが、その根っこには安保条約があって、それを許し続ける日本国政府への怒りがあります。
 世界一危険な普天間基地と言いつつ、危険な機種を配備しようとするアメリカ政府。それにノーと言えない現政権。
 大震災のどさくさに紛れてオスプレイの配備などとんでもありません。これを阻止するのは国民の反対行動しかありません。何処の政府もそうですが国民の総意が政治を変えます。
 普天間の生命は沖縄県民、日本国民が握っています。無条件返還を求めて行けば道は開けます。 多数者になることです。 


11年5月27日記
 最近読んだ本
 「普天間基地はあなたの隣にある。だから一緒になくしたい。」左が本の表題です。著者は伊波洋一氏です。残念ながら氏は昨年の沖縄知事選で惜敗した。しかし相手候補に普天間の県外移設を公約せしめた訳でただ負けた訳ではないと思っている。
 以下に「クリアゾーンの」件を紹介します。
” 国民のみなさんは、基地があれば多少の被害が出るのは当たり前だと、そう思っておられるかも知れません。しかしこれが、肝心のアメリカに行くと、全然違うのです。つまり、基地であることと国民の被害があることとはイコールではなくて、アメリカでは基地は国民に被害を与えてはならないというルールが確立されているのです。
 普天間飛行場のような状況は、アメリカではまったく考えられません。アメリカの基準では、ヘリの旋回訓練コースは基地の中(上空)に設定されます。飛行訓練を常時行なう飛行ルートの真下に住宅があってはならないとされているからです。
 アメリカの連邦航空法では、滑走路両端の幅450〜690メートル、長さ900メートルの区域を一切の構築物を禁じる「クリアゾーン」に指定しています。クリアゾーンは、事故の危険性が最も高く、開発することが禁じられています。それは海外にある米軍飛行場にも適用されることになっています。”(29ページから転載) 
 なのに、普天間のクリアゾーンの中には、普天間第2小学校、新城児童センター、自治会公民館、保育園、ガソリンスタンド、800戸の住宅等があり、約3600人の住人が住んでいるという。
 アメリカは民主主義の権化のようなことを世界に振りかざす。しかし他国民には平気で民主主義を蹂躙する。そんなアメリカに日本国政府は世界一危険な基地を閉鎖するとは言えない。
 伊波洋一氏は基地の無条件返還を切々と訴えている。


11年5月20日記
 酪農交流会
 5月15日、10時30分から15時30分まで、川瀬氾二著「矢臼別の馬飼いと自衛隊」を売りに交流会に参加しました。会場は隣町の酪農会館、参加者は100人ほど。顔を知っている人が3分の1で7割方は知らない人でした。
 今年の交流会のメインテーマは普通とは何かと言うことでした。<b>
 3.11</b>震災を界に酪農を考えましょうと言うことで色々と意見が交わされました。この酪農学習会に参加する人たちは外国からの輸入穀物や乾草に出来るだけ頼らないで、道東地方で産する飼料で牛を飼うが主流の酪農家が多い。
 西牧場は菜園を本のちょっぴりの農園だが化学肥料を一切使わないこと(馬糞堆肥のみ)で農業思考が同じと言うか近いので、学習のために参加する。
 今年は午後の学習会は分会に分かれての意見交換があり、本の宣伝と西牧場の菜園の自己完結型を発表して自己発言を終えた。
 たまたま隣席に酪農交流会では指導的酪農家のM氏がいて良いお話を聞くことが出来ました。氏が話された事は自分のしてきた酪農を次の世代に伝えることだ、と。
 M氏が提唱されたのは20年も前に遡るけれど道東地方の風土に根ざした酪農でした。アメリカやオーストラリアから輸入される外国の飼料に頼らない酪農です。
 道東で40年余も続けた酪農を次の世代に伝える、素晴らしいことだと思います。
 西牧場でも次の住人に菜園のあり方を確り伝える。そのためにはどういうことをしておくか、今からでは少し時間が足りないけれど、思い立った時が出発点です。
 そんな勇気を貰って、交流会場を後に。良い1日でした。


11年5月13日記
 矢臼別平和公園クラブ通信の創刊号から
 第1号の発行は2005年7月で、公園クラブの設立は2004年1月とある。クラブ誕生から1年半後に矢臼別平和公園クラブ通信が発行されたことになる。
 そして代表挨拶として次のような文が書かれている。
  川瀬代表の挨拶
 公園クラブに共感のご支援を賜り厚くお礼申し上げます。
 公園構想は演習場という戦争に連なる実態に対し、平和の営みに場を提供する事で平和と戦争の対比を鮮明にしようという考え方ですが、公園と一口に言っても色んな形があるわけで、どういうのがベストで効率よく出来るのかよく分りません。 専門家の設計に基いてやればよいかも知れませんが、私どもにはそれほどの能力はないので、自分達の力でやれるだけのことをやるという方針でやっております。
 従って全体構想の中の一つ一つを完成させて行くというやり方ですので、テンポは遅くカタツムリの歩ですが、止まることなく進んで行きますので、気長に見守って頂きたいと思っています。
 次に公園化の大まかな全体構想を述べてご挨拶にかえさせて頂きます。
 演習場の中には三ケ所に民有地がありますが公園化は二筆三五fです。町道に接した所に私が、演習場を通ってその奥に浦さんが住んでいます。私の方には既設の平和碑、盆踊り施設、会場、宿泊、他の碑がありますが、新しくキャンプ場、展望塔、憩いの森、温泉、矢臼別資料館など考えています。ご意見などお寄せくだされば幸に思います。(川瀬代表)

 今はなき川瀬さんの挨拶を読み返し、思いを新たにしました。


11年5月6日記
 矢臼別の馬飼いと自衛隊
 上の表題は川瀬氾二さんが記した本の題名です。発行は11年5月3日憲法記念日です。
 本は530ページの分厚い本で読み応えのある本。4月15日川瀬さんの「自分史」が出ますと書きました。手にするとずっしりと重たい本です。
 本の末尾に川瀬氾二さんの略暦が出ていて、
1926(大正15)岐阜県に生まれる。
1951(昭和26)北海道弟子屈拓殖実習場に入所
1952(昭和27)別海村三股の開拓地に入植
1956(昭和31)福島県出身の普実子と結婚
1962(昭和37)別海村議会・北海道知事が陸上自衛隊矢臼別演習            場設置を承認。買収拒否2戸がのこる
1965(昭和40)矢臼別平和盆おどり大会はじまる
1977(昭和52)1戸が立ち退き、川瀬ただ1戸となる
1996(平成8)7月23日、妻・普実子死去
2008(平成20)10月、くも膜下出血で入院
2009(平成21)4月20日、療養先の病院で死亡、83歳。  とあります。

 私が川瀬さんと初めて会ったのは還暦を迎えた1986年夏でした。それ以降1989年からは川瀬西牧場に転居し隣人として過したので、その人となりはよく知っています。
 この地に入植来、57年間を矢臼別に住み続けた川瀬さんの生き様がよく書かれています。
 本をお求めの方、沢山手元に置いていますので、ご一報下さい送料別で販価は2000円です。


11年4月29日記
 原発人災は進行中
 畑仕事が忙しくて毎日の新聞を見るのが遅れ勝ち。テレビは毎夜観るけれど、原発は山を越したような感じで放送される。しかし安心は出来ない。
 何が何でも冷却、閉じ込めに成功しなくてはならない。そんな思いを強くしている。
 東電も政府も今や頭を下げるしか手がない。しかしいくら頭を下げても取り返しはつかない。震災だってこれからが問題で、大きな痛手をどう癒すかこれからが茨の道だと思う。
 被災者の心の問題は時間をかけて、それこそ何年もかかって癒してもらうより手はない。問題は仮設住宅を建てたり、畑を作り直したり、船を造ったり、仕事場を作ることにどれだけ政府が金を出すかに係って来ている。
 何と言っても数時間で住いや職場が瓦礫と化したんだから。これは天災です。そして残るは福島原発の人災。
 東電が補償で潰れるならそれはそれで仕方なし。頭を下げて終わりではない。後は政府が責任を持つべきでしょう。とどのつまりは国税で国民が等しくです。
 長崎や広島の原爆投下後の写真と仙台辺りの津波後の写真はふと前者を連想した。東京大空襲の写真とも重なった。
 終戦直後の事と比べると、当時を思い浮かべることの出来る人なら、現在の日本人にも復元力は充分と考える。
 只今は原発人災が進行中でこれが厄介。これ原発にはアメリカの核政策と連関ありと言う。つまりアメリカの核政策と切っても切れない関係だと。アメリカからの独立、早く頸木を断ち切らねばとも。


11年4月22日記
 朝日の社説も
 4月20日、朝日新聞の社説にも原発の見直しが出た。毎日は既に出ている。福島の事故で世界の流れが変わったいう所までは進んでいない。が、ドイツなどは明らかに流れを変えた。
 未だ福島の事故は治まった訳ではない。進行中です。そして日々経緯を見守っているが決して安心できる状況ではない。
 福島県民に今、原発の賛否について問うたら、9割以上の方が原発は要らないと言うだろう、そう思う。
 今の事故についても終息は100年はかかろうと、世界の識者は言っている。
 後は野となれ山となれは戒めの言葉だと思っている。人生80歳が現在の寿命か。原発を続ける限り、その尻拭いは他人任せの後は野となれ山となれの人間ばかり。
 原発信望者は無責任人間の象徴だと思う。安全を振りまいて、人災を起してすみませんでしたとしかいわない。
 原発は間違いでした、廃して速やかに安全策を今から行います。これが原発事故に対する責任のとり方だと思う。使用済み燃料に対する処理を完成させてこそ安全宣言が出来る。なのにそれが出来ていない。
 「トイレのないマンションしか」文書は読んでいないけど、火をつけたら始末の出来ない物には手を出さない。そのことを確り学ぶべきと思います。
 そのことを世界中の人が認識しないといけない、そう思います。残る日本の新聞社、どの様な社説を書くのやら。原発を止めようと言わない新聞は無責任新聞に思える。
 さて残る新聞社は???何と言うか。


11年4月15日記
 川瀬さんの「自分史」が
 5月初旬、川瀬氾二さんの「自分史」が発行されると言う。一足先に読むことが出来た。川瀬さんの60歳からのことは直に接して本の少しは知っていたつもりですが、500ページ余の本を読んで大よその事が分かった、そんな思いになりました。
 私の自慢は最晩年の7年ほどは週間単位で3、4時間の二人での支部会議を持っていたことで、メモを取るようなことはしなかったけれど確りと話し合ったことです。
 しかし青年期の話は殆ど話題にならず、若い頃の話は、へーえ!!、と思うことが多い。ただ「自分史」を書き残そうと思われていたようで、さすが川瀬さんと頷ける。
 面白いと言う表現は、誤解されそうですが、少なくとも著者の晩年を見ている人間には、あの時はそうだったんだ、あれはそうだったのかと興味は尽きない。
 川瀬さんをモデルに書いた本は「海霧のある原野」を初めに沢山出た。そしてこれからも出るだろう。
 川瀬さんが亡くなられて、自筆の「自分史」がそのままの形で記念誌として出る訳でこれから書かれる本には今回の「自分史」が大きく影響するだろうと思う。
 未だ値段などは決まっていないようですが、矢臼別の平和運動にとって貴重な資料です、多くの方に読んで頂きたい、そう願います。


11年4月8日記
 水が飲めること
 4月6日、別海町では飲料水に異常はなさそう。それで一安心。しかし原発の放射能の飛散が止まった訳では無い。何時もは井戸の水深がどうのこうの、と不安の程を書いた。でも今年の春は次元が違う。
 水を飲めるかどうかの話です。空からどれだけ雨が降っても、その雨水に放射能が含まれていたら飲料に適さない。
 4月6日、気象庁の出した原発からの放射能拡散予測図を見ると北海道は圏外に位置している。南よりの風が吹くと直ぐ北海道にも飛散してくるから安全などと高を括っている訳にはいかん。
 とにかく原発を冷ます段階で足踏みしているわけで、安心などは程遠い話。なのに政府の報道は決してまともとは思えない。
 出てくる識者と言う人も、ちょうちん持ちばかりで頂けない。
 そもそも原子力安全委員会が何の役にも立たないことが分かった。それに産業経済省の原子力安全・保安院も役に立たないことが分かってきた。じゃ東電の安全対策は、これは実証済みの実力です。
 安心して空から降ってくる水を飲み続けることが出来るよう、原発の暴走を止める救世主が現れますように。
 野に下っている日本の識者、世界の識者に福島原発の暴走を止めてもらわなくては。原発を甘く見てはいけないことを今ほど教えてくれる難事はない。
 停電のこと等で頭を痛めている節もあるが、原発の暴走を止めることに比べたら難度は比べ物にならない。関東周辺が水を飲めなくなる、列島がその様なことになる???日本の政府何を考えてるのかな???。


11年4月1日記
 3月25日05時30分の
 朝日電子版記事。”東京電力は25日、復旧作業が続く福島第一原発3号機で作業員3人が被曝(ひばく)した現場の水たまりから、通常の原子炉内を通る冷却水の約1万倍の濃度の放射能を検出したと発表した。原子炉や使用済み核燃料貯蔵プールにある燃料棒が損傷している可能性が高いとしている。”
 HPを更新して、直後に読んだ記事が上の記事でした。(25日朝)
 メル友は政府や東電がどの様なことを話してきたかをメモしておくと良い、言うならばいい加減な事ばかりを話しているから・・と言うことだと思っている。
 如何に杜撰かは既に洩れてきている。政府の自主避難の発言や先の3人の被爆は前日に別の原子炉屋で検知していた話等々。
 それに原発問題での対策本部の組織としての不統一。つまりは菅政権の危機管理能力の頼りなさ。
 どの新聞も原発の暴走を制御したかのような空気が漂う。これが恐ろしい。チェリノブイリ事故とは違うんだと高をくくった論説には頷けない。私の心配が杞憂であれば有り難いのだが。(27日)
 ”東日本大震災で被害を受けた福島第一原発で、東京電力は28日、2号機のタービン建屋から外へつながる坑道とたて坑にたまった水から、毎時1千ミリシーベルト以上の放射線が測定されたことを明らかにした。汚染水は容量ほぼいっぱいとみられるが、排水作業は難航している。燃料を冷やすために注水は止められず、水の漏出は続き、汚染水は増え続けるとみられる。このまま行けば、大量の放射能を海など外の環境に投棄せざるを得なくなる。


原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長は28日の会見で、「正直、大変な驚き。憂慮している」と話した。土壌や海水の汚染を引き起こす可能性もあるというが、「どのような形で処理できるか知識を持ち合わせていない。原子力安全・保安院で指導していただきたい」と話した。

 ”・・・・”は29日朝日電子版から借用。
 私の知る限りは原子力安全委員会のトップと言えば原子力を考える時、最高の権威者です。その人が他所の人に指導を仰ぐということは、正直知力のないことを告白した正直者だとは思うが日本国民にとって,これほど情けないことはない。

 今日は29日、朝刊の各電子版は原発がただならぬ状況であることを伝えている。つまり「冷やす」「閉じ込める」、が危機管理の手順なのだが、それすら出来ないが現状です。
 その最高責任者とも言うべき安全委員会のトップが為すべき術を知らない。こんな人が原子力委員会の長なんだからその発言には開いた口が・・・である。
 福島原発事故は進行中なのです、気が休まらない。


11年3月25日記
 冷静にとは
 政府の広報官(官房長官)が最近盛んに使う言葉です。辞書を見ると、落ち着いて、穏やかにとある。これだけ記者会見の度に使っていると、それしか知らないのか、と。
 聞かされる国民は落ち着いていますよ。そこまで来たか、といった感じで聞いている。その次に多いのが放射能は危険なほどではない、と。危険でないなら敢えて言うなといいたい。テレビにでてくる人は政府広報官みたいに同じことを言う。
 冷静にと言うなら、両方の意見を言うべきです。つまり心配なこともだ。
 今日は3月24日、津波が起こってから13日目、25日で2週間になる。津波は治まる方向に向かっているが原発人災は進行中です。これを見詰める世界の人々。別海町に生活していると何事もなきように見えるがそうではない。
 人災を引き起こした国の住人として片時も落ち着かない。何せ原子炉が暴走中なんだから。暴走する原発の閉じこめを願うばかりです。
 沈着冷静には日本の政府にこそ求めたい。泣いても笑っても今は菅政権が最高の司令塔なのだから。


11年3月18日記
 原発事故について
 15日08時頃から福島第一原発の2号機が06時14分頃爆発音を起して、原子炉格納容器に何かの損傷を起していると。
 豪い事が起こっているのです。12日朝から注意して原発の状況を見詰めています。
 16日朝のNHKテレビは福島原発の4号機が火災を起していると。その上放射能が強くて近寄れないとも。ここには6基の原発があるが燃料棒の冷却が出来ない状況に向かいつつある。
 怒れる原発と言ったら友人から「天罰発言」に似ているといわれた。弁解ではない、原発と言う怪物が暴れだし、それを造った人間が制御を出来ない状況が現出しつつある、と言うことです。
 福島原発からここ別海町は約740kmの距離だが炉心溶融が進むとここも放射能汚染に曝される。東京都心は原発から220km、言うに及ばない。マスメディア・テレビではその様なことを一言でも話す人がでてくれりゃなのに。政府のちょうちん持ちばかり。
 友人のメールで原発の憂慮すべき事故が今進行中であることを伝えてくれた。そうならなければ良いのだが、津波発生以来、原発事故は悪いほうに振れている。
 東電と言う企業にはもうコントロールできない状況で、法的にも免責されているようだから、日本国が如何にこの難局に向かうか、それが今求められている。
 菅さんや枝野さんでこの難局を、指揮できるのか?と不安です。冷静になどと会見の度に話しているが、あなた冷静なのと訊きたくなる。服装は現場風だが頭が現場風になっていない。
 17日朝、暴れる原発をどの様に押さえ込むのか、その目途は見えない。何を生意気にと言われるかも知れないが、一言。
 止める、冷やす、閉じ込める、が原発の管理の3原則らしい。止めるまでは良かったが2番目の冷やすが上手く行かない。
 冷やすは、ひたすら給水らしい。怪物管理の仕様に従って全力を尽くすより他に手は無い。
 頑張れ日本の技術者。現場の労働者。とにかく暴走を止めなくては。11日から止まっていた電気回路が復旧するとか。頑張れ頑張れ労働者。


11年3月11日記
 ゲーツさんの言葉
 しんぶん赤旗の主張欄で次のような記事を読みました。このホームページを読んでくださる方は既に目を通されているとは思いますが、中には知らなかった方も。記事を次に、”ゲーツ国防長官が先月、米陸軍士官学校での講演でこう述べました。「もしも今後、アジアや中東、アフリカに大規模な地上軍を再び送り込むよう大統領に進言する国防長官が現れたら、その頭を検査すべきだ」
 ブッシュ前政権時から国務長官を務める同氏の発言は、米覇権主義の破綻を示す重いものです。米国はイラクとアフガニスタンでの戦争で多数の犠牲者と巨額の財政赤字を出し、疲弊しています。軍事介入は米国自身にとってさえ、何ら役立っていません”。これが主張の書き出しです。
 ゲーツさんはアフガンとイラクに攻め込んだ軍事の責任者ですからこれで免責される訳ではありません。しかし侵略戦争を仕掛けたことに対して、今やそれは誤りだと悟った訳で偉いと思う。
 米国がアフガニスタンに攻め込んで10年。確かソ連が攻め込んだ時も10年後に撤退したと思う。
 10代の頃、他所の国に攻め込んで行ったら行った方が負ける。これは歴史の先生が授業中に話したこと。鉄則のようです。
 アメリカの武力は世界一です。その国が困り果てている、が現在ではないでしょうか。ゲーツさんは地上軍の送り先を限定していますが、そこは「他国に」置き換えて良いと思います。
 中国の国防予算がどうのこうのは他所様のこと。困っているアメリカをみて身を正せば良いと考えます。
 ゲーツさんの話は士官学校生には勿論、世界の首脳にとって良い話ではないでしょうか。


11年3月4日記
 携帯の功罪(その2)
 大学の入試験がネットに掲載されてしまう事例が発生した。ことが起こってそれに対応するが常なのかも知れない。が、お粗末と言いたくなる。
 もう7年も前にお隣の韓国で発生してた事例らしい。韓国がその後どの様に対応したかは知らないけれど、とにかく一段階日本よりは先を行ってるようだ。
 どうやら携帯電話を使って不正に回答を求めたようである。となれば対応は簡単だと思う。携帯電話を試験場に持ち込ませないことだと思う。これ程簡単なことはない。
 携帯電話を2年ほど前から使い始めた、そして向上心がないので2、3の決められた所にしか電話をかけられない人間にとっては、今回の事例がどんな具合にネットを利用したか?等さっぱり分からない。
 八百長相撲といい、今回の入試問題漏洩といい、携帯電話の功罪は底知れない問題を提供している。
 最近、気になるのがテレビショッピング、辺境の地に住んでいても(矢臼別は辺境でも何でもないが)金さえ出せば何でも届く。川瀬さんを通販のキングと呼んでいた。それくらいカタログや電話で買い物をしていた。望みの商品が玄関まで届くんです、と川瀬さん。
 車に乗らなくても矢臼別で暮らせるんだと思った。20km先の駅前市街に行かなくても、必需品を手に入れることが出来るのです。生鮮食品までが。
 PCが掌に乗る時代になりました。がバラに棘ありです。便利さの陰に落とし穴ありです。
 身の程ほどに、文明の利器に馴染まなくては、そう戒めています。


11年2月25日記
 TPPに反対する
 2月20日、TPPに反対する集会に参加した。田代洋一氏の話は分かりやすくて面白かった。60分程の講演だった。それに共産党と自民党の国会議員も各15分の発言時間があって、その後、会場からの質問などに3氏が答えた。
 反対集会ですから、今の菅政権がやろうとしていることには毅然と立ち向かおうで盛況の内に集会は終った。
 少しずつ分かってきたことはTPPに加わると、食糧自給率が14%にまで落ち込むことと、農産品の関税0だけでなく、医療や金融や等多方面にわたって国境がなくなる話に及びました。
 つまりアメリカやオーストラリアが日本の国土を荒廃させる、ことに繋がるそんな話でした。それ程古くない話で、主食の米が在庫がないと騒いだことが10年位前にありました。
 わざわざ日本で米を作らなくとも、アメリカやオーストラリアから買えば良い。これが民主党政権や財界の考えらしいが、食糧を自国で賄うを忘れたら、これは売国の政権だと思う。
 最近の気象状況の大変化を考えたら、何時起こっても不思議でない食料不足の事態が起こりかねない地球の環境。
 1.5%の農業GDPに98.5%のGDPを犠牲には出来ない。前原外相が何処で講演してこの文句は有名です。が、TPP反対集会では、車、電気、機械の3部門だけが喜ぶだけ、との話でした。
 国破れて山河ありは有名ですが、「国破れて山河なし」と言う言葉が胸に堪えました。国土を荒地にする農政、既に荒地は広がっていますが、米の輸入関税がなくなったら、一段と荒廃化の速度は早まるでしょう。
 車と電気と機械だけで飯を食ってる訳ではない、食糧を作ることに精を出さなくては。そんな思いのTPP反対集会でした。


11年2月18日記
 八百長の続きを
 14人の名前の他に疑わしきは無いと相撲協会は発表した。しかし他にそういう人が居る、と漏らす人も。
 発端は野球賭博に関して家宅捜索があって、押さえられた携帯電話に八百長を思わせる会話記録があって、発覚した八百長相撲。
 野球賭博で押さえられた携帯電話以外の力士が使用していた携帯電話は沙汰のほかです。
 発覚以来、この事が気懸かりだった。個人の権利や通信の自由やらで法律上難しい問題があるでしょう、がその携帯電話機には何かが隠れているように思えてならない。
 3人の力士が既に八百長の存在を認めたのですから、それで存否については充分でしょうが、他にも八百長がと思えてならない。
 今になって、私もやっていましたなどと名乗り出ることは考えられない。だから野球賭博の関係者の携帯電話のように瓢箪から駒はないでしょうが、携帯電話の存在が相撲界の八百長の行方を握っているように思える。
 既に何故八百長が、とその発生の理由を挙げるメディアがいて10両と幕下の給料の格差がありすぎるとか、色々言われている。
 大相撲で役力士を勤めた人がこれは八百長だとは思えないなどと話していた。戦う二人が申し合わせて取り組みをすると如何に見抜くのが難しいかを言い当てていると思う。
 2人の力士がぶつかり合って勝ち負けが決まる。八百長は戦う前から勝ち負けが決まっている。ここの違いをはっきりさせる。
 大昔から人情相撲などと言ってその勝敗に本当に真剣にぶつかり合ったのかどうか???と言う相撲があったらしい。
 心理的に力士が心に緩みが出ることは理解できる。しかし申し合わせてお互いが勝敗を決める。これが八百長です。
 膿を出し切るとはどういうことですかねぇ。


11年2月11日記
 注意しなくては
 先週に続いて携帯電話の話を。自宅には固定電話が転居来ある。20年前は周辺の電話線から特別地区の川瀬西牧場に1mに付きいくらで引き込み、約3kmの電話線は高かった。
 こちらから友人に連絡をする時は便利で良い。しかし他所からの連絡にも便利で、電話番号を知ってる人からは色々と電話が入る。(設置以来、電話帳には掲載していないが)
 電話の厄介なのは何の前触れもなく居間に闖入してくることだ。就寝中であろうが、食事中であろうが。
 選挙等で電話作戦とかをよく聞く、が加担しない。電話作戦ほど礼を失した訪問はない。それに電話で直ぐその人の意思が変わるとも信じていない。
 話は少しそれたが、現在、電話でも特に嫌いだった携帯を所持している。これは川瀬さんが冬の雪道で倒れて奇跡的に助かった。その後、川瀬さんが携帯電話を所持するようになった。私もその真似をしている。矢臼別の生活で、必需品と考える様になった。
 とは言え俄仕込みの携帯だから2年にもなるけれど、よく携帯することを忘れる。
 30数年も前から外航船には地球上、どの海洋からも電話をかけられる電話システムがあった。その時から、その電話を嫌ってきた人間。嫌い方は一方ではない。今は身の安全を考えて、少し考えを変えたが。
 携帯電話にしろ、ブログにしろ、HPにしろ今や自己主張の基地を宣言する世の中。そしてグーグルアースのアプリではたちどころに拠点を突き止められる。恐ろしい世の中です。
 だから他人様の名前をブログ上に掲げることは要注意。そんな、こんなでメールの功罪を肝に銘じています。
 裁判でどれだけ争っても審判できなかった八百長が、実在を証明してのですから。


11年2月4日記
 携帯電話の功罪
 3日朝の新聞電子版は八百長大相撲のあったことをまざまざと伝える記事を載せている。
その内に、もっと詳しく伝えられるのだろうが、ことの発端は相撲界の野球賭博にあったようです。つまりその時の捜査から関係者の携帯電話が捜査段階で押さえられて、その上消去されていた筈のメール記録が再現されて、八百長の発覚となったらしい。
 しんぶん赤旗しか読んでいないが、ネットのお陰でこの片田舎でもその気になれば情報はどんどん手にすることが出来る。
 野球賭博をお相撲さんが遣って、現在もその揺れが残って悪夢覚めやらぬ今、今度は土俵の中での話。生易しい話ではない。
 大相撲界を支える屋台骨に病巣が見つかってしまった。力士や親方、13人の名前が分かっていて、既に取り組み結果がその実態を表示しているという。
 過去にも八百長は問題になってきた。がその都度何事もなかったかのように、現在に至っている。
 野球賭博では捜査の対象にはならなかったけれど、相撲関係者の携帯を徹底調査するような事態になったなら、と思うと果たして相撲界はクリーンなのかと疑ってしまう。
 私はPCで文章を書いたりする。ファイルの置き場所を間違えて時にはそのファイルを迷子にしてしまったりもする。友人は心配しなくともPCの中にあるから心配無用、探せば出てくると。
 今回の携帯のメールの扱いでその事を改めて認識です。消したつもりが消えてくれなかった。
 相撲協会はてんやわんやの大騒動になるのでは。何と言っても協会の興行を八百長で見せようとするのですから、これ程お客さんを冒涜した話はない。


11年1月28日記
 国の負債額997兆円?
 27日、朝刊で見た国の借金額。2011年度末に997兆円になるという。前年度は943兆円だったというから、54兆円も借金が増えることになる。
 これは一体どういうことなんでしょう。日銀で紙幣を刷り増しすれば済むことなんでしょうか。
 何処でご破算をかけるのでしょうか。
 今の世の中、これで1年1年過ぎてゆくから不思議です。ドル紙幣もニクソンショックまでは金塊と交換が出来たのに、それからはただの紙切れに変わったことを思い出す。
 日本も中国もドルを沢山外貨として持っている。昔のように金塊とは交換できないけれど信用のみで成り立っている社会。
 経済や金融について何の知識も持ち合わせないけれど、それが今の世界の経済金融の規則らしい。
 国の信用がものを言う。とにかくドルを沢山溜めていて、昔ほど現生(金)には即交換は出来なくとも、紙切れであってもドル札がものを言う時代です。
 話は訳の分からん所に行ってしまったが、借金でやりくりばかりしてここ30年程が過ぎた。何時その道から立ち直るのか、日本政府のだらしなさ。
 2010年から1年間で54兆円の借銭。が溜まる所には溜まっている。分配が上手くいっていないのだ。
 今世界の所々で金欠病で破産するかも、と言う国が増えているらしい。分配がおかしいのでしょう。
 赤字を出さないで、生活をする。小渕さんと言うかつての首相が借金を恥じようとしなかった。その後のお歴々、皆その小渕さんよりも尚悪い。信用を良いことに借金財政を繰り返す。
 菅さんもその轍を今。困ったもんです。


11年1月21日記
 数少ない「ご意見」
 最近、このHPにご意見を頂いた。
 政治批判は認めるが自衛隊批判は認めないというご意見でした。つぶやきや、その他のページで世相批判をよく書く。
 ご意見を寄せて下さった方には、このページでお返事を。ご意見の動機は「演習場はいま」のようです。
 このページは自衛隊を否定する内容のページですから、自衛隊容認の方には嫌なページでしょう。
 どれ程自衛隊があり難いものなのかは災害救難活動を見ればよく分かるだろう、と。
 水害や震災などで自衛隊員の活動には確かに頭が下がります。それはその通りです。が、次に出るのが私のつぶやきです。
 本来は何が本業ですか、と言いたい。自衛隊という組織は、憲法違反ではないですか、と。
 年間、どれだけの自衛隊員が救援活動をしているか知りません。でも、5兆円近い予算で毎年毎年自衛隊を維持するくらいなら、自然災害時に派遣する救援組織を作れば良い、と。
 今全国で悪を滅ぼす鞍馬天狗ならぬ、伊達直人が福祉施設に施しをして話題になっています。決して悪いことではない。しかしもっと見詰めなくてはならない視点が欠けています。
 災害時の自衛隊員の働きも伊達直人に重なります。
 そもそもの自衛隊を考える時、災害救援の隊員の顔はカムフラージュの顔に見えてなりません。時の政権に利用されてはいけないと思っています。
 日本国内どこに行っても自衛隊と対峙しなくてはなりません。とっとと出てゆく所などありません、日本国民である限り。
 これで以ってお答えとします。


11年1月14日記
 矢臼別の地下水(西牧場の最も表層の)
 2006年1月初旬  62cm
 2007年1月初旬 114cm
 2008年1月初旬  85cm
 2009年1月初旬  52cm
 2010年1月初旬 109cm
 2011年1月初旬 165cm   左に掲げた数値は西牧場の自宅の井戸の水深値で地下6mの井戸の水深を表しています。
 現在使用している井戸は2005年の夏に完成し、それ以降世話になっている。2006年は初めての冬場を迎えての井戸水深で、この井戸で水枯れはしないのだろうかと、心配したものです。
 案の定、3月初旬には33cmの水深にまで下がってそれまでは井戸の底から30cmで吸い上げていた吸い口を15cmにまで下げて2006年の冬を過した。
 直ぐにでも井戸の再堀下げを考えたけれど、そのまま掘り下げもしないまま現在に至っている。
 よく調べると2009年は3月7日に水深が23cmまで下がっていて、これが最小値です。
 この頃、3月初旬、地下水位の日変化は−0.5cm位で、吸い口まで8cmあるということは16日の時間があって、この頃から地上からの水が降りてくる。
 だから3月初旬に井戸に水が23c残っていれば安心だったのです。それにしてもきわどいことに違いは、ない。
 今年は師走に大雨が降ったり、の関係で水の心配はしていない。自前できれいな飲み水を用意する、日々注意怠りなくです。


11年1月7日記
 このHPを続ける上で
 新年に当って心しなくていけないことを書いておきます。
 「愚痴」について。辞書を引くと、言ってもしかたのないことを言って嘆くこと。とある。
 最近ある方から「愚痴」を書いている、と言われた。
 自分自身は「愚痴」を言ってるつもりはなかったので、いささか慌てました。自身はそうでないと思ってはみても、他人様が「愚痴」としか読んでくれないなら、勝負ありです。
 1昨年亡くなったエーコさんが先ず最初に目を通してくれて、文字違いや、文字抜け等を直ぐにさがしてくれた。けれどページに「愚痴」がと言われたことはなかった。
 身近に居たエーコさんに訊いてみることも出来ない今、新年にあたって「愚痴」だけは書くまいと心に誓っています。
 少なくとも、ものを書く時は辞書を右手に置いて、自分にしか書けない話を、だれにでもわかる文章で書く。これが井上ひさしの説く作文の奥儀です。つまり矢臼別で生活する人間が、矢臼別の話を自分の言葉でわかるように書く。
 川瀬さんと会議の度に確認しあった、井上ひさしの作文教室の奥儀なんです。
 もう一度作文教室を読み直して、「愚痴」などは書かないようにしなくては。川瀬牧場から愚痴の発信ではもったいない。
 しっかりしなきゃ。新年の初めに。


10年12月31日記
 今年の矢臼別の〆は
 29日は第44回平和餅つき望年会でした。参加者は70人ほど。9時から始って閉会したのは午後の2時でした。
 午前中は餅つきで、午後になって昼食後に10年の10大ニュースが発表される。今年はこんなことが10大ニュースに。
 1.第25回「酪農の今、未来を語る」交流集会 最高の参加。
   4月25日
 2.核廃絶署名一斉行動。 3月〜4月
 3.11回目の海兵隊訓練。やりたい放題に徹底抗議、告発。
   5月〜6月
 4.氾二さん1年を追悼。                 3月〜8月
 5.自衛隊の横暴に繰りお返し抗議。              8月
 6.「日米関係を考える」会 発足、「安保の日」行動始る。 9月
 7.矢臼別平和委・文工隊「花いかだ」活動開始。「くさぶえ」有志の
   活動、子どもも登場、さらに広がる。
 8.「戦争体験」掘り起こし・伝える運動、広がる。
 9.渡辺佐知子さんデビュー。釧路鳥取九条の会で始めての講演、
   「矢臼別を語る」。11月
10.矢臼別平和委員会「会員だより」200号を発行。      11月  
 
 夫々のニュースに解説者が付いていて私は氾二さんを追悼して一言。楽しい餅つき大会となりました。(29日記)
 明日は新年です。皆さんいい年を迎えられますよう。


10年12月24日記
 スノーモービルの試乗
 11月の初めにエンジンが起動するかどうか等、半年振りにバッテリーを接続してテストは済ませていた。
 11月19日3回目の雪が降って、積雪10センチ、今冬の初乗りをするべくエンジンの起動はスムーズにいったが、モービルが動かない。
 未だ詳しくはスノーモービルの構造を知らないで利用している。だから頼りない利用者です。
推進部をロックした如くにびりっとも動かない。これは如何にと思ってスキーとキャタピラーの接地面を見るとその理由が分かりました。昨年までは木材板の上に停止していた。それを今年は土間に直においた。これがいけなかったようだ。
 約1m長のピラスチック製の左右の舵取りスキーに10cmの厚さで土が凍て付いてる。
 この凍て付いたスキー下面の土をきれいに除去し、続いてキャタピラーの凍て付きもジャッキで持ち上げて地面との分離を確認する。
 約1時間後に試乗するも舵取りのスキーが今一で再度板を磨くのに30分。2回目の試運転で結果はOK、ようやく冬の準備は整った。
 1昨年から始めた冬のモービル利用、調子の良い時はルンルンですが、まだまだドジが続きそう。


10年12月17日記
 駅前牧場の調教
 つい最近、そう先週のことだが「馬と話す男」著モンティ・ロバーツを読んだ。これは駅前牧場の馬主、T獣医から借りた本で10年ほど前に出版された。
 ピンロクを調教中に読んでおく方が良いと、薦めてくれた本。著者が書くまでは力尽くで馬をねじ伏せる式の調教が主流であったらしいが、馬と話が出来るモンティ氏が一躍世界的に脚光を浴びて、馬が嫌がることはしない、調教術が知られることになったらしい。
 モンティ氏は健在で77歳のアメリカ人です。
 馬が何を話し何を望んでいるのか、子供の頃から馬と接してきた著者の様に、俄かには行かないが、こうすれば良いと言う術は良く分かる。
 まだ駅前ではピンロクを4回ほど走らせただけで、海のもんとも山のもんともだが今冬、駅前牧場に預かってもらい、何とか飼い主と会話の出来る人馬の関係にしたい。そんな気持ちで一杯です。今からでも遅くはない、野生馬から家畜に育てなくては。
 馬が飼い主の心を読むことは知っていて、愛情を持って接しないと相手も懐かないことは20年馬と対してきたので分かっていた。基本的なことはぼんやり分かっていた訳で、今後は具体的にどう接して行くかが課題だと思っている。
 未だ4回の接触だけど、引き綱を引くと私の歩く後を付いて歩くようになった。雪が降って道が不自由になる前までに調教を一段落したいのだがなぁ。


10年12月10日記
 農園の拡張工事
 12月6日夕刻、フェンスの拡張工事を略終りました。これで来春のベリーの増株がやりやすくなった。
 以前のフェンス支柱は木製の杭だったが、今回は鉄製に変えた。フェンスを縛り付けたり有刺鉄線を張巡らす時には鉄管支柱に鉄製ネジ釘をねじ込んで、針金で縛る。
 先月まではその仕事が上手く行ったのに、12月入ってからはそのネジ打ちが出来ない。何故出来なくなったか。外気温が下がって鉄が固くなったから、そう判断します。
 12月6日は夕刻も気温が5℃くらい。日も西に傾いて林の上に近づいていた。が今日をおいてネジ打ちの日はないと試みた。予想は的中、20本ほどを鉄の支柱にネジを打ち込んだ。
 気温の数℃の違いでネジ釘が撃てたり、撃てなかったり、矢臼別では色んなことを体験します。
これで拡張工事は完了したようなもの。来春はべりーを増やします。
 工事が完了するまで一部が侵入される状態で鹿に侵入された。その為にフェンス内のサクラの春芽を早食べられたりした。100%鹿侵入を防いでいるとは今は思えないので、当分は鹿の侵入には注意を払わなくては。
 こちらは侵入に対して気を揉み、相手は何とか美味しい物をと必死に侵入をです。
 難題と思っていた拡張工事、師走の初めに完成、良かった。


10年12月03日記
 久しぶりに本を読む
 思いやり予算や、海兵隊のことを書いた本、2冊を読んだ。1冊はつい最近赤旗紙面で見た「イラク戦争の出撃拠点」山根隆志、石川巌著、あと一つは「従属の同盟」著者 赤旗政治部「安保・外交」班です。未だ読みきっていないけれど今の社会を見る上では必要な知識を注入してくれる本です。
 「イラク戦争の出撃拠点」は7年前に出た本だが、決して内容は時流に遅れてはいない。特に海兵隊のことではなるほどと思うことばかり。ああそうだったのかと。この本の著者お二方は川瀬牧場に何年か前にお見えで、面識のある方々。丁度海兵隊が矢臼別に入っていた夏だったことを思い出す。
 後者は最近出た本で、普天間で知事選の争点になったばかりですから何が本当かを判断する上で為になる本です。そう思って今読んでる最中。
 後一つは「松本清張論」でこれも面白い。それにNHKが「坂の上の雲」を又喧しいほど宣伝している。
 物を見るに、色んな視点で眺める。そうしないと見誤る。しんぶん赤旗が絶対と思っていると、落とし穴に入ることも。でもしんぶん赤旗には色んなことを教わることが多い。
 絶対はいけないと教わったのは16歳の頃でした。それが今も頭から抜けない。だからこれは絶対とは思わないようにしている。
 本を読んで、これは良いことを知った、と思うことがあったら、それは大儲けをしたと思うことにしている。時たまこれは何だったのかと思う本にも会う。
 しかし今回は大儲けをした、そんな思いで読破中です。


10年11月26日記
 久しぶりに映画を
 海兵隊の訓練基地を撮った「ONE SHOT ONE KILL」を観る。3年前に撮られた記録映像を109分に編集したドキュメント映画。
 「マリンゴーホーム」を撮られた藤本幸久監督、プロデューサーの影山あさ子氏は何年も前から「とりで会館」利用者として面識がある方。海兵隊のブートキャンプを撮った話は早くから聞いていて観たいと思っていた作品。
 日本語に訳したら「一発必殺」と訳すのでしょうか。怖いタイトルです。このブートキャンプの撮影話を聞いてから、海兵隊を見る眼が変わりました。
 イラクのファルージャで市民を虐殺したのは米海兵隊だと聞いているし、とにかく殴り込みをかける軍隊として名を馳せているのが米海兵隊です。
 藤本幸久監督も、プロデューサーの影山あさ子氏も「マリンゴーホーム」を撮影時、沖縄で目にした米海兵隊員はどこからやって来たのか?、が出発点だったらしい。
 写真のページで掲載した頭髪を短く刈り込んだ色んな顔をした若き青年が何者かを「ONE SHOT ONE KILL」が明確に教えてくれます。これ程分かり易く見せてくれる映像、良くぞ撮ってくれました、と絶賛したい。
 写真のページの海兵隊員、撮影日は2005年8月25日の午後でした。屈託のない米国青年に見えるけれど戦場に立つと、立派な殺人ロボットに出来上がっている青年達なのです。この時はつゆ知らず、でした。
 米軍の上官の命令一つで何でもこなす有能な兵士なのです。米国の為に。日本のためにではない。
 沢山の人に観て欲しい「ONE SHOT ONE KILL」です。米海兵隊は抑止力、どこからそんな言葉がでるのでしょうか?


10年11月19日記
 13、14日の世論調査
 16日朝、朝日電子版で菅内閣の世論調査結果を見る。支持率37%、不支持52%とある。有言実行内閣と自ら命名した菅さんだが、国民はそうは見ていない。
 総選挙を直ぐにやれとの答えは出ていないようだが、菅さんにはがっかりした、との結果のようだ。
 一番驚くのは民主党には党の綱領がないこと。今の政権の旗印は1年少し前の衆院選の政策と今年、参院選の政策があるだけ。
 最近騒いでいるTPPだって思い付きのように言いだした政策だし、尖閣沖のビデヲ問題、北方領土問題でも、ふにゃふにゃしていて芯が無い。
 せっかく交代した政権なのに自民党がやってきた政治を真似ていては変革はありえない。おカネが無いから児童手当も約束通りに払えませんと言い出した。
 それ程に財政で余裕が無いのに矢臼別では砲弾は撃ち放題。不思議と事業仕分けには顔を出さない軍事予算。
 米軍基地関係者の住宅にはびっくり仰天。間取りや風呂の数でしかつぶさに言えないけれど、ゆったり部屋と風呂の数も複数で、御殿に暮らす米軍人。
 とにかくグアムに基地を造るために国税を注ぎ込む日本国政府。これでは菅さん支持されよう筈が無い。自公政権がやってきたことを真似ているんだから。
 八ツ場ダムの工事を中止と言ったり、中止を棚上げしたり。大臣が代わったらたちまち方向転換。これでは菅さん支持される筈無いですよ。 法務大臣もひどいねぇ。(18日夜)


10年11月12日記
 TPPって何だ
 昨日、9日は外出したので衆院の予算委員会は細切れに垣間見た。そこで聞いたのがTPPです。日本語で言うと環太平洋戦略的経済連携協定とある。
 どの新聞を読んでも10日朝の電子版ではこの話し合いに乗り遅れてはいけない、と乗ることを勧めている。しかし「しんぶん赤旗」だけはこれに乗ってはいけないと。
 北海道では昨日の降雨の中をTPPには反対とデモ行進をしていた。現政府、農水省の発表だが、これに乗ると行く末、食糧自給率が14%になると。
 北海道では現在、米作りが盛んだが関税が無くなれば外米に値段で太刀打ちできなくなってしまうと言う。
 米を作って飯食えない、と言う記事を読んだがそれが現実になりつつあるようです。だのにその上関税ゼロになったら、もう米作りはあがったりで、輸入米になってしまう。
 自動車を売ったお金で外米を買えれば良いけど、買いたくても外米が買えないとなったら、どうするのでしょうか。
 レアアースとかを輸入できなくて困った、の比ではなくなるでしょう。菅さんは何を考えているのしょうかねぇ。
 米だけは自給できる農産物なのに、それさえ放棄させられるTPPの行く末。日本国民は許してはいけない、そう思います。
 しんぶん赤旗を読むとそう判断するのですが他の新聞はそうは書かない。どうなっているのでしょうかねぇ。
 矢臼別では米は作れないけど、ジャガイモは自給できます。さあという時はジャガイモで生きようと気を引き締めています。


10年11月5日記
 紆余曲折があって
 井戸の給水ポンの話。10月は「矢臼別平和公園通信」の発行と野菜の収穫と井戸のポンプの不調とが重なって、西牧場の主は気を揉んだ。が11月2日現在夫々が上手く納まって、ことは順調に進みました。
 特に気を揉んだのは給水ポンプの不調でした。11月3日、蛇口を開けないで、ポンプが何分間止まっているかを調べたら、初回は24分間、2回目は28分間でポンプが起動した。
 ポンプの吸い口のフランジでにじむように漏れがあって、そこを増し締めしたら4分間長くなった。28分も停まっていてくれれば御の字だと思っている。1昼夜で9分の運転なら気にはならない。
 不調の時は、色んな条件が重なって次から次と、酷いときは10秒ごとに10秒運転などと投げ出したくなるような事態になった。
 その度に冷静に状況を分析して一つ一つ詰めて行った。素人なりにきちっと仕事をすると結果が出ることが分かった。
 井戸のことについては支援してくれる人がいて、その人の知恵も拝借します。今回の顛末は話しをしていませんが、一人だけで事を済ませるには色々と苦労があって、顛末を語れば、話に花が咲くでしょう。
 最近の気象状況には異常が多い。というのは異常降水が多いこと。裏返せば何時水不足に襲われるか分からない。だから今の井戸で上手く冬を越せるかどうか、用心しなくては。4年前には井戸の水深が33cmに成った。年間降水量が700mmを切るようだと間違いなく今の井戸は枯れるだろう。 まあ、先先の取り越し苦労は止めておこう。


10年10月29日記
 収穫祭は間もなく
 牧場のページで書いておきましたが、今年は井戸水の給配水管で色々とトラブルがあって、日々の時間配分が上手く行きません。
 井戸掘り、ポンプの据付から配管など、皆自分が行った仕事です。責任はすべからく自らに降りかかります。
 とりで会館の落成は13か14年前になるかと思います。その配管の分岐点にストップバルブを付けました。今回はそのバルブが機能しないで漏水している事が分かりました。その為にとりで会館を冬支度した時に100%とりで会館には給水はしていないと思い込んでいました。
 だから漏水は自宅への配水管と思い込んで対処していました。その盲点をつかれた訳で解決が長引きました。
 今は、ポンプ起動の問題は解決と考えています。しかし次から次と課題は出てきます。思えば切がありませんから今秋の仕事、農作業に専念しなくては。で収穫祭は来週にでも。
 それでざっと品目の収量をメモします。
 ジャガイモ=200kg、半作 芋が小粒で数が4ないし5個
 人参   =並作
 花豆   =並作、34kg 早く植えたので秋の霜害なしに。
 カボチャ =18個、 5株で並作か。
 大根   =並作
 温室内  =トマト、キュウリ、並作 たっぷり味わう。
 ベリー   =110kg これは大豊作か。1昨年35KG、昨年3.5kg
 特筆すべきはブルーベリーの出来。これに味を占めて来年は120株を増やす計画を。
 朝のパン食にはベリーのジャムを必ず添えます。目に良いという能書きの程は分かりませんが。とにかく自前と言うのが良い。


10年10月22日記
 秋の健康検診
 18日は秋の健康検診日。と言っても特別なことはしていない。3カ月に一度の血液検査と1年に一度の胃カメラ検査です。
 毎秋の年中行事になっているのが胃カメラを飲むこと。もう70年余も生きて来たのでそろそろ胃カメラを飲むのを止め様かと思ったりもする。が今年も飲んだ。
 友人のお父さんは私とほぼ同い年。その人がやはり1年毎に検査をしていて胃の異常を発見したという。
 やはり自分も受けようかと思い直して、カメラを飲むことに。自分が飲み方を上手になったのか、先生が腕を上げたのか、何の苦も無く簡単に飲める様になった。
 私は医師の技術が第一だろうと思っている。とにかく昨年から胃カメラを飲む事に抵抗感がなくなった。
 それに血液検査も特別に病理もなく、胃の方も年並みの状態で、又来年と言われた。後は馬の捕獲や畑の手仕舞いで無理をして怪我をしないことだと思っている。
 医師に年相応の胃だと言われて、「そうか俺の胃も年を取ったんだ」と、つい心中笑ってしまった。若い女医さんユーモアたっぷりで、良い検診日で終りました。
 又1年頑張るぞ、と心中小さく誓った。


10年10月15日記
 北国の生活習慣
 北海道で生まれ育った人は子供の時から寒さの度合いを良く知っている。そして大人は冬場、露地で水を使わない時は水を地上に出さないで、地中で遮断する。そうしないと水道管を破損してしまうから。
 もう21年も矢臼別で過したので冬の生活習慣は身に付いてきた。が時々そのことを失念したりする。そしてひやりとすることが。
 駅前市街にエーコさんの住んでいた家がある。それに川瀬西牧場には「とりで会館」があり、東牧場には「平和の家」があって、3箇所の水道管の冬支度は私が管理している。
 農作業もだが、この仕事はおろそかにはできない。それで来週はこの仕事を終わらせたい。
 とにかく凍結による水道管の破裂事故は冬場、必ず新聞に載る。載らなくともこの事故は多い。北国の習慣を身に付けていないポカだろうと思う。物忘れの多いこの頃、終ってもいない冬の準備を思い違いのないようにしたい、そう思って書いている。
 水洗便所のシャワー便器などは水抜きをちゃんとしていないと、使用不能に陥る。水抜きを忘れないことです。給湯器だって同じです、水抜きが不十分だと管系統が破損する。
 冬がそこまでやって来た。手抜かり無きように冬の生活習慣をしっかりと守らないと。年中生活する家屋では何ら問題はないが、留守にする家には欠かせない作業の一つです。
 3日も4日も家を空ける時はしっかり水周りを手仕舞いして出かけないとえらい事になるのです。
 実は自慢できない失敗があるんです、ははは。書きませんが。


10年10月8日記
 良い記事を読んだ
 古い記事だが9月21日付の読売コラムを読む。社説は目を通すことは多いけどコラム記事を見たのは初めて。どちらかというと政府広報誌のような記事が多いので電子版でもトップ記事に目を通してお仕舞いになることが多い読売新聞。
 10月3日はどうしてなのかコラム欄をクリック。「綱領なしの民主党は背骨がないに等しい」これがタイトルでした。
 2大政党と呼ばれる民主党に綱領がないのを知らなかった。背骨がないから姿勢が定まらない。これは良く書けている。
 菅さんが消費税のことを突然言い始めたのも納得。思い付きで何を言っても良いのだ。咎める基準がないのだから。
 政党綱領のないのは「みんなの党」もらしい。マニフェストというものは選挙の際に私たちはこうしますと公言する一つの物差しだが、どれ程の拘束力を持つかは今の民主党が何をしたかで良く分かります。
 この読売コラム記事は良く書けている。そう思う。政党にとって憲法のような物が欠落している民主党です。勝手気ままに時の党首が演説してそれを政策化する。
 普天間基地を県外にと言って騙したり、消費税の増税を言い始めたりその時ばったりの演説を出来るのも分かる。
 どれだけ沖縄県民が県内移設反対でも、アメリカ言いなりに流れる。これが綱領を持たない政党の実態なのでしょう。
 読売を読んで良かった。たまにはこんなこともあるんだ。
<font size="-1"> </font>2大政党なんてメディアは煽っているけど、綱領を持たない政党なんて笑ってしまいます。
 いい加減な政党なんですねぇ。


10年10月1日記
 住人は二人に
 昨日28日午後、お隣のWさんが東牧場に帰られた。元気な声を聞いてホッ。29日からは牛の水遣り当番がなくなった。私の馬飼いとは大違い、何が違いか、ここ5年は馬に水を与えたことがない。
 5年前の春先3月だったか、井戸が枯れて水が出なくなった。正確には井戸の径11cmの塩ビ管が土砂で詰まって水の汲みあげが出来なくなったのだ。10年前には50万円でボーリング出来たが、今は100万円と言われて業者のボーリング、掘り直しは諦めた。
 この時は若かった、一人で八割方掘って、残り二割はプロに助けてもらって実費30万円足らずで現在使用中の井戸を掘りあげた。
 再び自前の水道を使えるまでに5カ月が経っていた。馬に水どころではなく、自分の水を駅前の市街に出る度に4リットルの焼酎ボトルに入れて自宅に運んだ。車が入る5月までは春先は雪の上を、雪が解けてからは笹の上を橇に8ボトル載せて運んだ。
 その内に雪が消え、馬たちは水のみ場を探して私からの水は欲しがらなくなった。冬場は雪を食べ、夏場は谷川に行って水を飲む。
 だから冬場に乾草を用意するだけで後は一切関わらない。それが私の馬飼い方になった。
 だから毎日60リットルほどの水を200m程離れた放牧場に運ぶWさん、良く頑張っていると思います。
 その内、川瀬流の馬飼いをWさんにお伝えしようとは思っています。が、採用されるかどうかは分かりません。
 特別に川瀬さんから教わった訳ではないけれど、川瀬流馬飼いなかなか乙なものです。


10年9月24日記
 久しぶりに水の問題を
 地下水がなくて西牧場が困っている訳ではありません。水の汲み上げ装置に欠陥がある話です。街中で暮らしてると気にならない事でしょうが、ここは原野の中、自前の井戸から電動ポンプで水を汲み上げて台所その他に供給する。
 井戸の電動ポンプは出口の栓が開くとポンプにスイッチが入って動き出す。ところがつい最近、20秒おきくらいにポンプが動き出す。
 思い当たるところあって、地下90cmに配管した出口調整弁を掘り返して調べた。掘るのに20分はかかったか、異常なし。その他3箇所も出口の漏れを弁の操作で確かめた。が何れも異常なし。これらは地下90cmにあって目による確認ではない。
 ここでメーカーに電話でポンプの特徴を訊ねてみた。すると出口だけでなく吸い口の方のバルブにも密封性が欠けるとポンプが駆動すると言う。
 後日バルブ部品を取り寄せ、取り替えて試運転をするも、今度は2分おきにポンプが起動する。問題は解決していないのです。
 生まれが紀州の潮岬に近い温暖な地方です。水道管が地上に露出していても年中、凍結するようなことはない。
 ここは冬場は20cmほど地面が凍って標高が高くなる地方。見えない所を見るがごとくに理を詰めなくてはならない。
 大げさに言う訳ではないけれど、それなりの知識が求められる。未だ問題は未解決のまま。
 暖かい内にやるべきことを遣ってしまわないと、気が揉めます。


10年9月17日記
 グアンタナモ収容所
 居間で花豆の鞘をむきながら、日曜日にNHKテレビを観た。世界各地からテロリストとして捕らえられて収容、そして釈放された人たちを取材した番組でした。しながらのテレビ視聴ですから認識の度合いは低い。
 が随分酷いことをアメリカ政府はしている。酷いことをするのを知っている積りだが、テレビを観て改めてブッシュ政権の酷さを認識した。
 アフガンに報復戦争を仕掛けた当時、テロ撲滅の名の下にアメリカは、いや日本でも、アフガンにイラクに侵攻することが当たり前のような空気が漲っていた。
 川瀬さんに聞いた話ですが、「何故テロが起こるのかそのことも考えないと」、と話したらそれはテロに組する論だと。そしてその意見は一蹴されたと。
 容疑者は推定無罪などとよく言われる。裁判の判決が出るまでは白扱いと言うことだ。だが グアンタナモ収容所での容疑者には人間扱いをしていなかった。そう釈放された人たちは証言していた。
 つい最近、郵便行政で不正があったと裁判にかけられていた女性が無罪判決を受けた。あちらこちらで不正が横行する。不正とは権力側のだ。
 権力を持っている側は遣りたい放題、そういう思いがしてならない。
 特に世界規模ではアメリカがすき放題に振舞っている。それに付従う日本政府。60年余も付き従って、なお進化をなどという最近の日本国政府。
 大樹の陰に入ろうとする日本国。決して大樹でないことを教えてくれる番組でした。


10年9月10日記
 焚書のこと
 焚書を辞書で見ると、異端の書として焼くこととある。8日の赤旗7面によると、米フロリダ州の小さなキリスト教会が米同時多発テロ事件の9周年記念日に、イスラム教の聖典コーランを焼却する集会を計画していることについて、アフガン駐留米軍司令官らが6日、アフガン駐留米兵を危険にさらすものと警告した、と。
 赤旗の同じ7面には外国人死者 最悪ペース アフガン 今年500人に の見出しがあってアフガンでの侵略戦争が泥沼化していることが伝えられている。
 米軍のペトレアス司令官は国際治安支援部隊のトップでもあるが2000人増派を要請の記事も出ている。
 武力でアフガンでもイラクでもパキスタンでも抑え込もうとする米国。しかし何も明るい兆しが見えない。
 焚書で引き立てられるのはイスラム世界の反発だけだと思う。だから先の米軍司令官の警告は的を得ている。
 キリスト教のこともイスラム教のことも知らないけれど焚書行為は相手を怒らせるだけでしょう。その様なことは戦を指揮するトップにとっては遣って欲しくない行為に違いない。
 世界人口の約20%がイスラム教徒だ言う。決して異端などではない。それを異端視して焚書にする。
 これでは上手く納まる筈がない。
 仏教的な社会環境で育って70年余、ごちゃまでの知識しか持ち合わせないけれど相手を傷つける行為は慎まなくては。そう思います。


10年9月3日記
 イラクとアフガン戦争
 イラクからアメリカが戦闘部隊を撤収し、未だ5万人もの兵がイラクに居ると言う。その間、7年5カ月でイラク市民を10万人殺害し、米兵も4400人死んだと言う。
 戦争の大義は嘘で固めた大量破壊兵器の所有。ところが何もでてこなかった。この戦争は何だったのか。言いがかりを付けて侵略する。大儀なき侵略戦争です。これに加担した日本政府。なのに何の反省もなく、又アフガンに自衛隊を派兵した。
 アメリカのブッシュ前大統領はその戦争責任で知らぬ顔をしているが、ブッシュさん日本の東條さんと同じ罪名の戦争責任者ではなかろうか。10万人の市民を殺害して、のほほんでは済まされまい。
 船乗り時代にクウエート港で会ったウオッチマン(パレスチナ人)とドバイ港で会った同じくウオッチマン(アフガニスタン人)の話を何時も思い出す。
 前者、俺が家族にカネを送り息子に闘うことを伝えないと誰が祖国を守るのか?、後者は俺が家族に送金するのは外国の連中に祖国を蹂躙されたくないから。当時アフガンは現ロシアと戦っていた。
 侵略したら必ず追い返される。それが歴史の証明するところです。オバマさんはその事を理解していないようです。イラクでは少し分かったようですが、アフガンでは何も分かっていない。日本の菅さんも同じです
 がイギリスでは、そしてオランダでもイラク戦争の検証が始っている。日本国は知らん顔、情けない日本国。アメリカの後にくっ付いてばかり。


10年8月27日記
 ヘリが落ちた
 8月18日、海上保安庁のヘリが墜落した。つい最近山の事故で救助に出向いたヘリが、埼玉でも山中に墜落した。ヘリの受難続きだ。
 海上保安庁のヘリ事故もその内に事故原因が明確にされるでしょう。田舎の老人の独り言を。
 送電線の存在を操縦士は認識していなかったのではないか。これが直感です。航空地図を全く知らないが、これから飛行する地上にはどのような障害物があるかを明記した図面があるだろうし、知ってなくては飛行は出来ない、そう思う。
 元船乗りの感覚で話をすると、これから航海する海域の水深が最も知っておきたい情報です。自船の喫水より浅い所は避けなくてはいけない。基本中の基本です。
 ヘリの操縦士は送電線の存在を認識していなかった。だから飛行をした。ここには送電線があると知っていたら飛ばなかったか、飛んでも充分避け得たと思う。
 船に乗って間もない頃、伊豆下田沖の暗礁の通過が難しい事を、私の田舎では数少ない甲種船長に訊く機会があった。すると「そんな危ない所には近寄らない」ことだと一言。
 その後、危ない所には充分余裕を持って通過する。これをモットーにしたことは言うまでもありません。とは言え反省の多い日々でもあります。
 保安庁のヘリがどうして飛行計画になかった空域に飛んだのかが、運命の分かれ道になったのでは。
 事故を起そうにも起せないようにする。これが安全作業の原則と言います。が、どこまでそれが行き届いていることやら。


10年8月20日記
 731部隊の存在
 ここ1週間は夜中に起きていることが多い。確か10日、のNHK特集を観る機会があった。
広島に原爆が投下されて直ぐに日本陸軍の医療班が原爆による被害の調査を始めた。その事を伝える特集です。
 NHKアーカイブを観れば何方様でも確認できることですが、眠気眼で観たドキュメントの粗筋と何故敢えてこのページに書いたかを。
 原爆被爆で65年過ぎたいまでも被爆認定されずに苦労している人が多い。何故そうなのか。
 最も貴重な被爆直後から始められた諸々の調査記録がそっくりそのままアメリカに手渡されたことです。
 膨大な記録がつい最近までアメリカの図書館に眠っていた。それをNHKが放映した、それがNHK特集でした。
 何故アメリカに渡ったか?日本の戦前の軍部が行った731部隊の中枢がより自分たちの懲罰を逃れる為に、そっくり被爆の調査記録を売り渡した。
 調査の為に広島に入市した人の2次被爆のこと等、又どのような地理関係で死者が出たかなど、アメリカは記録をほしいままに利用。
 関係者が存命していて、その事実を証言している。「玉砕」とは何だったかも翌夜中に観た。昭和天皇の軍隊は酷いことをした。
 731部隊の悪事を隠す為に原爆被爆調査がそっくりアメリカに売り渡された。今の時期、何時も思い出される昭和天皇に繋がる悪事の数々。
 何故アメリカにそっくり被爆調査が渡ったか、「731部隊」の懲罰をより有利にするため、とは。この部隊は悪魔の部隊です。


10年8月13日
 静かな川瀬牧場
 8月6、7、8日とその前4、5日。人と車が広場にどっさり居て賑やかなキャンプ場に。それも8日夕刻には車1台の静かな川瀬牧場に。それが川瀬牧場の自然体なのですが、1週間足らずの8月の第一週は盆踊りで燃え上がる。
 私は第22回大会から盆踊りに初参加している。久しぶりに盆踊り打上げの8日、昼食会に参加した。昼食のメニューは手巻き寿司が恒例で、生魚を食べない人間には食べるものがない。それで何時もパスしていました。が、この日は久しぶりに昼食会に残った。寿司飯にキュウリを添えて食べる。ご飯が良く炊けていて、おまけに腹がすいているので、美味しいこと美味しいこと。
 食後には裏方さんの紹介があった。第1回目からの裏方さんが居てそういう人には頭が下がります。また兵庫から大阪から東京から札幌から事務局から呼ばれもしないのに8月になると川瀬牧場に集まってくる人たち。
 そうなんだ、呼ばれもしないのに手弁当で集まる裏方さんたち、これが矢臼別の盆踊りなんだ。又来年まで頑張るぞ、と心中誓って会場を後にした。
 誰が言ったか、第50回目を元気に迎えようでした。後、4年は頑張ると言うことです。私は昨年に引き続き西牧場の新住人の募集をしておきます。
 東牧場は川瀬さん亡き後、Wさんが6年目の夏を過された。早く西牧場にも新住人を見つけなくては、これが大きな課題です。
  新春早く若葉をつけた白樺がはや道路に葉を落とし始めた。
 

10年8月6日記
 毎月購読の読み物
 色々あるけれど、1年間で一度でもこれは良いことを教えてくれた、と思えたらもっけの幸い。そう思っている。
 最近の出色は安保廃棄という新聞。7月15日・8月15日合併号です。特に4面の日米安保と国民の暮らしが1ページにまとめられていて好い。
 常日頃、この新聞は他紙に比べて字が小さくて不満を持っているのだが、同じ紙面で沢山伝える為にこれもやるかたなしか、と。しかしこの号で日頃の不満は吹っ飛んだ。
 安保廃棄が何故必要なのかがすーっと腑に落ちる内容です。これは大事に取って置いて、読み返したい。
 それに沖縄の基地問題の記事も1ページに書かれていて、大儲けをした気分になります。
 詳しくは直接記事を読んでいただくとして、毎度読む新聞記事で大儲けをしなくとも、1年で一度でもその様なことがあれば、で安保廃棄を紹介しました。
 言わずもがなを書きますが、他人の眼を紙面に引きつけるのは書いている内容にあることを改めて知りました。字面は小さくても、次々と読み進んで4面をおわり、5面もあっと言う間に読み終えました。
 これは読まなくてはと思って1週間ほどそのままにしていましたが、好い記事を読ませてもらいました。


10年7月30日記
 今年の盆踊りは46回目
 8月6、7、8日の3日間です。盆踊りの本番は7日です。設営隊と言って盆踊りの舞台設定や宣伝旗立て等で、例年3日前からボランティア作業が組まれる。
 私も公園クラブのテント張りで1日前から参加する。もちろん「とりで会館」の宿泊準備などもしておかなくては。
 それに最近は西牧場に楢の大木があってそれを見に来る人もいるので、道の確保もしておかなくては。
 樹齢200年、いや300年とも言われる木ですから、今や矢臼別の主的存在になりつつある。樹幹の周りにはあまり人が近づかないのが好いのかも知れん。とにかく立派な大木です。
 盆踊りに参加される方は前夜祭からの参加をお勧めします。最低2日くらいは川瀬牧場に滞留して頂かないと、矢臼別の原野の好さは分かって貰えないかも、そんな風に思います。
 宿泊は東牧場の矢臼別ホテル、同じく「平和の家」、西牧場には「とりで会館」があります、平和の家、とりで会館は私が取次ぎをいたします。
 書き忘れていました、踊りが始る直前に、打ち上げ花火があります。これは夏の夜の思い出に残る筈。
 沢山のご来場をお待ちしています。



10年7月23日記
 時速四<font size="-1">キロ</font>の人生
 上の見出しは川瀬氾二さんのご遺族が建てた川瀬記念碑の碑文です。私が「時速四<font size="-1">キロ</font>の人生」を聞いたのは川瀬さんから、で川瀬さんの生き様をそう表現したのは根室の写真家・平野禎邦氏です。
 川瀬さんも平野さんも今は亡き人、もうその経緯を確かめる術は無い。矢臼別に転居して間もなく平野さんには西牧場でお会いした。JRPという写真集団の会員であった関係でわざわざ会いに来てくれたのです。写真家平野禎邦氏の「北洋」は歴史的な写真集だと思っている。今は絶版になっているらしいが。
 北海タイムスという新聞の写真記者をしていた時に矢臼別に取材に入って、掲載された記事で「時速四<font size="-1">キロ</font>の人生」が出たらしい。そう聞いた。
 川瀬さんは石碑などは建てるな、と遺言したけれど、川瀬さんの人生を語る上で、このフレーズは至言だと思います。
 時速四キロとは人の歩みを言う時に使われる。コツコツといっぽ、いっぽ歩を進める。矢臼別で生きた姿を、そう表現させたのだと思う。
 ここに転居して21年、隣人として私が感じたのも毎日コツコツの歩みでした。ご遺族がこの「時速四<font size="-1">キロ</font>の人生」の記念碑を建てられたことをお祝いします。
 川瀬さんの矢臼別ぐらし58年は「時速四キロ」だったからこそ、と思います。ここに生活する人間にとって、為になる道標だと思います。私もそうありたい。 



10年7月16日記
 藤沢周平を読む
 最近と言っても今年に入ってからの話だが、藤沢作品を読むことが多い。文春文庫で10冊ほど読んだ。
 先日は隣町に買いに行った。わが町には本屋が無い。色々理由をつけて40km離れた隣町に出かける。
 何時も買いに行くのは映画化された作品が宣伝されてからだ。今回は「必死剣鳥刺し」が映画化されたという。映画は直ぐには観えないので先ず原作から。
 日曜版にも映画の出演女優が紹介された。映画は釧路にかかってから観に行けば好い、先ずは原作から。
 「花のあと」も映画化された。が未だ映画は観ていない。原作は江戸時代の東北の藩の物語です。が書かれている内容は現在その物だと思って読む。
 作家は現在時空を何百年も遡って東北の城下町へと案内してくれる。そして色んな出来事を語ってくれる。
 「必死剣鳥刺し」も「花のあと」も東京暮らしだったら直ぐ見に行くところだ。が、矢臼別ではそうも行かない。テレビにかかるのは何時のことやら。
 映画には映画の良さがある。原作から読者が膨らます想像世界はこれはこれで、自由そのもの。ただ「花のあと」で今、分かっていることは映画の主演女優は美人です。が原作は美人とは書いていない。確かそう書いてあった。まあ、それはそれでよし。
 釧路で映画館にかかるのは何時の日か。楽しみ。
 知らないだけで藤沢作品は他にも映画化されているようです。
  


10年7月09日記
 消費税の陰に
 7日の電子版を読んでいて思ったこと、消費税の増税が俄然民主党の支持にかげりを見せている。それは由として見逃せないことが一つ。衆院の比例部分の80議席削減案を秋の臨時国会に提出、と菅さんが言ったこと。
 今、メデェアの選挙速報では与党が過半数を占めることは微妙だとも。これは消費増税話がじわじわと有権者に伝わってだろう。
 今参院選では亜自民新党が伸び悩んでいることも伝えられている。しかし共産党が最も旗幟鮮明に2大政党の政策に反対しているのに世論調査で支持が増えない。これが腑に落ちない。
 33%の投票先を決めていない有権者がいて、この層が共産党に票を入れてくれれば世の中、早く変革する。しかしそうは簡単に行かない。ただ可能性は残っている。
 衆院の比例部分の削減法案の提出は唐突でも、思いつきでもない。ことは首相、幹事長、国対委員長の発言で、これは与党の確たる政策です。
 今の日本のメディアには民主主義の危機が見えないらしい。21世紀の選挙は比例制に・・が大きな流れ、と言われている。
 先週も書いたが、この法案が可決されると少数党の意見は国会に届かない。自民党政権の末期に国会が3分の2議決に陥ったことで、少しは独裁国会の悪夢から覚めた筈なのに。
 無駄遣いの言葉に翻弄されて、貴重な国民の意を運ぶ比例選出による代議士をなくす法案を許してはいけない。
 その為に、比例削減法案に反対する共産党を押し上げなくては。
 世の中おかしくなります。



10年7月02日記
  比例定数の削減案
 しんぶん赤旗6月28日日刊の主張欄を読んで、つかえていたものがすっかり取り除かれて納得。この日の3面には議員一人の歳費が如何程かも書かれていて話が良く分かる。
 民主党が参院選で衆院の比例定数の80議席削減案を参院選後の国会で提出すると言う話。先ず問題なのは民意が反映されるかどうかの点。小選挙区になってしまうと少数意見は国会に届かなくなる。極端な話49%の民意は51%の民意に打ち消されてしまう。つまり死票になってしまう。
 共産党などは衆院で180の比例議席でかろうじて国会に議席を確保しているのに、80の比例議席が無くなるとどういうことになるか。ますます民意は国会に届かなくなる。
 国会議員の歳費は一人で7000万円とか。80人削減で56億円の歳費削減ではある。が削減を言うなら民意の削減ではなく政党助成金の削減を。と、赤旗は説いている。
 民主党は仕分け作業で図に乗っている。しかし政党助成金は仕分けの対象にはなっていない。政治とカネ問題でも頬被りをしている。
 思うに、年間320億円の政党助成金は政治とカネを解決する為に、とスタートした筈。が何のことはない血税のねこばばに場に。
 共産党は立派だと思う。国民各位の意を無視した政治献金などは頂けないと受け取りを拒否している。これを行なうは共産党だけ。
 今、歳費削減と言えば格好は好いが、政党助成金の授受は筋の通らないねこばば行為。
 特に許せないのは比例定数削減案は歳費削減に名を借りた民主主義の圧殺行為です。



10年6月25日記
 三重県からお客さんが
 17日夕刻から22日09時まで「とりで会館」にお客さんを迎えた。Mさんご夫婦は伊勢市に住んでいた頃のエーコさんと私の友人で、エーコさんとの縁でお付き合いを始めた友人です。
 そもそも「とりで会館」を建てようと計画が始ったのはMさんと他にKさんという友人が北海道に来ると泊まる所が要る、二つの家族が一緒に来たら大きい家が必要。と言うことが宿泊所を立てるきっかけとなりました。
 定年を迎えてようやく時間を取れたMさんご夫婦。21年ぶりの再会でした。Kさんは今回来れなかったし、エーコさんは半年前に亡くなっているし、終始エーコさんの遺影が私たち3人の再会を見守った。けれど、感無量の矢臼別での再開でした。
 沢山話し合った後、又何年かしたら矢臼別に来るからと、お互いの健康を祈って西牧場を後にした。
 私は75歳を目標にがんばる、そして後継者を迎えられずに、元気ならここ川瀬西牧場での生活を続けることを話して別れた。
 あっと言う間の5日間だったけれど、沢山のエネルギーを頂いた。「1日でも長生きしてがんばろう」友人が別れ際に言ってくれた言葉です。エーコさんの分も含めてがんばらなくては、そう思うと眼から涙が溢れた。これで明日からすっきりとした気持ちで、矢臼別の生活が出来る。
 友人の白い車は新緑の西牧場、北の出入り口から林の中に消えた。
 何時の日再会が出来ることやら。三重の地で頑張って下さい。



10年6月18日記
 道平和委員会からのメール
 今回の火災は意図的にやったのではないか?と。個人的見解として伝えている。さもありなんです。
 明らかに自衛隊がヘリコプターを飛ばし、消火活動をした訳で日米合同演習をしたことになります。海兵隊の単独の訓練ではありませんでした。
 最近は防衛局の窓口とは電話で話すこともありませんが、彼らは町民の為に演習場に居るのではなく海兵隊の為にいる官吏です。何を聞いても海兵隊が言ったことしか応えられない。こちらが求めることを窓口として聴き取り、海兵隊に答えを要求するではない。もう10何年も前にそう思いました。
 米海兵隊移転反対別海町連絡会の関係者はこの窓口が唯一の相手ですから、今回もあきれ果てて居ます。
 今回の火災のことについても海兵隊は意に介さずです。火災などは射撃訓練では当たり前と言うことか。で自衛隊の好い訓練になったとか、の話になる。
 今回の訓練で撃った弾数は昼間1208発。夜間348発。合計1556発。
 監視をしていて特に不審に思ったこと、発射音が一つで着音(着弾地上空での音)が複数、で白煙が複数、横方向に並んだこと。これはM825弾だったと思っているが。こんな撃ち方出来るのだろうか。初めての経験でした。
 折りしも普天間のヘリコプターの訓練を全国に、矢臼別へ等と鈴木宗男が口走っている。とんでもないことだと思う。普天間で困り果てていることを全国に広げてはならない。104号越え訓練が痛みを分かち合う、ところが矢臼別に痛みを拡大しただけ。
 海兵隊を日本から追い出す。これが正解なのです。



10年6月11日記
 監視テントからの報告(2)
 4日、08時31分から撃つ。昼間189発。夜19時01分から撃つ。44発。昼夜合計233発。
夜は照明弾が多い。
 5日、08時31分から撃つ。昼間49発。夜19時40分から撃つ。97発。昼夜合計146発。昼間13時07分、野火発生。15時24分にも野火が。
 29日、6月5日2回の野火発生。海兵隊の射撃で野火発生は今回が初めて。使用火器の弾薬に原因があるのか。
 6日10時半頃、ヘリの飛行音が聞こえた。日曜日で射撃はしない。日曜日の射撃なしも今回が初めて。
 7日、08時31分から撃つ。昼間213発。11時29分頃発煙弾を撃つ。14時07分頃から射撃中断。15時30分頃ヘリ着弾地方向に飛ぶ。今日も野火発生の模様。これで今回5度目の野火。夜19時01分から撃つ。44発。昼夜合計257発。
 8日、08時31分から撃つ。9時20分頃まで照明弾など51発を撃った。尚09時00分頃から小火器を着弾地後方の訓練場で09時40分頃まで撃つ。名前は小火器だが8kmも離れた所から機関銃の音が40分間ほど。戦場を思わせる空気が。この間空には照明弾が2コ、3コ空中に流れていた。
 9時50分頃から着弾地周辺に野火が発生し、鎮火したのは15時50分頃。今回の訓練では着弾地周辺が6度にわたって火災を起した。
 海兵隊の射撃で火災の発生を見たのは初めての事。考えるに、目的地に上手く撃てないからか、いや業となのかは分からないが、野焼きをしたにも拘らず頻繁に野火が発生した。訓練指揮官の言い草が気に食わない。
 消火作業をしたのは陸上自衛隊。消火の好い訓練になった等と言ったらしい。とにかく海兵隊に至れり尽くせり。8日16時30分で射撃訓練は終った。



10年6月4日記
 監視テントからの報告
 28日12時20分、155mm砲を撃つ。夕刻16時26分まで95発。夜間射撃は20時50分から撃つ。榴弾、照明弾を含め8発。気温が低くて4℃くらい、霧雨の中での射撃だった。
 29日09時17分、155mm砲を撃つ。12時42分まで65発を数えた。13時24分、着弾地付近でヘリが飛び回る。ヘリが何かを吊り下げて飛び回ったのは野火発生の為らしい。夕刻のニュースで着弾地付近で6ヘクタールを焼いたとか。監視テントからの確認は出来なかった。
 12時20分頃撃ったのは、白煙弾6発、きのこ雲状に白煙が立ち上った。これが野火を起したのでは。
 夜は20時20分から16発を撃って21時30分監視を終える。照明弾を交えて撃った。
 30日、終日射撃訓練はなし。
 31日、08時33分から撃つ。昼間160発。夜19時11分から撃つ。44発。昼夜合計204発。
 6月1日、08時32分から撃つ。昼間130発。夜19時10分から撃つ。10発。昼夜合計140発。
 6月2日、09時42分から撃つ。昼間42発。夜19時40分から撃つ。10発。昼夜合計52発。この日16時頃、M825弾(白燐弾)を15発連射する。冬の日出生台で撃ったものと同じ弾。7km先の着弾地上空で炸裂する為、一目瞭然の映像は撮れなかった。しかし日出生台で撃った弾であることは監視した人の網膜には鮮明に。
 6月3日、09時00分から撃つ。昼間206発。白燐弾39発含む。夜55発撃つ。昼夜合計261発。撃ち始めて6日で合計841発を撃った。
 寒かったり、雨が降ったり、霧がかかったり、監視行動も楽じゃない。半分が過ぎた。残り4日、頑張ろう。



10年5月28日記
 5月23日海兵隊来るな反対集会
 全道の反対集会が23日午後1時から別海町のぷらと広場で開かれた。1時間半の集会の後、2時半からデモ行進を30分ほど。
 私は9時半から行動を。雨模様の天候だったからか、矢臼別平和公園クラブのテント運搬を依頼された。で何か手違いがあってはと、早い目に家を出た。
 会場・ふらと広場に着いたら10時半。舞台の設営などを手伝って、色々している間にテントも張られて用意万端。
 予定通りに集会は進み、デモ行進も無事に終えた。そして矢臼別に帰ったら午後の4時半。
 沖縄や岩国と連帯した海兵隊来るな!の反対集会、400人で意思表示をすることが出来ました。
 25日は朝から雨降り。東牧場で監視するためのテントを屋内屋として川瀬さんの建てた東屋の中に張る。
 26日からは同テントからの監視行動が始ります。08時15分、監視テントに着く。小雨、気温3℃。4人ほどで監視体制に入るも、撃たずに、午後1時38分本日の射撃はしないと防衛局からマスコミ幹事団体の毎日新聞にFAXあり。この日の監視行動は終了する。テントの中では薪ストーブを焚いたが、寒いこと寒いこと。
 27日08時30分、撃って良い時間だが、と思っていたら別海町役場に本日も射撃はしないと連絡があった。射撃監視本部は本日も監視を休業。26、27日の射撃訓練中止の理由は分からず。海兵隊の射撃訓練が終るまでは、このページを海兵隊のことを書くことに。
 


10年5月21日記
 19日、砂防ダム見学
 19日10時から11時半にかけて砂防ダムを見学した。
 この種のダムは既に15基も造られていて、スリットが入ったのはこのダムが初めてです。造らなくていい物を造って、それを壊す。(スリットを入れる)
 HPの見出しに掲げた写真が語るように最初に出来た時のダムは砂防ダムだった。今は銘がスリットダムに替わっている。
 今日も聞いたが、砂防ダムは6億円の工事費が使われ、それでは川に棲む魚に良くないと2m巾のスリットを刻んだわけで、全部除去では金がかかり過ぎるから、スリットダムに相成った訳。
 同行した人の話では演習場北境界を成す風連川に流れ込む小川の様な川の砂防ダムにもスリットが施されると言う。
 私の聞いたダムの数は既に15基が造られていて川魚の生息に不向きな砂防ダムばかりということです。
 もう直ぐ900兆円に国の負債額が届こうとしている筈で、その累積の一端はここにも。そのトータルが900兆円なのです。
 この砂防ダムは2000年から3年かけて造られ、完成後3年を経て2006、2007年にスリットが入れられた。
 工事概要の銘を良く見ると、馬鹿さ加減が読み取れます。もう少し付け加えますと小さく載せているスリットの映像がスリットダムの全て。で、このスリットを入れる為に7年を要した。
 コンクリートから人へ。少し付け加えなくてはいけないフレーズです。 税金は人の為にこそです。
 


10年5月14日記
 馬の足は速い
 牧場のページで馬たちが東牧場に行く話しを書いた。昨年までは無かった事です。平和池のゲートさえ閉めておけば東牧場には行かないものとばかり思い込んでいた。
 それがいとも簡単に東牧場に行く。馬たちは平和池のゲートを通るルートではなしに、東に行く道を探したのです。
 とにかく今までは平和池のゲートさえ確り閉めておけば東牧場には越境しなかった。いろいろ考えたら、その昔川瀬さんが駅前に行く時に使った北向けのルートを馬たちも辿って、茶内線に出て、上風蓮橋袂から街には向かわないで、そこを折り返して、川瀬東牧場に帰る。
 そして盆踊り広場で美味しい草を食む。8、9、10、11日と4日ほどはそのルートで東牧場に越境したのでは? と想像する。
 越境した理由は西牧場の西境界線の封鎖(自衛隊による封鎖線)の強化に因るのでは。
 馬たちは西に出れないで、直ぐに東、北に向かう。
 馬たちはここに居たかと思っても、あっと言う間に姿を消す。移動の速度が速い。北のルートを経て東牧場への移動は確認していない。けれど間違いなく川瀬さんが昔駅前市街に出た道を彼らは通っているに違いない。
 馬と共に歩いて北のルートを確認、東へ越境の防止策を練らなくては。
 川瀬さんが馬を手放したのは今は離農した風連川から北の酪農家の草地に越境したのが元でした。
 馬を西牧場周辺で上手く管理しなくっちゃ、です。



10年5月7日記
 「平和の家」に看板が
 川瀬さんが改装を初めて早6年、元々は牛小屋だった建物を改装した訳で、外装は今も牛小屋風です。
 それが改装3年目にして居間の床が落ちて、昨年修理が叶って復活しました。そして5月5日「平和の家」という看板が盆踊り広場から見えるように掲げられました。
 一時、Wさんが「平和の家」の住人として住まわれていました。川瀬さんが08年暮、入院されて、留守宅になったのを機にWさんが川瀬宅に引っ越された。
 その後、床修理のことなどもあって住人のいない「平和の家」になっています。が、この家は元々、川瀬牧場の新しい住人の為に、と改装された家です。
 今回、看板を取り付けるてくれたのは足寄町から、「矢臼別平和公園クラブ」会員の田利ご夫妻です。私一人では出来なかった床修理から始って看板取り付け大掃除まで、本当にお世話になりました。
 今回で「平和の家」は復活しました。
 矢臼別の川瀬牧場に滞留しようとする方は公園クラブ事務局に申し出て下さい。東牧場には「平和の家」、西牧場には「とりで会館」があって宿泊が出来ます。
 使い勝手の良いことをモットーにしています。事務局に申し出てくだされば、いつでもオープンします。
 とりで会館の使用料は寝具クリーニング代金として2000円を頂きます。
 川瀬牧場での宿泊所として大いに利用して下さい。



10年4月30日記
 9万人が集会
 沖縄の県民集会が意思表示をした。よく聞く話、諸悪の根源は安保条約だ、と。この言葉を信じる。
 アメリカは65年も沖縄に基地を造り好きなように使ってきた。しかし今回の意思表示で、一気に安保廃棄と行かなくても、沖縄県が普天間基地を取り返す運動、これは前進すると思う。
 中には基地に手を合わせて使用を願っている人も居るようです。が、ここに来て過半数は基地は造らせない、使わせない、に成りつつある、と思う。
 徳之島でも一足先に基地移設の反対を1万5千人でしたばかり。東京でも岩国でも決して声は小さくはない。
 安保がなくなれば良いと思うか、なくては困ると思うのか。もうそろそろ決着をつけるべき時です。基地をなくすか、継続か大きな岐路に差し掛かってきた。
 侵略専門の米海兵隊を先ずは普天間から追い出す。それを皮切りに安保廃棄の運動を強める。国民一人一人が夫々の立場で意思表示する。
 その時が刻々と迫ってきている。5月中に鳩山さんは普天間の移設に意思表示をするといった。30日も経てばその日限がくる。
 検察審査会が鳩山不起訴は妥当と判断した。それで鳩山さんは身は潔白と事を済ませようとしている。しかし、左様ですかと問屋は下しません。国民の審判は5月末、そして参院選でしょう。
 突きつけようではありませんかレッドカードを。
 9万人のイエローカードは序の口です。頑張りますレッドカードまで。



10年4月23日記
 民意が何かは
 25日には沖縄で移設に反対する県民集会が開かれる。その2日前に勝手に予想をするのは気が引けるが、普天間基地撤去が求められるだろう。
 徳之島でも15000人が海兵隊基地は作らせないの意思表示をした。少数の賛成者がいることも分かった。(色々あるものです)
 基地問題を語るとき「痛みを分かち合う」とよく使われる。矢臼別に海兵隊が来ることになった時も、このフレーズが使われた。その後痛みを広げただけで、沖縄の痛みがなくなった訳ではない。
 痛みを分かち合うではなく、痛みを無くすこと。これが正しい処方箋なんです。何故痛むのか、その元を断ち切る。
 鳩山さんは何か特効薬でもあって、それが腹案かと思いきや、何も持ち合わせていない。
 65年も沖縄県民の土地を蹂躙しているのだから、日本政府が県民に土地を取り返す。オバマさんには略奪した土地を元に返しなさい、と話せば済むこと。代替地を等というなら、そんな土地は在りませんと断れば済む。
 民主主義を言うなら民意を第一に。世は将に変革の時代です。コスタリカは軍隊のない国で、日本も9条で軍隊を持たない国なのです。
 65年前を思い返せば、アメリカに文句を付けることは難しいことでは無い。
 それが言えないなら、前政権よりも短命に終わろうが政権を投げなさい。国民は基地など欲して無いのです。
 素直に、民意に従いなさいと言いたい。



10年4月16日記
 井上ひさし氏の訃報を
 11日朝の朝日新聞で知った。読んでない本が沢山あって井上作品に困ることはありません。ただもっとこれからも書いて欲しかっただけに残念です。
 私が井上作品を読むようになったのは「手鎖心中」からだったか。最近は、と言っても5年ほど前から奥州市に転地療養したエーコさんから井上作品を郵送された。
 その中に「井上ひさしの作文教室」があって、これはとても為になる本でした。
(作文の秘訣は一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。)
 このHPを始めてから7年目になります。この作文教室の「作文の秘訣」を読んでから、上手く書けているかどうかは別にして、そうだ矢臼別に居て書ける事をHPに載せようと。そんな気にさせてくれる「作文の秘訣」でした。
 井上作品には言葉の使い方や、日本語に関して色々の作品がある。文才と言う物があるらしく、自分にはその欠片もなく、エーコさんには酷評されることが多かった。酷評されてもこれが私の精神的指紋ですと突っぱねたり。
 ただ、基本的には「作文の秘訣」は至言だと思っている。だからHPを書く時は「作文の秘訣」を忘れないように。これから先は厳しく評される人も居ないので、自らを厳しく見詰めなくてはならない。
 井上作品を改めて読み直したいと思う。



10年4月09日記
 毒ブドウ酒事件
 伊勢市の国民救援会の事務局の仕事を25年ほど前にしていた。その時から奥西さんは冤罪の被害者だと確信していた。
 こちらに引っ越してから救援の活動から遠ざかっていたが、新聞は35年来の読者を続けている、で粘り強い主張を遠くの地から見詰めてきた。
 7日朝の新聞で、たとえ再審になっても審議に時間が掛る事を伝えている。足利事件の菅家さんが再審無罪になったばかりだが、これも再審まで17年。奥西さんの場合は約半世紀です。ここまで時間を経ないと再審に道が開かれないのは「密室自白」の強要が始まり。まだ再審が決まった訳ではないけれど。
 そういう間違いをさせない為には、密室の取調べを改める事だと思う。つい最近も警察庁はオウム教団を時効で何も出来なかったくせに、犯人呼ばわりした。オウム教団に与する気持ちはないが、これは国が罪をおかした、と思っている。
 自白が真実を伝えていない時は矛盾が露呈する。菅家さんの自白にも矛盾が露呈していた、という。にも拘らず、警察は無理やり犯人に仕立て上げた。
 毒ブドウ酒事件も22年前に誰が毒を盛ったのか、その事を伝える救援新聞、そしてビデオテープなどが既に発表さていた。事件が起きてから約半世紀。日本の司直は何をしているのかと言いたい。
 奥西さんにはもう少し頑張ってもらって、日本の司直の悪い所を本人の口から公にしてもらいたい。そして菅家さんにも冤罪の被害者としてその告発をお願いしたい。



10年4月02日記
 核密約の解釈?
 正直なところ密約とは何なのか、腑に落ちない。狭義のとか広義のとか、あったとかないとか。政府が結論を出すと言って、先に延ばしたり。
 30日には共産党の不破さんが密約は無かったは誤論だといって国会内で記者会見をしている。
 気に懸かるのは、久しく問題になってきた「密約」がどのように決着をつけるかです。有識者と言われるお偉方が言うことと、しんぶん赤旗が伝えることには180度の差があって、納得できない。
 政府の言い分は密約を放置する考えのようです。日本のメディアもこの「密約」を咎めようとしない。それが大問題だと思う。
 つまり口では「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」と言っても内実は空証文に過ぎないからだ。
 時の政府に諮問された見識者委員会なんて程度の程が、今回も見え見えになってしまった。
 自身の日本語解釈のレベルで、密約を確認できないのを残念に思うけれど、「密約」を放置すると何が次に起こるかを考えてしまう。
 50年前に取り交わした話に、きっちりとけりをつけなくては、これから先何が起こるか分からない。
 その内に政府見解が出るのでしょうが、どんな見解を発表することやら。核兵器を持つ米国との同盟が大問題なのです。
 31日、しんぶん赤旗の紙面で密約がようやく理解できました。有り難い新聞です。そして4月1日共産党の志位委員長の質問主意書の政府回答で密約を認めると。
 日本のメディアがそれを伝えないのが不思議です。



10年3月26日記
 矢臼別の水情報
 西牧場では井戸水が3月の何時から増加を始めるか、ここ1週間は毎日井戸の測深を続けています。
 過去4年間の年度別水深の最低日は
06年3月16日に33cm。
07年3月24日に56cm。
08年3月12日に37cm。
09年3月08日に22cm。
10年3月22日に51cm。で、水枯れの心配は無い。ポンプが空気を吸い込むまでは36cmの余裕があって4月の末まで大丈夫。その頃には地上からの雪解け水が補給されるから。
 地下水の水位と別海町の降水量の観測点の関係は密接で05年の降水量は30年来の少雨で876mm、08年はそれに優る少雨で788mmです。
 冬の地下水の高さは前年の降水量に比例する、と考えます。
 長年根釧原野に暮らした人はデータを手元にしてなくても、水不足のことはよく知っていて、5年前の少雨のことや一昨年の少雨のことは肌で感じ取っていたようです。
 私は新米ですが、たまたま井戸の不具合で地下水のことを考えていて本の少し家の周りの地下水のことが分かるように。



10年3月19日記
 一網打尽主義
 クロマグロの獲り過ぎから、資源が枯渇する。取引を禁止にして保護しようと言うのが大西洋、地中海のクロマグロ保護法。ニュースによると50年前から比べて4分の1の漁獲になっていて、このままだと枯渇すると。
 マグロを巻網で捕獲した経験は無い。しかし世界いたるところでこの漁法が実施されていて、これは将に一網打尽主義の漁法です。悪人を一網打尽は頷けても、魚のそれは頷けない。
 その論拠は色々あります。カツオも例に洩れず巻網漁が行われている。これが行われるようになってどういうことが日本沿岸で起こっているか、大きな魚体のカツオが無くなった事です。
 私の子どもの頃はカツオと言えば4kgも5kgものカツオが普通だった。今は見たくてもその様なカツオは獲れない。
 鯨にしてもマグロにしても、カツオにしても獲り過ぎはいけない。資源を守る上で保護は難しい話ではない。欲に絡んで獲り過ぎるからおかしくなるんだと思う。
 牛肉の食文化もその内に批判の矢面に立つことでしょう。いや既に始っている。牛肉を食べるためにどれだけの穀類を消費していることか。
 程々が無くなったら、上手く行かない。一網打尽の漁法は厳しく規制しなくてはいけないと思う。マグロが食べられなくなる。そんなことはない。確かに、品薄になると値段が上がる。でも枯渇をするよりは品薄でもあったほうが良い。
 程々が良いのです。一網打尽漁法は「後のことは知らない」と言ってるに等しい。



10年3月12日記
 どうみる新しい内外情勢
 タイトルは畑田重夫先生が語る、学習の友ブックレット19です。
 この本を読むと世界の動き、日本の動きがよく分かるし、どうしなくてはいけないかも自ずと分かってくる。
 終章の「着眼大局・着手小局」が印象的です。たえず大局に眼をくばりながら、具体的な当面の課題にとりくめとか、たえず地球的規模でものごとを考えながら草の根的に地道な実践を、という幾多の先人たちからの教訓を重んじながら情勢をみる。この件はとても為になる処です。
 1960年がどのような年であったかも、面白い。安保破棄闘争の年であったと同時に、ベトナムで解放戦線の組織が出来たり、アフリカで新しい国が出来たり、節目の年であったことがよく分かる。
 私は未だに安保の為に酷い目にあっている日本の現状に、時にはため息をつくことがある。しかし1960年の安保闘争がどれ程世界の人々に大きな力になったかを「1960年」の節目で、認識を新たにしました。
 「着眼大局・着手小局」では矢臼別に居て何を為すべきかを改めて確認しました。ここに居て分かることを広く友人に知らしめること、そんな風に思います。
 憲法九条の話も書かれています。問題や疑問を感じた時は「必ず原点にたちかえって考えよ」とも。
 子供心に1945年8月、戦争はもう嫌だ、こりごりだと思いました。そして出来たのが日本国憲法です。
 「どうみる新しい内外情勢」は改めて自分の生き方に節目を造ってくれました。多くの方に読まれることをお勧めします。



10年3月5日記
 西牧場の地下水
 友人のブログを読んでいると、現中国の水不足のことを書いている。私の知っている水不足は北京西域の黄土地帯の地下水不足だ。北京オリンピックの時に知った。
 この地帯の1日の水消費量は4リットルとあった。我が家の水洗便所のタンク容量は7リットル。あっと言う間に黄土地方の人たちが1日に使う水を超えて消費する。
 日本列島、何処も同じことをしている筈、だから水の消費は世界で一番かも。
 西牧場も昨年は雨がよく降ったので、水不足の心配なく日々を送っている。2月末で井戸の水深は65cm。今、井戸水の減り具合は1日で1cmだから40日は心配なし。
 過去5年間の測深で分かったことは3月中旬までは減ることがあってもそれから先は地下水が増えること。
 その上2月27、28日は変化がなくて、雪解けの水が地下6mまで達したのでは?と思ったり。
 とにかく今冬は越せた。後は3月以降、順調に降水が続くかです。
 ハイチの地震、ニューヨーク大雪、チリーの大地震。そして大津波。サモアの大津波もあった。思わぬ天災が続く。
 水が無くては生活に困る。地下水の測深はまめに続けなくては。暖かい日が続くと、どーっと水位が上がる筈。
 別海町では2年前に30年ぶりの最小降水量を、6年前にはそれに続いて降水量が少なかった。水は大切に、しなくてはと思う。



10年2月26日記
 ツタンカーメン・・・
 確かツタンカーメンの墓に行ったのは32年前だったと記憶する。私がその墓に行った時はもぬけの殻と言っては悪いが本物の金のマスクは無くて模倣品が置かれていたと記憶する。
 船乗り生活30年で王家の谷を見学したのが最も大きな思い出の一つだ。このツタンカーメンの墓の直ぐ横にラムセス2世の大きな墓があったことを思い出す。
 こちとらは一介の旅行者でフーン、フーンと驚きの眼でルクソールの街を観光した。サファガというスエズ運河手前の港町に豪州から小麦を運んだ時の半舷上陸での旅でした。
 つい先日、しんぶん赤旗の報道でツタンカーメンの記事を読んだ。伝えるところによると、ツタンカーメンはきょうだい婚による子どもで、当時は普通だったと言う。おまけに死因まで特定している。腐骨とマラリアが死因だと言う。当時のミイラが16体も残っていて3400年も昔のことが解き明かされるとは驚きです。
 ルクソールにはナイル川を挟んで西岸にも東岸にも古代遺跡が残っている。世界4大河川文明の一つと言って良いのか、ナイル川の流れに育まれたエジプト文明には驚きの一言でした。
 船乗り時代の半舷上陸の旅行で付け加えると、ピラミッドや、ペルーでの古代遺跡見学の機会を逃した。荷揚げ、積荷で港に入るのだから、余程のことがない限りその地の観光旅行など出来よう筈がない。(港の桟橋で、しょん便旅行はよくするが、とよく笑っていた)
 見ると聞くとは大違いで、見れる時は見ておくのが一番だと思う。
 30年余も昔の観光、ルクソールの旅は良き思い出の一つです。



10年2月19日記
 民放を観ない訳
 テレビを観るようになって、チャンネルを自由に変えられる時は余程の番組でない限り民放は観ない。
 その理由は宣伝放送を観たくないから。自分一人でテレビにスイッチを入れる時はNHKの総合か教育かBS1、BS2に限られる。
 民放でも新聞の番組欄でこれは面白そう、と時々観る。今は冬、屋外で居る時間は極端に短くしているので、テレビかラジオにスイッチを入れている時間が長い。
 時々、商品の宣伝も観なくては、と思ったりもする。でも今は矢臼別に居ても、無料のチラシが月に一度は入る。郵送されてくるのです。
 話は元に戻ります、宣伝放送を観たくないのに、最近のNHKは民放に引けを取らない宣伝放送を始めた。「坂に上の雲」の宣伝も酷かったが、その後も宣伝の氾濫です。観たくない宣伝放送がないのを由としていたのに、これではNHKも駄目放送になり下った。世間には色々な人が居るだろう、が私はそう評価する。
 もっと放送時間を大切に編成してもらわないと。さすがNHKと思うテレビ放送を、時々するだけに最近の番組放送は頂けない。
 番組放送は新聞テレビ欄で沢山です。



10年2月12日記
 銃撃された話
 国後島沿岸というか沖合いでタラ漁をしていた漁船がロシア国境警備隊のへリコプターから銃撃をされる事件があった。つい最近のことだ。
 10日の毎日新聞によると、銃撃された2漁船の船長が逮捕されるという。勿論日本の海上保安部にです。漁船が何処に位置していたかを常に証明する位置記録装置(VMS)の運用を義務付けられているのを怠ったからだと言う。
 照明弾を撃たれたと言う証言があって、その後船体に付いた傷穴を早々補修した話などが伝えられ、これは変だなと思った。
 停船命令を出したが、停船しなかったので銃撃した、とロシア当局はコメント。取り決めを守らないとどうなるかは分かっていた筈。
 取り決めを守っていると言うのが漁業組合のコメントだったが、船位を証明する位置記録装置が使われていない。船位が記録されては困るから電源を切っていたのでしょう。
 これでは話にならない。領土の問題を考えると60年前の戦後処理のところまで遡って、第2次世界大戦の各国の言い分を考えなくては、となります。
 しかし現実は現在の取り決めが最優先です。その事を抜きに勝手なことをすると、ロシアは銃撃をする国なのです。
 クロマグロの漁獲規制や北洋での漁獲規制、鯨の試験捕鯨問題等々海洋を如何に利用するか、海に囲まれた日本国、問題山積。 
 海をどのように利用するか、しっかり考え直さないと、問題続出です。外交もさることながら海で働く人の法の遵守も大切、そう思う。



10年2月5日記
 黒マグロの話
 こんな話をすると笑われそうだが、「こんにちは赤ちゃん」と言う歌が大流行した。昔々の話だ。当時の梓みちよを知らないという人が居た。バカヤロウ解散で有名な元首相の吉田茂です。
 朝のニュースでフランスが黒マグロの漁獲禁止を支持するという。
 40年50年前には考えも及ばない話しです。当時は鯨からマグロに日本の漁業が矛先を変えつつあったと記憶します。マグロは当時としては前途、洋々だったのでした。
 50年ほど前、洋々のマグロ船に乗り組んだことがある。ブラジルの沖合いで操業した時などはマグロが釣れ過ぎて延縄を沈降させるような事態に陥ったことも。
 釣針にかかったマグロの重量が延縄を浮かせるビン球の浮力を超えた現象で、一度幹縄を切断しようものなら、次々と浮きのビン球が沈降する、今のマグロ船では経験の出来ない現象だろう。
 黒マグロの話は地中海沿岸での魚網による漁獲のことらしいが、私が大西洋のマグロ漁に出向いた時も、延縄による漁獲は地中海であった。
 けれど地中海は何かしら池のような感じで専ら気持ちは大西洋に向かっていた。
 それ程の昔話でもないのに、前途洋洋だったマグロも種の保存を考えなくてはいけないようにしてしまった人間社会。
 最近、テレビを観ていて思うこと、知らない女優や男優の多いこと。特に若い人をです。晩年に陥る番組選択の偏りなのかも。
 昔のことはよく覚えているけれど、現在進行形に弱い高齢者の弱点なのかも。視界を広くしないといけない。



10年1月29日記
 誰もが体験すること
 中には生涯独身で終る人もいるが、一般的には結婚をし、生涯を終える人が多い。だからどちらかが先に逝って一人が残る。
 近年、古希を迎えて晩年を如何に過すかを話題にすることが多かった。大昔から人はこの繰り返しで人の世を過している。
 その時が昨大晦日に突然、起こってしまった。その感情の動き、大きさに翻弄されて、正月は大変です。
 23日午後2時半頃、東牧場の車庫の直前で脱輪事故を起した。駅前のエーコさんの棲家でストーブの油送配管を修理して、僅か20kmの帰り道、二度、三度居眠りをして、とにかく車庫にたどり着いた。脱輪事故は車庫直前、5mで起きた。
 近所、東牧場のWさん、と酪農家の友人に助けられて、この脱輪事故では事無きを得た。釧路に行ったり、隣町に行ったり、車無しには生活できない矢臼別生活です。
 今、誰もが生涯で体験する、連れ添いとの別れの時間の真っ只中にいる。この感情の大きな起伏を如何にして乗り越えるか、試練の中に。
 ここを冷静に乗り切らないことには。そう思いつつ、過しているのだが。
 今週は極力外出はしないで過そう。体調が良くない事を自覚しよう。そんな日々が続く。



10年1月22日記
 環境の変化
 昨年まではこのHPの第一の読者はエーコさんだった。それが本年からは居なくなった。未来永劫に。この環境の変化、私には厳しい。
 最近は5年先を見据えて、お互いがどうあるべきかを話し合ったものです。その晩年の別れを突然迎えてしまった訳で、実際困っています。
 近所と言っても20kmも離れた酪農家の友人が、先週エーコさんの様に文章の間違いを指摘してくれました。大いに助かりました。
 パソコンを現在使っているのも、この友人のお陰で、エーコさん共々助けて貰っていたのです。
 今、駅前のエーコさんの住いを本の少しずつ整理している。何をするにも助手の役を引き受けてくれた人が、今は居ない。
 突然居なくなることには順応が難しい、その事をここに来てひしひしと感じています。昨年11月から20日ほど続いた石油ストーブのトラブルが、またまた発生してストーブを使えない状態が続く日々。
 主が居ない上にストーブのトラブル、一つの住いの手仕舞いをする上で、今の季節、暖房無しでは困ります。
 今日21日、ストーブの修理を終え、明日灯油の配線を新規に行って、暖房が復旧成るのは23
日夕刻になるのだろうか。
 デジタルの法則について行けない自分の頭脳、エーコさんの居ないことに戸惑う日々が続きます。 
 エーコさんの棲家を早く片付けなくては。



10年1月15日記
 停電が
 9日03時40分頃、停電。この日02時半頃からネット新聞を読んでいて、さあ少しHPでも、と仕事を始めたらパッと消えました。
 日頃から、懐中電灯はここに置くと決めてはいたが、その場所に見当たらない。後1箇所には、懐中電灯は在ったが、電池切れで点かない。買い置きの電池を入れたら漸く灯がともった。それから北電に携帯電話で、停電を伝えた。
 07時頃、自宅近辺での異常発生か(?)と、家の周りから見て回る。気に懸かる場所が有ったので、団結道路を東に向かった。前日のスノーモービルの轍に沿って東牧場まで、徒歩で25分。
 Wさん、玄関には錠が掛っていて留守か。そのまま引き返そうとしたが、停電を確かめるべく、電気のメーターを見に行く。
 私の足音で目を覚ましたWさん、窓を開けて挨拶。停電を確かめる為にメーターを見に来たことを伝えた。
 東牧場も停電中でした。薪ストーブに当たりながら暖かいコーヒーを頂いていたら、北電の修理屋さんが見えた。送電線の「破損箇所は川瀬宅から200m程北側の電柱で断線しています」、という。帰宅したのは9時頃。
 送電が再開されたのは10時47分、略7時間の停電でした。矢臼別で電気が一時とまっても暖房には困らない。けれど、水は電動ポンプ給水なのでたちまち困る。その為に例年90リットル位の水を焼酎の4リットル容器に入れて備えている。が、今年は新たな用意を忘れて、不用心を悔いた。
 早く、心身共に状態を立て直さないと。今は正直ガタガタの状態。用心、用心。



10年1月8日記
 エーコさん死す
 昨年10月28日、岩手県奥州市水沢から5年ぶりに別海町西春別駅前市街に帰郷していたエーコさん(浦栄子)が09年12月31日午後死亡しました。
 死因は虚血性心疾患(心筋梗塞)でした。先週の記事で「ぐりっと」の意味で問い合わせをしたのが最後の電話連絡で大晦日の12時30分頃のこと。その後数時間後に、心筋梗塞に襲われたものと考えます。
 私がその事を知ったのは元日の11時10分頃。31日の夜の電話に応答無く、元日の電話にも応答が無く、HPをアップして駅前のエーコさん宅に駆けつけて、事故発見者となりました。
 友人の助けを借りて、警察を呼び、別海病院に運ばれたのは14時40分頃。それから検視が終わって中標津警察署に遺体を引き取りに行ったのが、19時40分頃。エーコさんの遺体が駅前の自宅に帰ったのは21時30分頃だったか。
 なくなって未だ9日目で新年は何が何だか分からない速さで進み、意気消沈しています。
 エーコさんは1938年1月8日生まれで後9日で72歳の誕生日と言う日に亡くなってしまいました。生前エーコが賜りました御厚誼にはこのページをお借りして御礼申し上げます。



10年1月元旦記
 家が空き家になると
 「平和の家」を修理していて分かったことを幾つか。難しいことではないのです。
 師走に水道配管の破損があって、それを修理した。さぁこれで修理は完了と思って配管の水落しを復旧し、バケツに一杯の水を流し台で溜めた。井戸からの給水は上々です。が2カ月前まで使っていた流しテーブル、水が流れません。
 排水口金具と流し台のステンレスの容器の取り付け部が破損していて、そこから水がじゃんじゃん洩れ。
 それで分かったことは流し台の排水部には排水の一部が留まるようになっていること。人が居て毎日使わないと、これが凍って異常を来たしたのだろうか。とにかくパッキン部分が隙間だらけ。これでは水が洩れて当然。
 これを修理するのは初めてで、駅前の自動車修理工場の友人に修理方を教わり、復旧成ったのは12月26日のことでした。
 後一つは石油ストーブの90リットルタンクが底面で油漏れを起したこと。先の住人が使っている間は洩れていなかったのに、それから1年で石油漏れが。劣化が進んでの漏油でしょうが、この現象も年末に起こったことでした。
 北の国で生活すること20年なのに、何も分かっていないんだと、そんなことを思う年の瀬でした。
 暮の28日11時頃、2階への階段の根元でネズミの侵入しそうな穴を塞いで「平和の家」の復旧作業を完了した。
 何時川瀬牧場に逗留したいと言う方が現れても、この家を使っていただけます。人が入ると家は生き生きしてきます。
 新年はその事が実現しますよう、期待します。



09年12月25日記
 来年の水の心配を
 夏場の降水量が多かったので来年の水の心配はしていないが、最近は井戸の測深を怠っている。
 11月29日には測深値149cm、20日後の12月19日は132cm。昨年の今頃は61cmでした。
 井戸水による給水は井戸水深20cmまではOK.。現在の地下水の日変化は0.85cmで、底をつくまでは131日分ある。
 矢臼別の表層の地下水が地上からの降水で増加を始めるのは3月中旬です。今から数えて85日後です。
 こういう計算を出来るようになったのも05年からの井戸の測深がものを言っている。早いもので4年が過ぎた。今でも井戸の掘り増しを考えないでは無い。けれどついついその計画は先送りされている。
 自分がここで住む分には今の井戸で何の心配も無い。しかし新しく住む人のことを考えると掘り増し1mはしておかないと、水の心配は無し、とは言えない。
 現水深からは短期予想は井戸水の心配は無い。でも過信は禁物、これからも週一の測深は続けよう。きれいな水が無くて困っている話は世界中でよく聞く話。
 矢臼別は水に恵まれています。水を大事に使わなくては。



09年12月18日記
 間もなく年末の餅つき大会
 今年も恒例の餅つき大会が11日後に迫ってきました。昨年から川瀬さんの居ない餅つき大会になっていましたが、今年はもう浮世に居ません。
 それでたちまち困りました。
 その一、川瀬東牧場内には自衛隊が所有する開拓時代の道路用地があって牧場を二分している。その境界表示杭は矢臼別ホテルの北側に在る。道路巾を示すもう一つの境界杭がある筈なのに、分からない。これを川瀬さんに訊き損じたのだ。
 一方的な自衛隊の囲い込みの境界表示杭が根拠となっている。
 つい最近遺族の娘さんの所に25年も前に建てた簡易便所が自衛隊の敷地に建てられている、と撤去を求めて留守宅に陸上自衛隊別海駐屯地業務隊管理科長が訪問したという。そして翌日には電話がきたとも。それで娘さん、それらについては矢臼別平和委員会に一切をお願いしていますから、と。これは凄く良い対応と思います。
 そんなことがあった矢先、私は12月10日東牧場の北側境界を約1時間掛けて散歩した。しかし北側の道路用地境界杭を確認できなかった。
 訊こう訊こうと思って訊き損じた道路用地の境界線。餅つき大会の時に訊ねてみようかな? 川瀬さんと付き合いの長い方に。
 20年にして初めて歩いた境界線の話もしておこう。来年は森林浴道を造る計画もあります。
 少し寂しい川瀬さんの居ない矢臼別の餅つき大会、どうなるのかなあ今年は。
 例年通りだと、12月28日は前夜祭、29日が8時から11時頃まで餅つき、それから昼食、矢臼別10大ニュースなどを発表して闘いの意思統一をして本年を締めくくります。
 沢山の方のご来場をお待ちしています。



09年12月11日記
 オサマ・ビンラディンとは
 私の記憶では9・11のテロ司令官だったと記憶している。ブッシュはこのオサマを逮捕する為にアフガンに侵攻した。それから8年が過ぎた。かくまった国が許せないと戦争を仕掛けたのです。
 今朝、12月7日の電子版朝日新聞の記事によるとここ数年オサマさんの消息を掴めていないと言う。
 当時、8年前の話、今年春亡くなられた川瀬さんがある席でどうして9・11が起こったのだろうかと、テロの原因を訊こうとしたら、即座にテロリストを擁護する発言だと言われた、と。
 私も何故9・11が起こったのかを考えた組なので、同じように批判をされたかも知れない。当時のアメリカではテロリストに報復することでブッシュは舞い上がっていた。国民もその風に見えた。
 いま、アフガンには当時の政権は無く、オサマ・ビンラディン探しと治安維持と称して外国軍の侵略が続いている。
 その侵略を続けるアメリカでも最近は侵略反対の世論が過半数を超えてきた。アメリカに楯突く輩は容赦はしないと攻め込んだアフガン侵略。8年も続くと事の次第がぼやけてきて、そうだオサマ・ビンラディンを捕らえるのがことの始まりだった。認知症になってはいけない。
 アメリカは1945年の日本進駐から現在も日本に居座っている。アメリカと言う国はその間にどれだけ他国を侵略してきたことか。国際政治学者・畑田重夫氏の話で知ったことだが、アメリカは最近60年間で戦争を200回以上、その相手国は60国・地域、途上国で、核を持っていない、アメリカと闘う意志を持っていない国などである、と。
 アフガンの混迷はアメリカのやらかした侵略が始まりで、オサマ・ビンラディンを捕らえるが始まりでした。
 アメリカは同盟国だから、と唯々諾々の日本国。いい加減に目を覚ましなさいと言いたい。



09年12月4日記
 ドバイとかアフガニスタンとか
 ドバイはつい先日債務不履行とかで大きな話題になったし、今日2日はオバマさんがアフガニスタンに兵力増派を発表した。
 私の言うドバイは30年も前の話で、ドバイ港に貨物船で寄港した時のこと。砂漠に立派な道が付いていて、その道端の白壁の家に日本製のエアコンが付いていたのを思い出す。
そして停泊中は現地の人がワッチマンとして舷門付近で見張りをしてくれる。中近東の港では何処でも見かける停泊船での風景だ。未だ今ほど高層建築が建ち並ぶ近代都市の風景ではない頃のドバイ港だった。
 たまたまワッチマンと話す機会があって、アフガニスタンの話になった。彼はアフガンからの出稼ぎで、毎月故郷に送金をしていることや、外国の侵略には部族として決して許さないと言う話をしてくれた。クウエートではパレスチナ人のワッチマンからイスラエルは許せない、と聞いたり。
 拙い英語で祖国を思う人たちと話したことを昨日のことのように思い出す。
 精々5年か6年の短い中近東の港への寄港だったが、イスラム世界を本のちょっぴり覗いた船旅でした。それも純粋に垣間見の。
 ソ連は程なくアフガンから追い返されたし、オバマさんもイラク同様にアフガンからあっさり撤退すればいいものを、増派をするという。
 高校時代に教わった先生は「侵攻した方が必ず追い返される」が歴史の結論だと教えてくれた。これは的を射た言葉だと思っている。
 中近東の港であったワッチマンの話を思い出す度にイスラムの人たちの強さをズシーンと感じる。
 オバマさん早く撤退なさいよ。YES WE CAN と。
 


09年11月27日記
 隣町の講演に出かける
 隣町の友人が「森と海をつなぐ川の環境をどう守るか」というシンポジウム」を教えてくれた。11月21日のことだ。
北海道の河川は何処でも、直線的に川の流れを改修したらしい。明治29年から始ったという。石狩川から始って道東でも釧路川、標津川、西別川等で、曲りくねっていた川を直線的に改造した後が残っている。
 それにダムも沢山造ってきた。知床の河川は不要なダムが多すぎると言う。
北大の先生の話がとても面白かった。この先生が「森は万能か」で、否定的な話をされたことです。森を皆伐して、大きく自然状態を変えてしまって大きな被害が出て、森の有り難さを知った。 元に戻したら元の状態に近づくだけでそれ以上にはならない、という話でした。
 別海町を流れる西別川は水源は標茶町の虹別です。別海町では河畔林は無くて牧草地が河畔まで迫っている。又水源が別海町と標茶町の境界に迫る風連川、この川には上流域で牛が水を飲んだり、糞尿が垂れ流しにされたり、随分酷いことになっているのだが、別海町では川は死に体に近い。
 道東で最も木が多く残っているのが矢臼別演習場だという。その演習場内で益のない砂防ダムを16基も造って自然を傷つけている。ダムを造る為に付近の木を皆、切倒す。
 その川にイトウが生息することが分かって自然の大切さを教えてくれた。森の大切さと言って良いだろう。
 ここに居ると色んなことがよく見える。



09年11月20日記
 検証という言葉
 民主連立政権の言葉に「検証」が多い。普天間基地の移設問題で、検証します、検証しますが続いているからです。
 辞書を手にすると、実際に調べて証明すること、と。アメリカの前の前のラムズフェルド国防長官が沖縄訪問した時に言った言葉を思い出す。
 「最も危険な基地だ」と。確かそう言った。沖縄の宜野湾市民が言ったのではない。赤旗日曜版(11月15日)のトップ記事を読んでいたら涙が出てきた。渡具知武龍君(12歳)の11.8集会での発言だ。
 64年間も普天間を占領し続けるアメリカの基地。検証は既に終わっているのです。これ程民主主義を否定する基地は存在しない。と言って何の言い過ぎもない基地。その基地を未だ検証するなどと言っている民主党の面々。呆れて物が言えない。
 私も年間で何度か射撃音で家の中にいるのも居づらくて、抗議の電話を業務隊に入れることがある。
 しかし普天間基地周辺に暮らす人たちは日々テレビの声が聞こえなくなったり、お互いの会話が出来なくなったり、という。その上、何時飛行機が落ちてくるか分からない不安の中で暮らしている。
 検証って何なの?っていいたい。沖縄の基地問題は限界をとうの昔に超えているのです。だから初めて基地を見たアメリカの国防長官が「最も危険な基地だ」と。
 岡田外相が昨日、普天間を視察した後、検証などと言っていたが何故住民の立場で物事を見ることが出来ないのか、情けないねぇ。
 日本の国民が第一と考えるなら、答えはすぐ出ます。カーンタンなのです。



09年11月13日記
 11・8沖縄集会
 宜野湾市の海浜公園で開かれた普天間基地の県内移転反対集会には2万1千人が集まり、県内移設に反対の意思表明をした。
 自民党支持者もいる沖縄県ですから100%、移設反対は有り得ないけれど、今の沖縄県民の多数意見だと思う。
 集会の成功とは新たな海兵隊の基地を沖縄県内に作らせないこと。単なる集会の意思表明だけでは喜べない。如何にして現政府に迫るかが今後の課題です。
 その記事の横にというか、米軍の所有者を表示する車のひき逃げ事故の記事が。船乗りの若き時代に沖縄に行ったことがある。その後基地の島、沖縄県には行ったことがない。神奈川の横須賀にも何度か船で港に入ったが、基地を見学したことがない。
 米軍基地がどのような実態なのか、自分の目で確かめる。これが最も大切と考える。百聞は一見に如かず、たまには矢臼別を出て酷い米軍基地を見ることが知識を深める上で大切なことと思う。
 川瀬氾二さんは大阪の平和大会に参加してから、考え方が大きく変わったと話されていた。
 どれだけ米軍基地に対して憤りを持っていても、持ちすぎて悪い事はない。どうやら楚辺基地で起こったひき逃げは米軍人が運転していた車らしく、許せない。
 沖縄県読谷村楚辺の道路沿いの、ひき逃げ事件、次から次と引き起こされる米軍人による事件。
 民主連立政府は選挙公約を守るべきです。その象徴は普天間の基地を閉鎖することです。自分達が選挙前に話していたことの重みを自覚すべきです。基地が続く間は事故も続く。



09年11月6日記
 普天間の鳥瞰写真
 海兵隊普天間基地がどんな所に存在するか、赤旗日曜版11月1日号の1面の写真でよく分かった。
 今日4日までは鳩山さんに雀の涙ほどの期待を持って、気持ちを託してきたが、何も出来ない首相であることがはっきりした。
 共産党の笠井議員の質問に対して口先では普天間基地を県外、国外に移設するように言ってきたけれど、それを米国に言えるのはやはり共産党しかいない。
 もっともらしい事を言って有権者の気を引いてきたけれど普天間基地の閉鎖は当分の間お預けです。そのことが今日はっきりした。
 共産党の笠井議員も言っていたが、安保を破棄することを党の方針にしているからでなくて、沖縄県民が基地をなくせと言っているから、そのことを強く主張しなさいと。
 米軍基地は誰もほしくないのです。ここ矢臼別だって米軍には来て欲しくないのですよ。その内に鳩山さんは米軍基地をそのままに4年間したら、いや4年も待たないで失政するでしょう。
 マニフェストに米軍見直しを書いておきながら、自民政権と同じことを続けるなら、何も出来ないことの証ですから。
 宜野湾市の一等地にでんと構える普天間飛行場。アメリカ国内ではありえないことを戦後64年続けてきたアメリカ政府。それを許し続ける日本政府。
 何も言わない内から、鳩山さんを貶すといけないから、じーっと言わないで来たけど、今日からは容赦なく腐すことにします。
 11月8日は沖縄の県民が米軍編成見直しで集会を開く。ここで民意が何なのかをはっきりと示して欲しい。
 県民の意を大事にしたいと言っていた鳩山さんがどの程度の政治家であるか、その評価が一層明確になることでしょう。
 沖縄を米国から取り返す、普天間はその象徴的米軍基地でしょう。



09年10月30日記
 所信表明演説を
 26日、夜のニュースでところどころを聞いた。民主党や連立政党の党首は良かった、と。それに対して野党の党首は批判的でした。27日朝のネット新聞にはこれも肯定的と批判的が合い半ばか。問題はこれからです。言うは易く行なうは難し。
 特に注目したいのは普天間基地の移設問題です。20年も30年も待たずに歴史的な方向転換をしたと言われるのが、普天間の基地返還ではないでしょうか。
 アメリカとの軍事同盟を至上と考えていては基地の移設は難しい。けれど軍事同盟を至上と考えなければ、移設など至って簡単です。アメリカに守ってもらうと言う考えを変えれば、何でも言えます。
 安保を破棄する考えになれば、基地問題はカーンタン(簡単)なのです。
 25日のNHKの討論番組を観ていて思ったことですが、御用論客が顔を揃えて尤もらしい事を言っていた。が軍事同盟を支持する論客ばかりでこれでは討論にならない。4人中1人は少し違った発言をしていたが、安保破棄論でもない。
 鳩山さんは普天間に関する限り、選挙中は見直しを言っていた、と言う。今もそうで、民意を第一に考えると言っている。
 それに偽りがなく、それにやる気があるなら、自公政権の合意をでんぐり返せる。
マニフェストについては早速具体政策化されるもの、少し時間を置いてやれば良いだの、修正も可だの、新聞の社説は色々と書いている。
 何も具体的でないという所信表明演説、普天間の移設然りです。
 こちとら、普天間の県外移設の表示まで、鳩山さんに絶大なる期待を込めて、待つことに。

 27日、雲行きが怪しくなりつつある。台風20号の話ではない。普天間の雲行きの話。外相も既に県外移設は難しいと発言していたが、防衛相は辺野古への移設がマニフェストに叶っているなどといい始めた。残るは鳩山さんに懸かっている。先走って批判はしないことにしているが果たして。雲行きは怪しい。29日、共産党の質問は聞き損じた。



09年10月23日記
 沖縄から自民党議員
 がいなくなった話。つい最近まで知らなかった。マニフェストには米軍再編を考え直すを掲げた民主党。それに連立政府。ここまでお膳立てが整うと普天間の移転問題で県内移設はありえない。
 ところが、もたつく現民主連立政権です。国際での米軍基地の動きは撤退の方向に動いている。自公政権が取り決めた合意とは言え、現政権がうたった再編の考えは重い。沖縄の住民のみならず、米国の覇権主義に反対する日本国民なら米国の基地は不要物。
 銃剣とブルドーダーで基地を造り、沖縄を占領して64年。
 その沖縄に正々堂々と米軍基地を返させる日本の民主連立政権、そうあって欲しい。交渉事はお互い対等である筈。
 屁っ放り腰の自民党政権には出来なかった米国との交渉、民主連立政権には期待するところ大です。何せ自民党の代表がなくなった沖縄県ですから。
 海兵隊の移転のためにアメリカ領のグアム島に移転の為の施設を建てる。我らの血税でです。これから、この話もでんぐり返せる筈。
 米軍再編の見直しを民主党はどのように考えてマニフェストに掲げたのか、その真意は測りかねる。けれど、沖縄で民主党や社民党を選んだ人たちは、県外移設を、いや米軍は本国へ帰れではなかったか、そんな思いがします。
 自民党を選んだ人もいるのですが、今はその代議員は居ない。もし新たな基地建設を許したら「銃剣とブルドーダー」で基地を造ったは、昔話になってしまう。今度こそは日本国民の意思で米国の言い分を凹まさなくては。
 頑張れ民主連立政権、大義は現政府にありです。屁っ放り腰はいけません。出来るかな?



09年10月16日記
 西牧場の荒天準備
 台風18号に対する西牧場の荒天準備とは。船乗りにとっては夏場には台風に対するとか、また冬場には温帯低気圧に対して海上で遭遇する破目に陥らないようにするのが第一の安全対策です。しかし運悪く近寄りそうになったら、事前に最高の荒天準備をする。
 例えば開口部は海水の浸水を防ぐ為に密閉する。大波に揺られて物が移動しないように縛り付ける。右に45度、左に45度のローリングをしても物が移動しないように固縛する。
 最近はテレビ等でも台風が来る前に遣るべきことをしなさい等と言っている。どれだけこの意味が分かっていることか。こちとら長い船乗り生活、荒天準備の所作は身に付いて離れない。
 西牧場での荒天準備、薪の濡損防止にベニヤ板で覆いを架けている。これを吹き飛ばされないように、釘で補強する。花豆の杖を倒されないように支え索を張る。井戸のポンプ室の蓋には重石を載せて飛ばされないように。D型ハウスの出入り口は閂をしっかり掛けて風に煽られないようにする。車は木が倒れても潰されないように開けた場所に駐車する。
 風位の変化は東から左回りに変化する、と読みその方向からの風圧に耐えられるように小物は陰に隠す。
 9日午前10時現在、未だ外に出ていないが、被害はゼロに近い。
 テレビや、ラジオではよく見回りに出て、流されただの物に当たって怪我をした等と聞くけれど、こちとら時化てくると外には出ない。これは時化た時の鉄則です。
 成すべきをしっかり事前に成してピーク時を凌ぐ。それを心がけています。
 台風18号の通過は被害も無く上手く行きました。



09年10月9日記
 革命でなくとも
 「自然と猫と私」というブログを毎朝、読むことにしている。民主党に政権が変わったことをとても楽しみにしておられる。その昔国会議員だった方にとっては今の政界は月とスッポンほどの変わりようだろうと思う。
 ついこの間まで思いのままに国会を牛耳っていた面々が「3分の2」を良いことに、それこそ何でもかんでも好き勝手にしていた。それが民主党の連立政権になってマニフェストに書いたことだけは、と動き出した。
 議員の党籍で座席が大きく移動しただけではない、雛壇の席に連立の閣僚が座ることになった。この事が大変なのです。
 この前の予算委員会でどれだけ質問しても鼻であしらわれていたのに、今度はその立場に席を得た民主連立政権。50年余も続いた自民党が政権の座から引き摺り下ろされた。きつい言葉だが「ざまみろっ」て言いたい。
 革命とは支配階級の変わることを指してで、今回の政権交代はそれには当らない。しかしそれ程、世の中引っくり返るほど変わらなくとも、自民党の遣り方を変えてくれるだけでも結構ではないか。
 「自然と猫と私」ブログの主の期待が良く分かる。悔しい思いをその昔、している方だけにより増しが期待されて、だろうと思っている。
 このブログを読んでいると、晩年はどうあるべきかを考えさせてくれる。読んで得するブログです。沢山の方が読んでいるようですが、フアンの一人として。



09年10月2日記
 池の排水口修理
 通称平和池は人工池です。矢臼別の略年表を見てもこの池がいつ掘られたかは分からない。まあ関わった方がいるので後日確かめることにして。
 池の深さは略1mです。中島もあって、そこには橋も架けた。問題は排水口の上部のコンクリ壁の半崩壊があって、道は砂利舗装がされて良くなったが、と問題を抱えていました。
 舗装工事の出費に重なる出費でしたが排水口上部のコンクリ壁の取替え工事、及び予備排水口の設置を考えていました。
 26日早朝から業者が補修工事を始め、夕刻5時過ぎ工事は完工しました。
 今回取り替えた排水口上部のコンクリ壁は川瀬さんが23年前に自力で作られたもので、私が訪問した時一人でこつこつ土木工事中でした。
 その時の光景を思い浮かべながら矢臼別もこうして変わって行くんだなぁ、そんな思いでいます。
 今月12、3日には帯広の方達が平和の家の修理に来てくれます。川瀬さんが気にしていた床の問題、そして私が修理する筈だった床の張替え、なかなか手に付かずに時間が過ぎていました。思わぬ援軍が来てくれます。こんな嬉しいことはありません。
 沢山の方に支えられて、矢臼別の川瀬牧場は続いてゆくのです。そんな気持ちにさせてくれる排水口補強工事でした。
 現場には相変わらず木製のゲートがあります。これはポニーの越境を防ぐゲートで少し不便ですが、東牧場に来られたら川瀬牧場の原点、西牧場にもお寄り下さい。



09年9月25日記
 原野の水洗便所
 19日午後2時頃から1時間半の時間をかけて、水洗便所の蓋を開放する。20年振りのこと。連休中でメーカーにも訊けないので、ネット検索で調べるとコンクリ蓋が90kg程であることが分かった。
 これは矢臼別に住んでからの基本的な作業の仕様だが、何事も1人力を以って成すことです。引っ越した時はエーコさんが助手をしてくれたが今は全くの1人力。
 内径1mのコンクリート管、高さ1mを排水升に利用している。これが満杯になると上端部に設けた排水穴から塩ビニ管を経て流出するように設計している。
 とは言えそれから19年、昨冬排水が不調となり屋内から排水管の掃除をした。どうにかその時、排水の復調は成った。
 それから10カ月、間もなく新しい冬の到来が迫っている。雪の来る前に排水升の点検をしておかなくては安心が出来ない。
 先ず3本脚櫓を排水升の上に立てる。何時も使う3倍力のテークルを仕掛ける。年を経て非力になったとは言えこれを使えば、90kgは持ち上げられる。
 未だ気の済む点検が終わったわけではない。それに、20年の排便の付けは大きい。詳しいことは自分の脳内に留めて、先に話を進めると、ここらで排水升をきれいに掃除をすることです。
 匂いはするが悪臭ではない。沢山のミミズが棲んでいて、知らない微生物が排水升を20年間棲みかにしてくれたのでしょう。保守管理は後1日、2日の日程でやり終えなくてはと思う。
 20年ぶりのメンテナンス、原野の生活ってのんびりですねぇ。
 お隣さんが1.5km先。この距離を有り難く思う。街に住んでいるとこんなのんびり作業は出来ませんから。



09年9月18日記
 ジャンボリーが
 9月12、3日の2日間、川瀬東牧場で北海道勤医協の若者達が集った。天気予想は土、日と雨降りで余所目に天気が気にかかった。
 11日から地元の関係者が会場設営で牧場に見えて、色々準備作業をされた。盆踊りが終わっても舞台の取り片付けが残されていて、何か催しがされることは分かっていた。
 12日10時頃には大型バスが2台東牧場に到着、13日に関係者に聞いたら出席者は146人で、東牧場のWさんの話では夜は盛り上がっていたと言う。それに花火も上がったと。
 私は昼間の写真取材で引き上げたので盛り上がりの事は分からない。ただ夜は雨が降ったし13日朝も9時頃まで土砂降りの雨だった。でも、これは旦那日和で良かった。
 私の田舎では夜降って昼間雨の上がる天気をそう呼ぶ。遊ぶ旦那にとって、何の差支えのない天気を言う言葉。
 若者達が大型バスに乗り込む10時頃には天気は晴れ上がっていた。爽やかな顔、顔、顔でした。
 野外テントが舞台を取り巻いて10張ほど張られ、夜のイベントに備えられていた。が何処で休まれたのか気になった。それを訊ねると矢臼別ホテル、平和の家に分散宿泊されたと言う。
 平和の家の床修繕は未だ終わっていないが1部屋を除いて利用されたようで、50人ほどが宿泊されたらしい。大盛況です。
 川瀬さんは雲の上でニンマリだったに違いない。
 13日夕刻、東牧場のWさんとファイヤー跡の残り火を確かめて静まり返った東牧場を後にした。
 ジャンボリーも終わった、今年の秋の始まりです。



09年9月11日記
 酪農交流会とは
 グーグルの検索ではないが、少し書いてみます。もう19年ほど前になるか矢臼別に転居して間もなく、別海町内で「酪農を考える学習会」に参加した。別海町に住んでいて酪農を知らないではもぐりの町民になってしまうと思ったからだ。
 その時に出会ったのがM牧場のMさんでした。それ以来の交流で転居来の付き合いを願っています。
 この人の話を聞いて放牧を主にした酪農を取り入れた友人が幾人もいる。1昨年あたりから乳牛の配合飼料が高くなったままで輸入飼料で酪農をするのは大変な時代です。
 そんな中、根室の風土に適した放牧を主にした酪農が脚光を浴びています。その主張をしてきたのがMさんを中心にした酪農交流会です。
 道東ではアメリカ輸入の配合飼料を大量供給する酪農が主流です。そんな中で大きな流れとはなっていませんが、放牧主体で配合飼料を少なくした牛飼いが持続可能な酪農ではと思っています。
 先月、今月と続けて交流会に参加しました。我が西牧場の菜園の土作りとM牧場の土作りはその基礎を同じうするものです。
 M牧場は牛糞を完熟させて牧草地に、西牧場の菜園は馬糞を100%利用して土作りをしています。化学肥料はゼロです。
 搾乳はしていませんが、土作りでは考え方は同じです。菜園の規模は小さくても土作りでは酪農交流会は良い学習の場なのです。
 80人近い参加者がいた9月5日の交流会、写真のページの通りで盛会でした。この会に参加すると色々な話が聞けて「得をする場」なのです。参加者全員が一言発言をする。これが面白い。
 この日は比国の農業を支援する団体の人たちが参加していた。



09年9月4日記
 気になること
 日米地位協定というものがある。裁判権のこととか、とにかく日米両国の権利義務を取り決めた文書らしい。
 米国は自国の人権には必要以上に優位を主張したがる。そして人権が守られていないことを題目にその国を非難する。
 人権で議論する場合、その取り決めで人権の重みに差があって良い筈がない。
 郷に入りては郷に従う。なのに米国は自国民の人権を最優先に日本国民の人権を軽んじる。それでいて人権、人権と言いふらす。
 米国は世界各国に出向いて相手国の人権を踏みにじっていることが、地位協定の取り決めでよく語られる。
 自国民を自国の法律で裁くという主張です。相手国の地で起した事件でありながら。これは横暴の一言であって相手の人権を認めない国家行為だと思う。
 テロ撲滅を口実に民間会社に暗殺行為を行わせたり、百万人とも言われるイラク市民を殺したり、ブッシュなんて前米大統領は戦争犯罪人で人権など語る資格のない人物です。
 米軍基地では米国の法律が罷り通っても、基地外で起こることは日本の法律に従う。これはもう当然のこと。
 一人ブッシュという前大統領がでなく、国力があることを武器にすき放題をしてきた米国には基準が二通りあって、相手国民には米国基準を適用しない。
 米国内ではしないことを沖縄では好き放題に。ヘリコプターの墜落事故は米国内では考えられない、と言う。それを平気で今も沖縄で飛び続ける。
 日本国民の人権など何も認めようとしない振る舞いです。自国内ではしないことを他国で行う国に人権など語る資格はない。
 


09年8月28日記
 旧宅横に便所を
 盆踊り前から作り始めていた「べったん便所」が8月26日に完工した。
 西牧場には建物が、2棟あり我が家と「とりで会館」には水洗便所を付けている。我が家のものは私が20年前に取り付けた。「とりで会館」のものは14年前だったか。この取り付けは少々苦労したことを覚えている。
 そして本年4月には「とりで会館」の便器取り替えをした。お客さんが見えるのに便所が使えないでは・・大変です。どうにか間にはあったけれど、その取替えがおおわらわ。使用しない冬季の管理が拙くて便器が破損していたのだ。
 かねてから思っていたことだが、屋外に簡易の便所があったら良いと。
 それで35年も前に川瀬さんが作った井戸から汲み上げる電動ポンプ室、これは釧路沖地震で使えなくなるまで私も世話になったが、地震を境に水が出なくなって、14年ほど使っていなかった。
 このポンプ室を簡易便所に、利用することにした。半坪足らずの簡易便所とは言え、完成まで延べ日数で1週間はかかった。
 これで盆踊りで来たお客さんが、何かで屋内便所が使えなくとも、露天の排泄は避けられる。
 この便所を建てる上で参考にしたのが、東牧場の矢臼別ホテル北側にある、20年余も前から建っている簡易便所です。
 私の冬場の車庫とも隣接していて、時々利用している。この便所、曰く因縁のある便所なのです。以前写真のページで紹介したことがあります。いざこざはさて置き参考になりました。 
 川瀬旧宅の側に建った新簡易便所、20年は使用に耐えてほしい。頑張れ新簡易便所です。



09年8月21日記
 酪農交流会
 19日酪農交流会に参加する。この交流会、毎月第3水曜日に開かれていて、1年に1、2回参加する。この日は34人の方が参加していた。20年前に初めて顔を会わせた人がいたり、大学の先生がいたり、私のように酪農を経験していない年金組みがいたり色々です。参加費は300円でその場に席を確保できます。
 中標津町俣落のO牧場が交流会の会場となったが、知人の後にくっついて付いて行く事にした。
 酪農で14年前に新規就農した牧場で、大学卒のOさんを就農前から交流会で知っていて、どのように牧場を作り上げているかが楽しみだったのです。
 11時半頃から15時半頃までのO牧場滞在でしたが、心が温まる交流会となりました。今年の夏は天候が不順で冬の飼料を蓄えるのに晴れの天気が続かないで、乾草作りから急遽サイレージに切り替えた時のO夫人の話が良かった。
 放牧地からの帰り道で聞いた話です。子ども達が何も言わないのにその時は搾乳作業が出来る子どもはその仕事を、夫々が日頃は何もしないのに黙って夫婦のする仕事を見ていて、一家総出で草の収穫を成し遂げた話、心が暖かくなりました。
 私の隣を歩いていたT獣医は「大草原の小さな家」物語だね、とポツリ。将にこの牧場はそれを思わせる立地条件にある。別海町の牧場とは大いに景観が違う山の斜面に広がる牧場で、立木も多い。
 終日小雨が降る天候でしたが、大きなD型のハウスに用意された昼食は酪農家の手作りの料理で、楽しい交流会となりました。
 交流会で最も印象的だったのは「酪農にとっては良い夏だった」と言う言葉でした。酪農交流会に集う酪農家はお互いが意見の交流で生活を豊にしているって事でした。



09年8月14日記
 舞台から話したこと
 今年の盆おどりでは初めて舞台から川瀬牧場にお越しの方に挨拶をしました。原稿なしで思いのままに喋ったので、おもいだしながら。
 私の賞味期限はそれ程長くはない。それで4、5年の間に西牧場に住む人を探したい。賞味期限とは元気に活動できる期間と言う意味にです。
 東牧場にはWさんが居住しています。川瀬さんが最も心配していたこと「それはここに人が住み続けること」なのです。西牧場にも賞味期限が残り少ないとはいえ、現在は住んでいます。その間に次の住人を探さなくては。
 川瀬さんはこの地に57年間住み続けました。川瀬さん以外にも演習場域に地主はいますが、住んでいないと反戦の主張にはなりえない。演習場に取り囲まれて45年、買収に応じないで住み続けたからこそ反戦地主の川瀬さんなのです。
 住み続けることの大切なことを川瀬さんは教えてくれました。「矢臼別」という矢臼別盆おどり総実行委員会発行の年表から川瀬さんが西牧場に住んだのは1952年から1977年まで。1977年から2009年までは東牧場です。演習場に取り囲まれたのは1964年から。
 1987年、牧場と演習場の境界に鉄線を張り巡らす、囲い込み事件が起こった。東牧場は簡単に言うと町道茶内線と接するので、その部分は囲い込まれることは無かった。しかし西牧場は100%鉄線で囲われてしまった。そして東西牧場を結ぶ団結道路が鎖で封鎖された。
 だから20年前、これを撤去させる為に業務隊と一悶着があった。しかし人が西牧場に住み続けると、悶着一切なし。自分の土地でなくとも団結道路の通行は自由です。
 この通行権、西牧場に住人が住めばこそです。居住権の委譲も込めて、住人を募集します。



09年8月7日記
 31回目の平和ツアー
 7月31日夕刻、安保破棄・諸要求貫徹大阪実行委員会が主催する青森・北海道平和ツアーの19名様が川瀬さん追悼の旅で川瀬牧場を訪問されました。
 東牧場の住人Wさんから夕刻、時間があったらと誘われたので出席しました。
 4人くらいの方を知っていましたが、他の方は初対面でした。6時から始めた夕餉の準備は7時過ぎには準備が整い、東屋の中で夕餉が始りました。そして延々11時頃までキャンプファイアを囲んで歓談は続きました。
 私は借りたヘッドランプを頭にセット、砂利舗装の成った団結道路を徒歩で15分、西牧場に。翌朝は5時から東牧場に。6時半頃から約1時間で西牧場を案内することに。
 このツアーの方たちに西牧場の案内をするのは初めてでした。私が矢臼別に転居したときには11回目を数えていて、それから20回を上乗せして31回目の今夏でした。
 ツアーを企画した方は私以上に川瀬牧場をご存知の方です。が、今回が最後のツアーになることを聞き及んだので、最後の西牧場案内を自ら申し出ました。
 そして8時頃には皆さんデラックスなバスでの旅人となり、次なる目的地に向かって川瀬牧場を後にされました。
 川瀬さんの居た川瀬牧場、そして川瀬さんの居ない川瀬牧場、どんな思いで川瀬牧場の一夜を過されたことでしょうか。
 もう直ぐ、今度は川瀬さんの居ない45回目の「盆おどり」を迎えようとしています。川瀬牧場の住人としてどこまでその空席を補って行けるか、頑張りたいです。
 東牧場の川瀬宅に灯がともっている。この事が素晴らしい。
 「Wさん有難う」、の一言です。



09年7月31日記
 今年の天候は
 先週に続いて雨の話を。昨年の降雨量と比べてなどと、年単位での降雨量の話をしたら、防府や北九州の降雨のニュースが今週は続いている。ここ別海町では年間降水量が1000mm前後で何十年も経緯してきた。
 だのに今週、北九州の豪雨は少し並外れで、3日で600mmなどという。これだけ降る雨を経験したことはない。でも、これだけ降ると今まで崩れなかったところが崩れて、当たり前に思える。
 危ないぞ、と警報を出しても市民に何も知らせなかったなどはもっての外です。それにしても最近の気象現象は少し変です。
 最近は日本でもよく竜巻が起こるし、ゲリラ降水が起こるし、洪水もちょくちょく、いや頻繁といっていい。
 矢臼別でも先週、今週と降雨が続く。昨年は雨が少なくて困ったのだが、今夏の雨は少し降りすぎです。太陽が照りつける間もなしに直ぐ雨降りになる。
 我が家の井戸は26日現在、水深が約3mもあって、一時の3.37mには達しないが、井戸を掘って以来の水深が続いている。
 西牧場の一帯は標高85mの三角点を頂点になだらかな起伏を経て谷に水が流れれる。土砂崩れには何の心配もない地形です。
 でもこれだけ降水が続くと、菜園の中を歩いても畑地に長靴がめり込む感じで、地面がゆるんでいることが良く分かる。
 雨降りで水田を見に行って、川に流された話をよく聞きます。わざわざ雨降りに、何故?と思うことが多い。何も川に流される為に出てゆく訳がない。その必要があってだろう。
 一人暮らしの矢臼別、油断は禁物と気を引き締めています。



09年7月24日記
 7月20日ストーブを
 7月には例年ストーブは焚かない。それが今夏は寒い日が多くて今朝もストーブを焚き始めた。昨日に続いてだ。今朝の外気温は10℃ほど。
 もう10年以上も前の盆おどり、子どもの達が西牧場でキャンプしたことがあった。その時、どのテントからも子どもの咳が聞こえて、心配したことがある。だから寒い夏が初めてではない。
 今夏は7月16日トムラウシ登山で10人もが寒さで凍死した事件があったばかり。最新情報では亡くなれた方は冬着は持っていなかったとか。
 夫々に理由があって事故が起こるのでしょうが、今夏は夏かと思ったら春先に戻り、とにかく大きく変動を繰り返す。
 降水量も昨年に比べて6カ月累積で190mmも多い。昨年は30年振りに降水量の少ない年だった(別海町の降水観測点による)。
 既に書いたが梅雨がないと言われる北海道です。でも今夏の矢臼別、つい内地の梅雨を思ってしまう。それほど降雨の多い天気が続く。
 それに低温続きです。昨夜もストーブを少し焚いた。そして今日21日も少し焚かないと寒い。外気温13℃、室内温度は22℃。
 それでなのか、どうなのか、菜園の出来具合も今一勢いがない。グーン、と気温が上昇しないので菜園の勢いも出ないのか。
 例年ならジャガイモの枝が繁茂で隣の畝の枝と連なって畝間がなくなる。なのに今夏は未だ畝間を歩行ができる。太陽光が畝間に注ぐ分、雑草が繁茂する。
 22日朝の気温は12℃ほど、雨が降る寒い夏日和。
 23日朝、外気温は16℃に、今日も少しストーブの世話になろうか。



09年7月17日記
 核密約の続き
 (麻生首相は14日夜、記者団に対し、「『密約はなかった』。そうずっと答弁を申し上げてきている。密約はなかったということなので、私としては、改めて調べるつもりはない」と述べた。「核密約」の問題については、村田良平元外務事務次官が朝日新聞などの取材に対し密約文書の存在を証言している。)、()内の記事は朝日新聞の15日の電子版からの借用です。
 田舎者ですが、これが日本国の総理の言葉かと思うと泣けてくる。何を根拠に「密約はなかった」と話してきたのか、この記事では分からない。が、外交の事務方の頂点にいた人が「密約があった」と証言し、公にされようとしている。
 そういう時に、当事者でもない麻生さんが、そうずっと答弁を申し上げてきている。・・何とも不思議な受け答えです。一国の最高責任者としてもっと別な応え方があって然るべき、と思う。
 一方、次の総選挙で政権交代を狙う鳩山さん密約は必要に迫られて等と歯切れが悪い、黙認をするような発言を14日の記者会見でしたと、読売新聞は伝えている。
 自民も民主も日本国民にとっては許しがたい態度だと思う。日本の平和憲法の実践では両党共に失格政党なのです。
 今週の表紙写真には叉「自衛隊は憲法違反」を載せました。それは原点を忘れてしまうと今何が大切なのかを見失うからです。
 川瀬氾二さんから聞いた話ですが、この文字を川瀬さんが目にしたのは茨城県の百里基地で、と聞きました。書いたのは1991年です。
 遡れば安保条約も憲法違反に突き当たります。
 自民党は断末魔の様相。では民主党は、実態がはなはだ怪しい。
 核密約を黙認という。でもここに票が集まりそうだから怖い。



09年7月10日記
 4、5日は井戸掘り
 川瀬東牧場では足掛け4に年わたり井戸掘りが行わている。6月末に3mを掘り、4日には4.5mまで掘り、5日には?さて何mまで。
 私は傍で見ているだけだが、よく水の湧く井戸を掘って欲しいばかりに、2年ほど前から現場には顔を出す。
 今回掘り始めたポイントは川瀬さんが勧めたポイントと殆ど同じ地点です。4年前に掘り始めたポイントは11m掘っても湧き水はありませんでした。
 新しく掘り始めたポイントは私が杭を立てた。2.5mで水に中ると言ったら、3mだった。が、まあ50cm誤差で進捗。川瀬さんの井戸の側に掘っているので6.5mで湧き水に中ると踏んでいる、が果たしてです。
 5日夕刻は掘り込み、5.2mで終わった。後、1.2mで湧水に中るかどうか気懸かりです。
 井戸掘り予定、今週末は休み。来週の土・日曜日に組んでいると言う。17、18日が井戸掘りの山場になるだろうか。
 西牧場の井戸掘りは6mから6.5mで湧水が見えた。東牧場でも川瀬さんが掘った井戸は6.5mで湧水が出た。
 来週の井戸掘りには、その湧水に中りますように。今夏は昨年と比べて表層の地下水は2m余も深い。その分排水に手を焼く。
 40年、50年先を見据えた井戸を掘る。川瀬さんが掘った井戸は西牧場でも、東牧場でも優に40年は水を出した。
 今掘っている井戸もそのような井戸にしたい。世直しの時はまだまだ先と観る。その長い先に耐えうる息の長い井戸を掘る。
 井戸掘りの方々、頑張って下さい。微力ながら声援を送ります。



09年7月3日記
 日米の核秘密取り決め
 朝日、毎日、読売ネット新聞紙上で外務省の元事務次官が核の秘密取り決めがあったことを自ら語ったと書いている。
 しんぶん赤旗ではとっくの昔に密約のことは書いてきた。が一般紙も漸くそのことを確信を持って書いている。
 事前協議の対象事項である、核持込、日本政府は事前協議が今までなかったことで核持込を否定する根拠としてきた。
 取り決めの相手が公開しているのに未だに否定する。引き継いだ、と元事務次官が話しても否定する。
 今の国政、自公政治の成れの果てが連日続く中、核密約などは端のほうに追いやれている。これ程大事な問題が隅に追いやれれるほど、現実が混沌としている麻生政権。末期症状と言われる所以だと思う。
 核兵器を積載した艦船を日本の港に入港させながら、事前協議の話がないから核兵器の積載はない。が、もうこんな嘘は通じない。
 民主党は現段階では公文書の公開を約束している。総選挙の後、民主党はどの様に動くのか秘密取り決めの決着が見ものです。
 一重に国民が怒りを爆発させる時です。子供だましのような事前協議が無かったから核積載艦船は入港していない、これは許せないことです。
 横須賀では自公民の推した市長が落選。当選市長が何を語ったのかは知らない。けれど世の中、動いている。
 7月1日朝の時点で朝日、毎日、読売の各紙がこれ以上密約の否定をするなとコメントをした。読売は他2紙と内容は少し違うが、大筋で嘘はつくなは頷ける。
 この核密約記事が引き金になって日米関係のあり方が大きく変わる。密約は破棄しかない。
 原子力空母に核積載がない。誰が信じようか。



09年6月26日記
 梅雨のない北海道
 私の気象に対する知識では30年振り、と言うのが異常気象の表現に値すると。川瀬さんから道東には昔大雪が降ったという話を聞いた。40年も50年も前の話なので雪の少ない現在は異状であって、それが常態化している証でもあります。
 未だ20年しか道東で生活経験のない私には異常気象を語る資格はないのですが、久しく感じていることが「梅雨のない北海道」なのです。
 確かにあの蒸し暑い、じっとしていても汗が滲んでくる内地の梅雨の季節はこの地では経験していない。
 しかしこの6月の天気は内地の梅雨を思い出す。それも今年だけの思いではない。20年の間に、北海道に梅雨はない、には何時も疑問符をつけて考えさせられた。
 それに暑くて外で仕事をしたくない夏日がたまにではなくて最近は毎夏です。
 船乗りは30日か40日で真夏から真冬を経験します。例えば冬、アラスカの港からオーストラリアの港に日本の港を経て航海を続けるとー30℃から+30℃の気温変化を否応無しに経験します。
 ここに住みだして、冬は大丈夫ですか、とよく聞かれます。365日で変化する50度の温度変化は至って穏やか、30日でも対応できたのですから。
 北の沿岸でマンボーが獲れたり、シイラが獲れたり、流氷が少なくなってきたり、何十年振りに変化する事象は人間の認識を惑わせる。
 あの内地でしか味わえない梅雨の体験、北海道にも忍び寄っているように思えてならない。



09年6月19日記
 強い馬がトップに
 今、西牧場のポニー群は雄馬6頭、雌馬5頭で総勢11頭です。雌の繁殖馬は2頭で、3頭の雌馬は今夏生まれが1頭、昨年生まれが2頭です。
 問題は雄馬、去勢していない3歳の雄2頭、これが種牡馬として勢力争いを昨年に続いて今夏も始めた。
 昨年はこの2頭の若駒が16歳の父さん馬とその種牡馬の座を争った。昨年は父さん馬からその座を奪った葦毛が、今年は少し馬体の小さい川原毛紋との争いでその座を奪われた。
 昨春はアフリカの草原で繰り広げられるライオンの雄の座の争いを書いた。馬の世界も同じで、発情のきた雌馬との位置関係で常に雌馬に近い位置取りをする馬がその群の種牡馬となった。
 今年もそれが再現された。闘いを続ける2頭の雄馬、顔は勿論身体全体にお互いの歯で咬み合って生傷だらけ。後1週間も経てば発情期は終わる。それまでは両者の闘いは続く。
 今夏は身体のこまい川原毛紋の雄が種牡馬の座に。2番手は市場に出さなくては、と思っている。
 1年経つ内に馬群に変化が起きた。時の流れを痛感すること多い、この頃です。
 強い馬をトップに残して馬群を整える。これも川瀬さんから学んだことです。

続いて、著書案内:北の反戦地主 川瀬氾二の生涯 布施祐仁 著
 6月17日、郵便配達で届いた本が表記の本です。私は20年川瀬牧場に住んでいて、並以上に晩年の川瀬さんを知っていると自負しています。
 それで昼間少し読んで、夜2時間ほどで読み終わりました。2回ほどの取材で延べ約20時間の聞き取り、でこれだけのことが書けた、と驚いています。
 特に昨年の10月初旬の川瀬さんとの最後の取材は私もよく知っていて東京に著者が帰られた後、10月7日に川瀬さんが発病、入院だっただけに良くぞ取材されたと思っていました。
 同じ話を聞いても、解釈の仕方は色々です。が私の思っていたことと著者の表現に大きな差異がなくて安心しました。
 川瀬さんはどの様に書かれたかは知らないで亡くなられた訳ですが、遥かに上空から納得の微笑を、ではないでしょうか。
 沢山の方に読まれることを期待します。



09年6月12日記
 橋の木工作業始める
 昨年10月5日だったか、川瀬さんが橋の工事を中断してから8カ月、ようやく工事を再開した。
 橋の仕事は初めてですが、竣工は7月中旬にと思っています。今夏の盆踊りには完成して、渡り初め式もしたい。川瀬さんは昨年の餅つき大会に渡り初め式をしたいと話していた。
 8カ月遅れの渡り初め式になるが、何とか間に合わせたい。
 菜園を見守りながら時速4kmの公園造り。少し荷が重いけれど遣るしかない。毎日コツコツが川瀬流だった。
 「平和の家」の床修理もそのままになっている。これも私が受け持つことになっている。決めた訳では無いけれど、これが現場主導の平和公園造りだ。
 エーコさん流に表現すると、カウントダウンに入った舟三が何処までコツコツが続くか、それが見物だと言う。
 6月8日は午後1時から3時まで橋の工事をした。橋の資材が入荷するのは9日の火曜日。そして午前10時頃橋のたもと40m付近に資材は届けられた。土道の最悪路の曲がり角、トラックが立ち往生をする。仕方なく荷降ろしした。
 木工作業のみならず。川瀬式だと午後からのコツコツだったが、時間ができたら働く、舟三流のコツコツで木工作業を始めます。
 今夏の盆踊りには渡り初め式が出来ますように。今はそんな気持ちです。
 現場の責任者は替わっても、平和公園の建設を継続。橋は勿論のこと公園構想は川瀬さんの長年の夢だったのですから。



09年6月5日記
 新インフルエンザ
 つい1週間前まではインフルエンザがニュースとして騒がれた。それがいつの間にか鳴りを潜めた。国会が補正予算の審議中に新インフルが巾を利かして、予算案が決ったら新インフルも下火になって。
 何かおかしな具合である。北朝鮮の核実験、次ぎはミサイル発射の準備だの、安保理の決議がどうだのと目まぐるしくニュースが飛び交う。
 2日にはGMというアメリカの自動車を造る会社が破綻した。一度国有化して再生を図るという。アメリカの繁栄のシンボルだった自動車産業のビッグスリーの2社までが破綻した。100年に一度の経済危機なのかも。
 それにしては日本政府の対応が心配です。いうまでも無いことですが、麻生さんでは頼りなくて安心が出来ない。
 厚労省の分割を言い出したと思ったら、引っ込めたり。首相が行使すると言われる解散権を実行できない、と揶揄されたり。頼りないことこの上無しです。
 インフルエンザの事を書き出したのは他でもありません。幸い新インフルエンザで死者は出さないで経緯しています。しかし自殺者が10年続けて3万人超が続出する事実を日本政府はどの様に考えているのか。今の景気を考えていると、一層不安が増幅します。
 交通事故で死者が減ったことはそれなりの事をしているからで、10年間で自殺者が30万人を超えたことをどの様に考えているのか、麻生さん確り考えてくださいと言いたい。
 この自殺行為の累積は自公政権の責任ではないでしょうか。
 


09年5月29日記
 いつも手を叩く金正日氏
 テレビで映る金正日氏はいつも手を叩いている。賛辞を表している画面だろう。昨25日、北朝鮮は第2回目の自衛的核爆弾を持つ為の実験で成功したと発表した。 どの国でも核爆弾を持つために同じ事を繰り返す。一回の実験で終わった国は少ない。イスラエルだけは核保有国というが、実験の報道はなかったように思う。私が知らないだけかも。
 広島や長崎の人、それに東京で生活する人もことごとく核実験を非難していた。私も同じ思いだ。ただ問題はそれから先の話だと思う。
 非難するだけで事は済まない。先のブッシュ大統領などは核の先制攻撃などを公言していた。自衛的核実験を口にする北朝鮮の言い分の方が未だ聞いてて耳障りが良い。自衛が先に付いているから。
 核保有国が北朝鮮を非難するのを横から見ていると、お前さんそれを言うなら自らの核兵器を安全な物質に戻してから、のたまいなさいと言いたくなる。
 幸い日本は核兵器を自ら持っていない。その上、憲法で九条を持っている国です。兵器の中でも最悪の核爆弾を非難できる唯一の被爆国でもあります。
 最近、オバマ米大統領に広島、長崎の被爆直後の姿を見てもらいたい、という報道を聞いた。一瞬にして大都市が地獄と化した事実を知ってもらう為だ。一見は最も人間の認識を深める行為だと思う。
 勿論金正日氏にも欲しがっている核爆弾が何なのかを知ってもらいたい。国連安保理がどの様な決議をするのか、それに金正日氏が手を叩くのか?
 ブッシュからオバマに代わって米国の知恵はどう働くのでしょうか。見物です。



09年5月22日記
 「送る会」終わる
 5月16日、11時から「川瀬氾二さんを送る会」が執り行われ、予定通り14時30分には閉会しました。
 私も与えられた5分間の時間で弔文を読みました。原稿では4分30秒で読むことにしていましたが、途中何度かこみ上げるものがあって少し時間が延びたかもしれません。
 両親の、それに可愛い姪っ子の葬儀でも涙を流すことの無かった自分が「送る会」ではもう涙が止りませんでした。
 約20年間に顔を会わせた人達の顔、顔を見ていると「送る会」が始る前から涙を流していました。
 川瀬牧場にかつて来られた方ならお分かりと思います。会場は矢臼別ホテルで、遠くは関西方面から東京、そして札幌方面からと、この日の参加者は180人ほどで、ホテル内会場は溢れました。  
 矢臼別の平和の闘いもこの「川瀬さんを送る会」を節目に新しいページが始るんだと思います。川瀬さんが最も心配していた川瀬宅は留守宅にはならないで、はやWさんが昨年末から新住人となっておられます。
 3人居た住人が一人少なくなって、川瀬さんの居ない川瀬牧場は確かに寂しい。けれど、若いWさんには期待するもの大です。
 私は西牧場の住人として当分は頑張ります。川瀬さん、高いところから確り見守って下さい。
 平和公園構想、何とかその思いを引き継いでいきますから。



09年5月15日記
 明日は川瀬氾二さんを送る会
 川瀬さんが4月20日朝、亡くなれて家族葬は22日に執り行なわれました。
5月16日は11時から14時30分の時間帯、川瀬牧場矢臼別ホテルで「川瀬氾二さんを送る会」が催されます。
 実行委員会のFAXでは130人くらいの方が出席されるのではと伝えています。
 矢臼別に入植されて56年間、演習場に取り囲まれて46年間、ここ矢臼別で生活されたことがどれだけ多くの平和運動の方たちを励まして来たことか、計り知れません。
 私は1986年だったか、第22回矢臼別盆踊り大会に参加し、その時初めて川瀬さんにお会いしました。その時以来川瀬さんの怒った顔を見たことがありません。
 物静かに、着々と大工仕事をされる姿が脳裏に焼き付いていますが、将に時速四kmの速度で日々を送られました。
 「時速四kmの人生」とは根室の写真家平野禎邦氏が最初に使われた言葉だと川瀬さんから聞きました。
 川瀬さんは何時でも徒歩で、別海町で過された訳ではない。早くから自動車も利用されています。がそれとは別に生活態度が自分の歩行スピードであったことを感じ取った平野氏、写真家の感覚が「時速四kmの人生」の表現だったのではないでしょうか。確か「北海タイムス」での取材文でつかわれたと。
 平野氏も今は鬼籍に入られて、確かめる術はない。
 16日には私も送る会に出て、送る文を読むことにしている。私は時々怒ったり、早足になったりしますが、「時速四kmの人生」を見習いたいと思っています。



09年5月8日記
 農仕事 四季のかがやき
 これは橋本紘二氏の写真集のタイトルです。ここ矢臼別で灰撒きを始めたのは同氏の「春を呼ぶ村」で見た写真が知恵の本です。
 農村写真家として30年余も前から同氏の写真を見ていたので、期待を込めて表題の写真集を観ました。期待通りの農村風景が次々と並んで、文章も面白い。
 同氏の写真を観たのは、地方の写真講座で、講師として見えて、話を聞いたのが付き合いの始まりでした。
 蛇足ながら船乗り生活の休暇下船中はJRP三重支部に所属して写真撮影で近畿の山村を撮影行で走り回っていました。
 矢臼別に転居してからも道東地方の取材で、我が家に宿泊されたこともあった。
 写真集をみていると、農業を腰を据えて撮ってきたことがよく分かります。私は20年近く毎年夏場はここ西牧場で菜園を続けてきました。でも写真と文を読んでいると農業ってこうなんだ、と改めて考え直しています。今からでもやり直さなくては。
 写真集の姿、風景をそっくり今の日本に求めることはもう難しいのかも、と思いきや。ここ5、6年で撮ったように書かれている。
 荒れ果てた山間地を全国各地で見ていますから。この写真集を観てると、農民は頑張っているんだと云うことがよく分かります。全国的に農村が荒れていく現在、氏の写真は農業の大切さを教えてくれます。
 農地が資本家の手で利用されようとしている現在、農民が喜んで農作業を続けられる農政を願って止まない。
 そんな思いになる、写真集です。



09年5月1日記
 春の嵐
 天気予報がここに来てよく中る。中る、中らないは気にはしないのだが。今回は太平洋側で40cmの降雪と言われていた。そんなに降るのかよう、と疑っていたら的中した。
 帯広近辺では50cmも、直ぐ南の厚岸では30cmも。写真のページにも書いたけれど野性の動物たちも本の少しは驚いたかも。
 野うさぎには毛色を突然には変えられない。で外敵の襲撃に備えるには大変だろう。馬や鹿も折角食べられる笹が姿を消すのでおおわらわ。
 何よりも4月13日生まれのカエデ号の息子が気になった。けれど27日昼過ぎは元気な姿を餌場に見せてくれた。勿論他の8頭はもう立派に冬を越した馬たちばかり。
 餌場には乾草のロールはないけれど、冬場に食べ残した乾草が未だたんまり残っている。彼らはそれを掘り起こして。
 私は町に出ることはしなかった。でも郵便屋さんは車で入って来た。だから後二日もすれば平常の夏道に戻るだろうか。
 それにしても今夏の滑り出しは東牧場までの土道が荒れていて道の補修が大仕事です。それに加えて平和池の排水管の回りも破損状況が一段と進んで、どうやら今夏修理しないとそれこそ団結道路が平和池で中断されかねない。
 時ならぬ春の嵐で新たな問題は起こらなかったけれど西牧場には夏場にやらなくてはいけない事が山積と言う感じです。
 道路の補修、これが西牧場に暮らす為の必要条件なのですが。
新しい仕事が増えなくて良かった。



09年4月24日記
 今週は大変でした
 牧場のページに続いて、川瀬氾二さんの葬儀について。
 しめやかな家族葬が4月22日行われました。私もその末席に隣人として参列しました。
 これは川瀬さんの遺言を少しだけ変えさせて頂いて、家族葬がそのようになりました。出棺前に寄せられた弔電を聞いていると涙が止りませんでした。
 私は昨年10月7日10時頃、中標津脳外科病院に入院する時、私の車で行きましょう、と同行しました。だから釧路の病院に緊急転院する経緯などもよく分かっています。
 昨年10月8日02時半頃、川瀬さんはくも膜下出血の頭部切開手術を受けました。
 その後、川瀬さんと話をしたのは10月20日12時過ぎのことで4人部屋での面会でした。大手術の後で、さすがにお疲れのように見えたので、10分か15分くらいの面会で辞去しました。
 ここ5年くらいは週に一度、川瀬宅の居間で3時間、4時間、夏の季節は5時間も話し込んでいたので、3週間も時間が経ってしまうと話は山ほどあって。
 なのですが、川瀬さん矢臼別に帰ったらまたゆっくり色々話しましょう、と病室を出ました。
 その後、再度の出血で会話は出来なくなりました。そして突然の20日朝の訃報でした。
 幾人かの友人には川瀬さんと語ったことを話しています。これからはその意志を引き継いで行きたい、そんな気持ちでおります。
 自衛隊と隣り合わせて、46年暮らす中で身につけた憲法感覚は凄いと思います。
 先週、写真のページに載せた「自衛隊は憲法違反」これが川瀬さんの全てではないでしょうか。その思いは分かっているつもりです。



09年4月17日記
 BMWの話を
 これでは何の話か分からないので、もう少し12日に聞いてきた話を書いておきます。Bはバクテリア、Mはミネラル、Wは水を意味しており活性水を作る技術の話。
 18年も前、矢臼別に転居して2年目だったか、網走は小清水町での液肥の学習会に参加したことがあった。U水システムと言って酪農家の牛舎からでる尿を発酵させて液肥に変える施設の見学でした。
 この技術から発展したのがBMWの活性水の始まりと言う。肝心の話を睡魔に耐えながら聞いた。で20年も前からどのように尿の液肥化や水道水の活性化に進んだか、それは聞き逃した。
 只、酪農家の間で普及が試みられているU水システムと原理は同じで、12日見学した酪農家の牛舎は乳牛の飲料水を活性水にする、そして酪農環境を変えるが主旨と思えた。
 牛舎には容量4トンくらいの清水コンクリートタンクが有って、その水槽に軽石と花崗岩の網袋入り砕石が吊るされていて、それが全てです。これで水が活性化するという。
 また牛舎内には尿の液肥化タンク(200リッタータイプ)が6タンク並んで、軽石と花崗岩の「お呪いの様な」仕掛けがあって、稼動中でした。最後列の6タンク目には有用な菌しかいない液肥に、なっていると言う。バクテリアが発酵を促し、岩石からミネララルが溶け出して活性水が作り出される。簡単に言えばこの一行で終わってしまう。
 日本の名水の里には微生物と花崗岩の繋がりがあって、この自然のシステムを人工的に作り出す。これがBMWの技術だと。
 我が西牧場でも井戸水を活性化することは出来る。軽石と花崗岩の砕石を取り寄せて、挑戦してみようか。夢のあるBMW技術です。



09年4月10日記
 まだ 生きている
 これは本の題名で田中美智子氏の書いた本。面白い。
 著者は日本福祉大学の先生から、代議士になられて、国会で活躍されたことは知っていた。がこの先生、川瀬牧場とは関係があって、川瀬さんから田中氏が女性としては凄く度胸のある方だと聞いた。
 何故そのような話を聞く段になったか、その昔、旧川瀬宅に1週間ほど宿泊し、その時の垣間見から凄い人だよ、と話してくれた。
 本を読むと少し訳が分かります。エーコさんは具体的に色々聞いたようだが、こちとらにはその記憶が無い。
 松本善明氏は昨初夏に矢臼別に来られた。奇しくもこの本を書いた田中氏も矢臼別の来訪者として、興味が尽きない。でも今、川瀬さんと本の話を出来ないのがとても残念です。
 私は松本善明氏来訪時は突発性難聴で旭川市で入院中、で御目にかかれませんでした。川瀬さんには「長生きすることですよ」、と松本氏が語られた、と。
 「まだ 生きている」、に限らず最近読む本は如何に人生を閉じるかを書いた本が多い。これはエーコさんから送られてくる本、その手の本が多いからか。
 42歳の時だったか半年ほど歩行が出来なくてベッド暮らしたことがあり、その時読んだ本が宮本顕治氏が書いた自然治癒力の本でした。
 本来、人間には治癒力が備わっていると言う話で、それを実践して悪条件の中を生き抜いた話でした。
 私の「免疫療法・万歳派」の所以です。
 まだ 生きている、もこれではないかと、思っている。



09年4月3日記
 年中ゴム長靴を履く
 今冬は終わった。私の冬の終わりは3月です。昨冬までは大雪が降って冬が始り、5月のメーデーが来て、車で西牧場まで入る。それからが夏の始まりです。いや春と夏の同時進行です。
 ラジオやテレビは遅い春などいうが、通常の北国の春なのです。
 桜の咲くのも例年5月です。今年の冬はスノーモービルを使った所為で喘ぐことはなかった。でも5回ほど雪に埋もれたモービルを掘る作業を経験した。
 別海町では年中長靴を履く人が多い。酪農家は長靴なしでは務まらない。獣医師さんも長靴なしでは務まらない。勿論漁業に従事する方々も。
 詳しく別海町民の履物を調べた訳ではないが、ゴム長靴を職場で履く人が多いのではなかろうか。私も遊びのような農民だが履物は長靴である。
 特に4月は長靴なしでは暮らせない。車に履き替えの靴を積んでおけば良いのだが、今まではそのような事もなく。ゴム長靴様様だ。
 毎年冬のシーズン初めに新調するが一足では足りなくて年間一足半が消費ペースか。これから始る春本番、上手く歩かないと脛まで泥道に踏み込んでズボンの脛の辺りを泥んこにしてしまうことも。
4月の1カ月は「イヤーナ月」なのです。
 凍土がすっかり解けることを「ぬける」、とこの地で古い人は言う。
 矢臼別で暮らす限りは革靴などは無用です。
 「長靴人生」を我が生甲斐、と。
 こんなこと言うと格好つけて、と笑われるかな。はっ、はっ、はっ。



09年3月27日記
 3月の異変
 川瀬西牧場には鶏小屋があって、全盛期には10数羽まで飼っていた。06年夏、2カ月ほど矢臼別を留守にして、友人に6羽ほどを預かって貰った事がある。
 矢臼別に帰ってから、それらを貰い受けに行った。と友人はもう卵を産まなくなった、という話をしてくれた。産む産まないに関わらず、とにかく預けたチャボ系の鶏を有難うと言って持ち帰った。
 それから2年半、夏場には一人で食するには充分の卵を産んでくれる。知人の女性獣医師は鶏は毎日産卵しなくなっても、卵巣が働く間は卵を産む話をしてくれた。
 今春は4羽しか残っていないが、毎日餌と雪(水の代用)を与えるている。最近、給餌する時、4羽が揃わない。24日、何故だろうと裏口の巣箱の方を覘いたら1羽が座っているではないか。驚くなかれ8個も箱の中に並んでいるではないか。そして25日午後、今日も2個が巣箱の中に。
 ラーメン食に入れたり、時には目玉焼を作ったりで食するのだが、新鮮な卵を食膳に乗せることが今春も。
 昨夏から秋に掛けて産卵は止っていた。それで今年はもう産まないかと思っていたのだが、獣医師の言葉は生きている、その事を実感する春の出来事です。
 養鶏場では即肉にされかねない鶏が今年も我が食卓を賑わせてくれそうです。異変ではなくこれが自然なのでしょうが。



09年3月20日記
 恵の雨が
 14日未明から降り始めた雨、夕刻の3時になっても降り続いた。天気予報では重たい雪が降って、が今回も見事に予報は外れて車軸の大降りになった。
 小雨降る中、井戸ポンプ室の蓋を開けて測深をする。
 14日16時の水深、28cm    昨日からは5cmの増加。
 15日16時の水深、30.5cm  
 16日16時の水深、34.5cm  増勢に転じたようで安心。
 17日06時の水深、35.5cm  
 18日06時の水深、40cm    
 19日16時の水深、44cm    
 20日06時の水深、45cm    

 これで心配なく洗濯も可。そして風呂も街の温泉でなく我が家の湯船に入れる。40年間で最小の降水量が昨年の記録。これを乗り切ったのだから当分は大丈夫か。これが井戸の掘り増しを躊躇させる。 掘るべきか、もう少し様子を見るべきか。ついハムレット型に陥る。
 資金が要るからねぇ。でも良かった今冬は問題なく終わって。



09年3月13日記
 天気予報外れる
 6日夜から7日朝にかけて天気予報は重たい大雪予報。ところが夜中に降ったのは雨でした。温室の屋根を心配していたが、一難は去ったし、1週間後の地下水の変化も楽しみです。
 昨夜の降雨が何ミリの降水だったか、とにかく何処かで凍結地表に穴が開いて地下に浸透するに違いない。

 6日16時井戸の水深、23   cm      
 7日16時井戸の水深、22.5 cm      
 8日16時井戸の水深、22   cm  予想範囲内での減少です。
 9日14時井戸の水深、23   cm  微妙な増加。   
10日14時井戸の水深、25   cm  増加に転じたか。
11日14時井戸の水深、24.5 cm  
12日14時井戸の水深、22.5 cm  測深誤差か、微妙。
13日08時井戸の水深、23   cm  地上からの補給が。

 地上からの浸透水がそろそろ始ったように思われる。続けて200リットルの給水を続けると約10cmの水位の変化をすることをテスト済みですから湯船に水を張ったり、洗濯をすることは控えたい。しかし今冬も給水ポンプが空気を吸うことは無さそうで、水危機は乗り切ったように思う。
 半世紀を見通した井戸掘り、それは忘れないようにしたい。でも東牧場の井戸掘り、西牧場の井戸の掘り増し作業は悩ましい作業です、何時掘り直すかが。
 後は野となれ山となれでは誰も納得はしてくれませんから。



09年3月6日記
 井戸の水は
 西牧場の井戸水の深さを改めて調べると、
6年の冬、増加に変わったのが3月23日で水深33cm。
7年が、              3月22日で水深55cm。
8年が、              3月16日で水深37cmとなっている。
 今冬、3月5日の水深は23cmで給水ポンプの吸い口までは8cmしか残っていない。
昨年までの水深変化を考えると、後2週間、増水は望めそうにない。そして使える水の残量も2週間後が期限になりそう。
 これは想定内の数値でポンプが空運転をしないように注意が必要である。現在予備水として飲料用に約100リッター、水洗便所用に100リッター程をキープしている。
 水位の減少も日々0.5cmでこれは正確に刻まれている。地上からの補給が始らないと、3月20日を過ぎると今の給水口からは水は汲めない。
 3月に入ると地上からの水補給が始るようだが、明らかに増水が顕著になるのは最低水位の表示から1週間後のこと。
 外出時は給水ポンプの電源を切っておくことが賢明かも。色んなことを想定して、先手を打って置かないと後の後悔になってしまう。
 決して楽しい井戸水の測深ではないけれど、西牧場の表層地下水の変化を調査する、今月の測深は興味が尽きない。友人の予測では地表の凍土が浅いので早く増水するのでは?と。
 なら、大変有難い事なのだが。



09年2月27日記
 雪よ降れ、降れ
 2月20日正午頃から東風に乗って降り始めた雪、21日朝は北西の風に乗って降り続いている。気圧も思いっきり下がった。我が家の気圧計では945ヘクトパスカルを表示している。
 今は少々被害が出ても水の元が天から降ってくれることを良しとしたい。それに少し経費は嵩むが交通にも不自由はない。夏場の駅前市街の往復時間が略同じ、1時間と少しで帰れる。
 4年前に井戸を掘って、その翌年から掘り増し工事のことを考えているが、その構想も略決った。今年の井戸水の増水が何時になるか、そのときの水深が如何程かが問題。
 水がなくては生活の継続は難しい。50年先くらいは見据えて井戸を造っておかないと笑われる、そんな気持ちで居ます。後継者が未だ現れないのに気の早いことだが。
 昨日今日の降雪はまとまっています。積雪50cmは降ったろうか。夏に活躍するビニールの温室が降雪の重量で潰されるのではないか、そんな心配もしている。でもこの際はそれも仕方なしと思うようになった。
 後3週間もしたら井戸の水が増え始める筈。雪が降らないことには地下水は増えない、だから降れ降れなのです。
 我が家の井戸だけではない釧根台地の地下水が少ないのですから恵みの雪なのです。その代わり直接被害も出るだろう。西牧場では温室の潰れ被害など。
 でも今は水資源に変え難いので我慢しよう潰れ損などは。
 21日午後2時、温室の除雪作業を始める。そして1時間、今回も潰されることなく復活させる。 
 疲れた、でも目出度し。



09年2月20日記
 気懸かりなこと
 いつも世話になっている駅前市街の自動車修理工場での話。駅前市街でも昔から使っている家庭の井戸が水枯れしているという。
 アメリカの前の前の副大統領の「不都合な事実」だったか、地球環境の悪化を訴えてエコが俄かに叫ばれるようになった、と思うのだが。
 竜巻の話、ハリケーンの話、ヒマラヤの氷河が融ける話、オーストラリアの火災、最近富みに伝えられる自然現象の異変です。
 北海道でも冬の初めに気温が高いことなどが伝えられた。私が特に気になるのは40年か50年ぶりに別海町の年間降水量が昨年最低記録をしたことです。
 西牧場の井戸に問題が起こらなかったら、私もただぼんやりと、やり過したのだろうが今はそうではない。05年6月に自力で井戸を掘ってそれ以降井戸水の測深を続けている。
 どれだけ長くても1週間を超えて測深をしないことはなかった。それで分かったことは4年前にも井戸水は少なかったが、今冬は輪を掛けて少ない。
 井戸水の測深を続けていて分かったことと、気象庁の降水データが数十年来の少雨だったことや、採草地の草の収穫量が少なかったこと等、明らかに別海町近辺でも異常現象が起こっているという事実。
 現在、西牧場の井戸水は枯れるまで30日余あります。が今冬も乗り切れると思っています。心細いけれど。
 問題は別海町の話ではありません。日本国の全体の話です。エコのCO2削減目標でもたもたする日本国政府、頼りないですねぇ。
 これだけエコ危機が迫っていると言うのに。



09年2月13日記
 あまり見栄えのしない写真
 先週のトップページに青空写真を3枚も出した。エーコさん曰く、写真が出ていない、と。
 「へえ! 写真が出ていない?」で慌てて開くと、青空の写真がちゃんと。お粗末ながらこれで良いんです、と。
 実はこの青空の中に煙を吐いて飛ぶロケット弾が映っているんです。それに後の2枚は時間と共に拡散するロケットの飛行雲。
 この辺りから飛び出す、と注意して監視をしないと見過ごしてしまう。迫力のない映像だが敢えてこの日に撮影したものを掲載したのは、この飛行体とんでもない代物だからです。
 写真の下にコメントを載せておきました。クラスターロケット弾で、644個の子爆弾を内蔵している。製作会社も載せておきました、国産です。
 クラスター弾をイスラエル軍がレバノン爆撃で使用したのは確か07年のことでした。それも停戦の直前だったと。クラスター弾の不安、危険性はそれから後のこと。
 一見、赤い炎を吐いて飛ぶ変哲のないロケット弾、昨年使用禁止条約をスタートさせたクラスー弾。しかし多量に保持するアメリカ、ロシア等が加盟していない国際条約です。
 昨年の米海兵隊の射撃訓練で白燐弾を21発だったか撃ったと言う。矢臼別の市民監視団はそれらしき物を視認できなかったが、矢臼別は何でも有りの演習場になりつつあります。
 基地周辺に住んで居ても、南北約10km、東西約30kmの矢臼別演習場、原野では何がどうなっているのか分からないことばかり。
 もう少し自衛隊のことを調べんといかん。そんな気持ちで居ます。



09年2月6日記
 続いてイスラエルについて
 白燐弾について先週少し書いた。ガザ地区の爆撃で使用されたと言う。友人のブログを読むと使われた白燐弾の下逃げ惑う市民の映像が掲載されていたが、矢臼別で炸裂した映像と良く似ている。
 私が観たのは7kmほど離れた着弾地の上空での炸裂だが、自分の住居に降りかかる砲撃だったら、と思うと居ても立ってもいられない。
 叉2月1日のしんぶん赤旗によると、ガザ市内の病院で医療活動をしたノルウエー人のマッズ・ギルバート医師がイスラエル軍の残虐兵器使用を告発をしています。DIME(高密度不活性金属爆弾)をガザ地区の攻撃で使用したと言う。
 白燐弾も米国製でしたがこの爆弾もアメリカが現実験段階の兵器で殺傷力は低いが身体に深刻な影響を及ぼす兵器だとされる。「DIMEの傷を受けた生存者の手足の肉体組織は切断され、骨はシュレッダーにかけたように粉々になる」とギルバート氏は説明した、と。爆弾にはタングステンの細かい金属粒子が仕組まれていて、「この粒子が体内に残った場合、患者は4−6カ月でがんが発病する脅威にさらされる事になるとも。
 そしてギルバート氏は「イスラエル軍がガザ地区を新兵器の実験場として利用したとの強い疑念を抱いていると訴えています。
 前のブッシュ米大統領の時にガザ地区を爆撃して使われたのでしょうが、日本政府にも責任の一端があるように思えます。
 日本政府の国際的な発言にはアメリカ一辺倒の嫌いがあるからです。インド洋で給油する行為などもアフガニスタンで無辜の市民を爆撃する戦闘機に給油するのですから罪は免れません。



09年1月30日記
 放浪の民
 中東の紛争について全くの素人ですが、先週に続いて思うことを。実は放浪の民、と言う呼び方で2000年も昔から、国土を宣言できなかった民が祖国を再現したのがイスラエル国だと。それくらいの知識しか持っていない。
 第2次世界大戦後に英国がイスラエル建国を約束し、現在のイスラエル国家が2千年ぶりに再建されたとも。ぼんやりとそんな記憶で中東の問題を話すのでは笑われるかも知れないが、ガザ地区への爆撃や砲撃の事実を聞いていると「何故」があまりにも多い紛争です。
 米国が何故にガザ攻撃を容認したのか、その他にも国連決議で拒否権を行使してきたのか、つまりイスラエルよりの意思表示をしたのか、イスラエルの遣りたい放題を認めてきたのか、少し分かった。
 核を保持しているとも、叉中東戦争で占領した他国の土地をそのまま支配していることも、ことごとく国際社会では違法な行為を取り続けているイスラエルを咎めようとしない米国。
 最近使われた白燐弾も米国製だとか。それに米国の政治家の政治資金はイスラエル系の資産家が多額献金者だとも。米国のイスラエルよりの政治は金で買われていることも少し分かった。
 放浪の民、とは私が子どもの頃に聞いた大人のイスラエル人を語る言葉で、ネットで引くと、イスラエルの事が出ている。
 年に何度か会う獣医師は中東問題に明るい、私の疑問には事細かに答えてくれるに違いない。でも自分なりに少しは学習をしておかないと。
 イスラム世界では富める者が貧者を救うのは当然という。ペルシャ湾で聞いた話です。もらい物に感謝の心を露にしない。 



09年1月23日記
 イラク崩壊
 これは本の題名、先週の続きを。随分危ない中をくぐって書かれた本であること分かりました。従軍兵士とは違った目線で書かれています。が読み取れることはアメリカがイラク崩壊の大本であることに行き着きます。
 特に印象的なのはフセインが施政中の毒ガス使用について、米国政府は手のひらを返すように標的を隠してしまった話です。
 その理由はフセインの不正を口にしたのは良いが、実はそっくり米国自身に、吐いた唾が降り注ぐことに成るからでした。
 年末から年明けにかけて、イスラエルがガザ地区を武力で制圧しようと侵攻した。イラク崩壊を読み終わって、すっきりした訳ではありませんが、米国がイラクに戦争を仕掛けた理由がイスラエルと大いに関係があるように思えてきました。
 米国がイスラエルよりの政策を取り続けた結果がイラク侵略になったりアフガニスタン侵略になったり、イスラエルと米国は双子の如くに政策が似ていることが分かる。
 自爆テロというイラクやアフガニスタンで急速に勢い増す、聖戦と呼ばれる戦い方が後を絶たないけれど、「米国軍が侵略した国からいなくなるまで・・」続くと言う表現には頷ける。
 ブッシュ米大統領は最後の記者会見でも自分は正しいことをしたのだと話し、これからも間違いを認めようとしない人でしょう。
 昔から喧嘩両成敗と言う言葉がある。夫々に言い分があって、でも戦争に勝ったものが威張ることが多い。
 時は流れて、武力では物事が解決しないことを教えている。新しい大統領の就任を界にガザからイスラエル軍が引き上げた、不思議。
 アメリカの陰が大きいさを、ふと。



09年1月16日記
 イラクへ行った米軍人の話
 3日ほどに分けて、イラク従軍兵士の話を読みました。続いてイラクに取材に入った朝日新聞の記者が書いた本も今読んでいます。
 面白いと書いては語弊があるかもしれないが、目線は次々と先に行きます。前者は「イラク」米軍脱走兵真実の告発、ジョシュア・キー氏(元アメリカ陸軍上等兵)です。脱走がどれ程の大仕事かも書かれているけれど、最もこの本を読んで分かることは、民主とか自由とかを説くブッシュ米大統領のしていることが酷いかを告発していることです。
 著者がどのような経緯で陸軍に入ったかも分かりやすい。既に伝えられていることだが貧困が大本になっています。
 後者「イラク崩壊」については今読んでいる最中ですから、先に送りますが、朝日新聞元中東アフリカ総局特派員・吉岡一氏が書いた本です。
 「イラク」に話を戻しますが、ジョシュア・キー氏が語る話は入隊して教育されたことと、イラク現地で兵士として行ったことが正反対のことであった事です。
 彼も大量破壊兵器を懸命に捜し求めたことを書いていますし、テロリストを追い求めた話も書いていますが、イラクに自由を、と攻め込んでいって、したことが人権侵害の耐え難い暴力だったことです。
 軍法会議で死をも宣告される脱走を試みてまで職場復帰を拒否したのは人間の尊厳を守りたい一心からでした。
 何故イラクがフセイン亡き後も迷走するかはこの本が教えてくれます。読んで良かった。



09年1月9日記
 八戸の水道騒動
 9万世帯余もの市民が正月早々に断水騒ぎ、のニュースが伝えられた。我が西牧場も水のことでは今年は不安を抱えている。
 昨年の別海町での降水量の数値が気象庁から発表された。最も浅い地下水脈を利用した井戸の水位を週毎に計測して、今年の水深が浅いことを把握している。
 元旦の水深が52cmで、このまま水位が日変化をすると、45日後には水を供給できなくなる。それは2月15日頃で、給水ポンプは空気を吸ってしまうだろう。
 そういうことが、明確になった年の初めの降水データ。八戸の騒ぎは他人事ではない。水が井戸から出ないとたちまち困る原野の生活、ここは将に自己責任の世界です。手立ては自前でしなくては。
 今年こそは井戸の水が枯れそう、が今から予測されます。が慌てることはない、枯れる前に必要量を溜め置いて、地下水が自然増加するまで待てば良い、ってこと。
 地下水の自然増加は2月末から3月中旬であることも分かっている。変動幅は地表の凍土の厚さに関係があるらしい。雪が少ないと凍土は深く、雪が多いと凍土は浅い。
 耐え凌ぐ方法は胸の内にある。手持ちの4リットル入りのボトル80本ほど使って室内にキープ、凍土のとけるのを待つ。
 暖房の方は何の心配もないが、近年30年来で最も年間降水量の少ない昨年の788mm降雨には、ばんざい。
 昨年は牧草の収穫で、40年続けてきた酪農家が最悪だったと話しています。
 5年から始めた西牧場の井戸の水深測定、気象の変化を明確に教えてくれます。人災にならないように、水対策をしなくては。



09年1月2日記
 師走の27日、赤旗は
 ハロルド・ピンターさん(英劇作家、ノーベル文学賞受賞者)が24日に亡くなった事を伝えている。全く知らない人でしたが05年、ノーベル賞受賞の記念講演で「イラク戦争は米英両国による国家テロ」と批判し、ブッシュ米大統領とブレア英首相(当時)を国際法廷で裁きにかけるよう求めました、とあります。
 3年前のノーベル賞受賞講演ですから、古い話ではありません。
 全国紙を隈なく読んでいません。で他紙がどのように伝えたかは分かりませんが、ブッシュとブレアを国際裁判にかけよの発言は立派です。
 片田舎にもつぶやくようにいう人はいますが、大いに影響力のある場所で、堂々とブッシュとブレアを批判する勇気はお見事と言いたい。追直近では「靴投げ」がありました。
 ノーベル賞の受賞者を100%認める立場ではありません。何故なら佐藤栄作さんのような偽者が平和賞を受賞しているから。核兵器3原則とやらでその平和思想のメッキが剥がれたばかりです。それにトンキン湾事件のアメリカびいきも平和賞に値しません。
 誰も彼もに訪れるノーベル賞受賞講演ではありません。その講演で当時の米英両国のトップを批判したのです、その勇気に拍手を遅ればせながら。当時の反応は分かりませんが、既にこんな人が居たのだと、ちょっぴり安心しました。
 ブッシュさんつい最近、イラク侵略の大義が誤りだった、と記者会見しました。けれど、戦争犯罪者と断罪した記事は見なかった。
 希代の大罪人なのに、摩訶不思議。 



08年12月26日記
 まだ夏の季節だった
 NHKテレビで雄ライオンの世代交代がどのようにして行われるかを物語る番組があった。強い雄ライオンといえども、ある時が来るとその座を降りなくてはならない。それが自然の掟だ。強い雄を頂点に群を作って繁殖を続けるが、その内に外側を取り巻く若い世代がその群の長の座を脅かし、若くて強い雄がやがて群の長に納まる。
 その闘いはあっけなく決着することもあれば、少し長引くこともあるらしい。そして決着が付いていないかに見える長の闘いも判定する方法があるという。
 雌ライオンの群を視野の中において複数の雄が争うのだが、次の群の長に納まるのは群を背にした雄だという。
 横から見た位置取りが雄A、雄B、雌群の時。雄B が次の群の長だと言うのです。つまり雄A はその時点で群の外に位置している。映像を観てフーンそうなんだ、と理解した。
 我が西牧場でも春先から馬群の長の座が争われた。10数年その頂点にいた雄馬がその座から追われた。
 17歳の雄と3歳の若駒が、これ実は親子なのだが、初夏の繁殖期に争ったのです。そして3頭の群と11頭の群に分かれ、世代交代が行われたのでした。
 この時役立ったのは、というより目にしたのがアフリカの草原で繰り広げられる雄の世代交代の姿そのものでした。
 若駒の位置取りが常に雌馬群を背にしています。飼い主がいくら願っても17歳の雄馬は以前の位置取りが叶いません。
 17歳雄馬と3歳若駒の16歳母馬、それに春先に生まれたコッコ馬を市場に出す決断を。番組から得た貴重な知恵でした。



08年12月19日記
 靴を投げられたブッシュさん
 16日朝の電子版毎日JPを開いたら、靴を投げられた記事が目に入った。アラブの国で「靴を投げられたり、犬呼ばわり」される事がどれ程侮辱的な行為であるかを、あるブログで読んで知った。

 そのブログで「マハムディヤの悲劇」も詳しく読むことが出来た。
 06年3月に起こった米軍兵士によるレイプ殺害事件だ。この事件は”Redacted&quot;という映画にもなりアメリカの反戦機運を高めた、と。
 ブッシュさんは投げられた靴を身をかわして避け、ジョークで切り返したらしいが、会場は静まりかえったままだった、という。
 官憲にこの記者は拘束されたけれど、この行為をイラクでは英雄扱いという。この記者の行為には頭が下がります。一般的にはテロと呼ぶのでしょうが、アラブ流の最高の批判と言いたい。
 イラク侵略戦争は無辜のイラク人何十万人もを犠牲者にしているのだから、細々と知らなくともブッシュの悪事を語れる。が、それにしても「マハムディヤの悲劇」はむごたらしい。
 検索をすると直ぐ分かるので読んだブログを敢えて書きませんが、ブッシュの罪は言うまでもなく、小泉さんにしてもその後を引き継いだ日本国の首相はいい減にアメリカ支援が何なのかを猛省すべきです。
 懲りないでブッシュさんはアフガニスタンにも足を延ばし、今後も侵略を続ける旨の話をしたようです。
 日本政府が行うインド洋での給油がアフガンの人々には悪事であることも知るべきです。
 もう一度、「靴を投げられたブッシュさん」を支持することが何なのかを早く解しないと。麻生さんに理解は難しいか?



08年12月12日記
 本を読む
 「昭和天皇・マッカーサー会見」豊下楢彦著を読む。繰り返し2回目を半分まで読んだが、スカッと頭に入ってくれない。でも少しずつ分かってきたことはいかにして昭和天皇が戦犯として裁かれることを逃れるために策を尽くしたか。
 そして死して20年、今も日本国はその為にアメリカに従属したままに60数年を頚木から逃れることなく、うなだれたままである。
 この本を読むと少しずつそのことが分かってくる。田母神という前航空幕僚長が太平洋戦争は濡れ衣発言をして問題になっているが、日本国が今以って太平洋戦争の総括を確りと出来ないのは、昭和天皇の責任逃れから発していることが良く分かる。歴史というものはこの様にして流れてゆくのかも知れない。
が、昭和天皇のその強かさには驚きます。もの心がようやくつく頃から、天助だの天ちゃんだのと、こけにした呼び方を聞いて育った。しかし天皇は超級の政治家であったことがこの本を読むと分かる。今さらながら。
 戦後の憲法で戦前の天皇とは明らかに異なる象徴天皇に替わったのだが、その過程において大きな政治的な働きを、つまり安保条約を用意したのも昭和天皇なのかも知れない。そのように進めたのは、わが身かわいさの成せること。天皇制を認めない社会主義思想を極度に嫌った故の国防体制がアメリカとの安保条約に、そして沖縄の基地提供に繋がって行く。
 読み違いをしてはいけないので再度読み直しているが、日本国における天皇家の存在は改めて国民の総括を受けなくては、と思う。
 気の遠くなるような話だが。



08年12月5日記
 今年も水の心配を
 井戸を掘り直して3年目が過ぎた。その後使い始めて井戸の水深が初年度から増えたので安心していたが、今年の経過は少し様子が違う。常に水嵩が低い。
 05年の12月1日は75cm。06年は164cm。07年は109cm。そして今年は71cm。
 今年は夏場から降水量が少ないことは分かっていた。気象庁の降水量のデータから考えると最近の15年で最も年間降水量が少ない年に当ると予測します。
 新春の3月初旬が渇水時期になるが、この時期をどう乗り切るか、今から考えておかなくては。井戸を掘って直ぐ、掘り方が1m浅かったことを痛感した。それで翌年直ぐにでも掘り直そうと思ったりもした。が、その後水位が増量したので、当分は大丈夫と考えたのだ。
 もう今年はこのまま様子を見て、堀増しは来年のことにしたい。しかし井戸の水が15cmの水深になると吸い上げポンプは空気を吸うことになって、自家水はお手上げになる。
 その前にどれ程の清水を保存すれば春先の増水を待てるか。それが不安に対する備えです。水位15cmになる前に250リッターほどの清水を屋内に保存する。これで60日分は賄える。
 不都合が起こるとその事を解決するために色々と手を打つ。一時しのぎはそれで良いと思う。
 でも最善手は掘り直しです。ここに居る間に、もう一度試みなくてはいけない課題です。
 何事によらずですが、最終決断は慎重にですねぇ。井戸掘りって難しい。



08年11月28日記
 冬の監視、老躯には厳しい
 今回の監視は10回目、が今回ほど寒さが身に沁みるのは初めて。特に監視初日の20日は気温こそ1℃〜2℃だったが風が強くて、着弾地の方向から吹いた。それに対する備えが出来ないままに初日の監視が始った。防風避けのテントを張ったり、暖房を始めるのが3時間ほど遅れる等、出鼻で私はダメージを受けた。結局午前中は盆踊り広場を歩き回っての射撃音聴取に努めた。撃ったのは午後の12時21分で、食事中だった。
 3日目だったか、11月では何十年振りと言う低気温でー20℃を道内2箇所で記録した。矢臼別ではー8℃からー10℃を朝方に表示したと思う。
 とにかく今冬一番の寒気団が北海道を覆った時と重なった訳で、その上自身がその認識を欠いたので一枚重ね着が足りなかった。風を引かないように気を引き締めたのが良かったのか、風邪を引かずに現在も頑張っている。
 未だ総括をするには少し早いが、155mm砲の射撃訓練よりも、その他何でも有りの訓練になっているのでは、と思う。
 昨年ほどの小火器の使用音は聞かないが、明らかに小火器は使っているし、155mm砲の使う時間が少ないことが、何でも有りの証拠ではないだろうか。
 イラクにしてもアフガニスタンにしても今は厳しい冬の季節。沖縄米海兵隊の派兵先と気象条件がぴったり合っている。
 火器の使用条件を確かめる上でも、派兵先に叶った気象条件で、友人が知らせてくれた海兵隊のニュースでも、その事を実践している旨の訓練内容を伝えている。
 音だけが頼りの監視行動、テントの中では夫々が講釈師に成代って見て来た様な話をするのだが、何故、今、矢臼別でなのかが分かる。海兵隊にとっては価値ある演習場なのです。
 29日には射撃訓練は終わるが、何でも有りの訓練は続くだろう。



08年11月21日記
 友人からのメール
 11月16日、メールで米海兵隊の出したニュースを送ってくれました。周辺4町村の首長と懇談したと言うニュースです。
 今年は公開訓練はしない、説明会もない、10回目にして初めての矢臼別での射撃訓練です。
 ニュースの日付は11月14日で、隊長の言葉に「訓練の合間に」との発言があり、13日に演習場入りしているので、射撃はしていないが、早何でもありの訓練をしていることが分かる。
 そして別海町では障害者施設に30名程の隊員がボランティアで奉仕活動をする等とも。私達はこういう人間ですと、宣撫工作も毎回行います。
 来る11月30日には釧路の反戦集会で、イラクでの海兵隊の蛮行を告発する講演があります。矢臼別の訓練とイラクやアフガニスタンは直結しているのです。そう考えるようになりました。
 アメリカ人、日本人を問わず、戦地に送られた兵隊は酷い事をします。それが実戦体験者の偽りのない談話だと思います。
 アメリカでは海兵隊に志願することで、大学に行ったり、就職できたり、医療保険を取得したり、と若者を貧困に追い込んで志願者を募る方式が出来上がっていると言います。徴兵制でなくても充分間に合わせているのです。
 映画「アメリカばんざい」は未だ観ていませんが、矢臼別にやってくる半年前の彼らをインタビュアーから聞きました。
 次々と殺人鬼を作り出すアメリカ、自衛隊も今にそうなりそうです。つい最近更迭された航空幕僚長、現在の日本にもとんでもない人が居ます。油断は大敵です。



08年11月14日記
 花豆を煮る
 花豆を菜園で作り始めて、15年は下らないと思う。そして自ら豆の煮物を始めたのは昨年から。未だ煮方は素人同然です。
 今年も少し傷物だったり、実入りの悪かったものを自分用に煮立てることにした。砂糖の量はふやかした豆重量の15%〜20%程で煮上げる。これがなかなか美味しい。そして今秋は三度、花豆の煮物を試みた。
 料理の経験者には笑われるかもしれないが、何回か煮てる内に美味しい煮方が分かってきた。私の場合は豆を水につけること2昼夜ほど、これ以上膨れない所までふやかして、次は薪ストーブに載せる。特に時間を決めて煮る訳ではなく、とろ火の状態で半日くらいストーブの上に置いたまま。
 頃合を見て、7、8時間後、赤い煮汁を捨てて新しいお湯で再度煮る。最後は柔らかくなった事を確認して砂糖で味付けをする。最後に塩で味付けを決めることが大切。これはエーコさんが教えてくれた。
 ただ私は豊作だった人参やジャガ芋を最近よく食べる。そして水煮することが多く、その後塩や酢で少し味付けをして食することが多い。
 ステーキ等は船乗りを辞めてから1年に一度か、時にはゼロのことが多い。しかし食べる時は塩味一偏党です。
 戦後の食糧難の時代に塩味だけの味付けが舌の感覚を決めたのだろうか。
 健康管理で塩の量は何かと注目される、そして台所では欠かすことの出来ない調味料です。上手に使わないと。



08年11月7日記
 嫌な季節が
 矢臼別で暮らして、いやーな季節が今なのです。土道路がぬかるんで車の足回りは泥で厚化粧です。外出が長靴着用になるのはその為です。極端に言うなら5cmの深さの泥田を歩かなくては平和池のゲートを越えて行けない。道には馬の通行止めのゲートがあるのです。
 朝は堅く凍土になっていても、昼間は解けて泥田状に、これを11月中繰り返す。轍は段々深くなるし、それを進行させたくないので昼間の車利用はしないようにするのだが。
 自分の車だけは自由に通行できても、普通乗用車はお手上げです。それに宅配便の4トン車の道路破壊も並外れ。
 だから、この道路事情が続く間は宅配便が来たら、東牧場まで自分が受け取りに。毎年のことながら11月はそんな季節なのです。
 最近は経年を理由にすることが多く、何かとおっくうになったこの頃です。
 毎度のことなのに、気を揉むことが多い今秋。川瀬さんが道路管理に設けた排水管が平和池の近くにあって、地下50cmでコンクリート管の接続がはずれている。10日程前の雨降りで道に穴が開いて判明した。取り急ぎこれを補修しなくては。でなきゃ馬喰さんの運搬車が入って来れない。
 西牧場から東への私道路はすべて自己責任。今回の補修、たっぷり1日は掛る。馬の捕獲の前に道の補修を急がなくては。
 今日6日は取り急ぎ道路補修の日にしよう。おっくう等と言っては居れない。午前中3時間、午後2時間で補修の工事は順調に終わる。
 よかった、よかった。  



08年10月31日記
 雨が降るとネットは通信不可
 24日、午後から別海町は雨が降り出しました。この日は朝から降雨の天気予報が出ていたが、3時間ほど遅れて雨が降りだす。雨が降り出すと心配事があるのです。
 8月末以降、インターネットはAU.NETを利用している。これは携帯電話の無線を利用したネット中継で最も近くの無線塔の方角は北です。
 我が家で比較的に樹木が遠くて視界が開けているのは南東方向で、北側は最も樹木が密集している。そして未だ紅葉したどんぐりの木は葉を落としていない。
 少しばかりの知識を働かせると、木の葉に雨が付いて「水の壁」が厚くなり、電波を遮断する。これが主原因で電波通信が悪くなる。この判断はさておき、とにかく雨が降り出すとネットの繋がりが悪くなる。
 だからと言って川瀬さんが伐り残してきた現住所の周りの樹をネット中継のために切倒す等はしたくない。
 いつもなら5分で上がる「週間矢臼別ニュース」が意の如くならず、先週は2時間ほど掛けてようやくアップが出来ました。
 これからは木の葉も落ちて、比較的に電波の遮断が軽減され、通信条件は良くなるだろう。それに道東は雪の少ない地方です。冬期は電波によるネット中継は良くなるのではと予想します。
 9月から始った携帯無線塔とのインターネット、上手く行きますように祈るばかりです。
 今冬、答えが出ます。



08年10月24日記
 ついに霜が
 22日早朝か、矢臼別にも霜が降りた。午後になって気付いたが、花豆の葉っぱが萎えてしまった。略収穫は終わりに近づいていたので問題はなしです。
 トップページの写真に使いましたが、ジャガ芋の収穫も22日で終わりました。収量は作業が終わるまで分からない。この日の収量は半作でした。残る作物は人参の3畝だけに。これは1日で埋設貯蔵まで出来るので花豆の最終収穫を含めて今週中には収穫は終わります。
 ただ土曜、日曜が雨天の天気予報なので、畑作業の一段落は10月一杯掛りそうです。
 馬群の整理が急がれますが、菜園の後始末もしなくてはなりません。つまり畑に残った花豆の枯れた柄や、除草した草を堆肥場に納め、来春に備えて馬糞を軽トラックで20台分ほどを畑地に持ち込む。
 ここ数年はこの作業パターンで菜園の打ち上げをする。そして一人だけの収穫祭を。
 霜が降りると収穫作業に拍車を掛け、菜園作業は終わります。
 で身体の疲れもピークに。特に腰の周りが痛む。ここ1週間は畑に屈んで草を抜き、その後芋の手掘りの連日でした。今秋ほど収穫作業を大仕事に思ったことは無い。
 本の少し体力を超える仕事量だったのかもしれない。夏以来の薪の運搬、収納作業が何時もの年間作業をオーバー、狂わせた。
 矢臼別で生活するには何が何でも一人作業です。これが出来る間は幸せなのかも知れない。 そんなことを今秋は日々考えた。



08年10月17日記
 水の値段に
 最近は、鮭を駅前農協広場で買うことにしている。顔見知りの商店が出しているテントで今年も何尾か買い求めた。どうしてそのようになったかはさて置き、ハワイの名水とやらを鮭販売店主からボトルで頂いた。これが何と1.5リットル入りで630円と言う。
 農協で買い求める牛乳1リットルパックが250円だからこの水の値段が高いことに驚く。私は焼酎の水割りとして賞味したが、美味い。それにストレートも味わったがまろやかな味がする。でもこれで無きゃ始らない、でもない。こんな水が市販されていることを初めて知った。
 専ら矢臼別の井戸から汲み上げた水をペットボトルにつめて車に常備、愛用している。ここ2年は水質の検査はしていないが、井戸を使い始めた最初の年に保健所のお墨付きも取っている。
 水のことでもう一つ、道東地方では今年に入って9月まで降水量が少なかった。降水量を気にして、週に一度の割で井戸の水深を測る。
 矢臼別の井戸は3月を境に水深が増える、が井戸を使い始めてのデータです。で何時ものなら180cmにもなっている7月の水深が71cm、8月が66cm、9月が65cm、しかありません。
 その後も増えないまま、9月の大雨が降って初めて増え始めて、10月初めに121cm、で昨年並に。
 酪農家から聞いた話です、今夏の牧草収穫は近年まれに見る不作だと言います。理由は降水量が極端に少なかった為とか。5年前には10年来の降水量の少ない年だった。その夏と比べて、より少なかった今夏の降水量、15年来の降水量の少ない夏と言えようか。
 今後どれだけ降ってくれるやら、気になる井戸の水深です。



08年10月10日記
 8日の朝刊で
 7日の夜、テレビで日本の物理学者が3人ノーベル賞を受賞したことを報道していた。今朝の電子版でも揃ってその事を伝えている。アメリカ在住の南部氏は50年も前の論文が、小林氏と益川氏は35年前の論文が受賞の対象になっているという。南部氏は87歳、小林氏は64歳、益川氏は68歳とか。いずれの方も素粒子学の論文で、という。
 片田舎で暮らす人間には何のことだかそれこそ雲の上の話だが、その道の方々の間では、何時受賞するかと噂に上がっていた、ようです。
 昨日の赤旗の一面には”私大下宿生入学まで214万円”等と出ている。学費が諸外国に比べて高いという話です。
 大学といえども成果の上がらない学校には金は出さないというのが、今の教育予算、と理解している。
 小柴氏の6年前のノーベル賞受賞の時にも言われたことですが基礎科学に金を掛ける事の大切さが話題になった。基礎科学がどれ程、生活に関係しているか田舎者には理解できないが、そういうことの積み重ねがあって日常生活が潤っているのだと思う。
 予算がついても目に見えて実績を挙げないと次からは削減と言った話をよく聞く。教育に競争原理を持ち込んで、盛んに競争を煽る風潮。今、こういうことが日本の常識に成りつつあります。
 久方ぶりの明るいニュースではあります。が30年も50年も前の論文が評価された意義を考えると、今の教育予算の貧弱を憂います。
 またまた9日にはノーベル化学賞で下村氏(80歳)が受賞者に決ったと。
 


08年10月3日記
 偽善エコロジーの話
 最近、武田邦彦氏の書いた、偽善エコロジー「環境生活」が地球を破壊する を読んだ。環境に良いと言ってリサイクルを唱えているが、そのことがそっくり検証済みなのかどうかを考えさせられた。
 つい最近までゴミの収集には選別を確りしてと考えていたが、資源ごみの選別に対する考えも、これが本当ならもう「や−めた」に変わりました。
 早速別海町のビニール系の資源ごみについて問い合わせたら、今年のビニール系のゴミは新日鉄室蘭が落札していて補助燃料として使われているとの話で、如何ほどの値段で買われて、採算はどうなのか迄は訊けなかった。
 が、どうやら本に書かれているように掛った費用を上回るようには行っていない感触。感じで事は済みません。後日この話は詰めたい、と思う。
 本の説く所は掛けた費用の5分の1くらいで処分されているとの事です。つまりこの種の仕事に携わる人達の生活を支えているだけだ、と。でこの予算たるや大きい。
 確りし分けるよりも燃やすゴミに混ぜて燃焼させる方が未だ益しだとも。
 色んなことを書いています。夫々の人が読むことによって、何が今求められているかを考えさせてくれる本です。
 本を送ってくれたのは水沢のエーコさん。選んで読む本、勧められて読む本、色々読まなくては脳の活性化はしないように思う。
 随分前からマイバッグを使って買い物を。自宅にゴミを持ち込まない手立てとして。
 


08年9月26日記
 鉄骨橋梁が中島に
 9月20日10時頃、中島に長さ13m幅2mの鉄骨橋梁を架けました。製作した鉄工会社が架橋工事を滞りなく、でした。
 川瀬さんが道路側のコンクリート橋脚を担当、私は中島の草刈、橋梁端を受ける枕木の設置を担当、今月初旬に受け入れ態勢は整っていました。
 橋梁の持ち込みは20日09時と打ち合わせていました。8時に現場に行って、中島の枕木を念のために再度点検、13mの長さに端を受ける枕木を据えつける。
 定刻より20分程早く橋梁は届いた。しかしクレーン車の設定で遅れること40分余、地盤の弱い土道での方向転換に手間取り、トラクターの来援に時間がかかりました。
 橋梁を一度取り付けポイントに降ろすと二度と持ち上げることもなく据付は終わりました。
 本年2月の結氷した平和池の湖面上での橋の長さの計測から8月末の橋脚コンクリートの打ち込み等々、川瀬さんの段取りには感服しました。
 鉄工所の人達も現場の準備の良さには合点された、ことでしょう。残るは木工作業で、叉川瀬棟梁の出番となります。
 内地の太平洋岸では台風13号の通過で大時化の天候が続きましたが、北の矢臼別では快晴の秋日和の午前中、1時間余で架橋作業は滞りなく終わりました。
 中島の草刈や枕木の据付では随分とカヌーに助けられました。枕木の運送で少しカヌーを損傷させました。がこれらは自分で修理しますから問題はありません。
 まだ完成したわけではありませんが、めでたしめでたしです。



08年9月19日記
 リーマン・ブラザーズの破綻
 サブプライムローンの破綻から始った米国発の金融不安、留まる所を知らない。それに原油価格が下落を始める。これは早く昨年の水準に戻って欲しいところ。AIG(世界を叉に掛けた保険会社)の破綻も噂に上がっていたら、今度は米国政府が救済に乗り出した。
 新聞を読んでいるとだが、米国政府の支援が金融不安を余計に煽って、株安を生んでいる。
 経済のことはさっぱり分からないけれど、ノーベル賞を取った経済学者(1997年ノーベル経済学賞を受賞したマイロン・ショールズ氏)が舵取りを出来ないでヘッジファンドを破産させた話をしんぶん赤旗は伝えているが、米国経済、どうなって行くのでしょうか。
 日本の経済にはあまり影響はないと伝える政府・与党。経済に疎いけれど、米国べったりの日本経済、その内にあちこちから被害が続出するのでは、と思ってしまいます。
 疑心暗鬼という言葉で金融不安を新聞各紙は書いているけれど、サブプライムローンは昨年メディアに登場した時から理解しにくい言葉だった。金融証券化の意味も分かりにくい、これが疑心暗鬼の元になっているようにも思う。
 米国では折角手に入れた下層の労働者が住宅ローンを払えないで家を手放す現実を伝えている。公共住宅に入っていても公共料金が払えなくて住宅を追い出される。とにかく格差の拡大で新自由主義と呼ばれる政策の破綻を伝えています。
 資本主義国家では最先端を行く米国社会に起こった今回の金融不安、石油の暴騰、そして暴落、株の暴落、皆人災です。手の打ち様のない天災とは違います。
 目まぐるしく展開する米国経済、グローバリゼーション経済というのでしょうか、頭の中には米国化、英国化がグローバリと解するようになっているので、その悪弊が大手を振って罷り通っている風です。
 


08年9月12日記
 党の顔を決める
 今、自民党は誰を代表にするかでメディアを独り占めしている感じです。これを称して劇場中継と呼ぶのですか。
 それは言い過ぎと言われるかも知れません、が昨年の参院選挙で自民党は有権者から、自民党では駄目と烙印を押された。捻れの始まりです。
 大勝ちしたのは民主党でした。この捻れ現象が現日本国の政治状況だと思う。政権党として、と自民党の輩はNHKの討論番組で誇らしげに口にする。けれど、今やそれは通用しない。1年も経たない内に2度までも首相が辞意を表明するのだから。
 福田さん、私には先を見る目があると自慢げに話してその座を降りた。誰がなっても国会運営は上手く行かない。その限りおいて先がよく見えています。
 800兆円を超える負債を抱えた日本国、ここまでしたのは自民党です。アメリカべったりの政治を続けてきた付けではないでしょうか。
 民主党は顔を小沢さんで一足先に決めた。政党の政策が顔で決るなどは有り得ない。党大会の政策で決ることだと思っている。
 日本のメディアはここの所を確りと伝えるべきではなかろうか。日本の借金漬けを一朝一夕に解決する方などはないと思う。ただその方向、借金を減らす手立てはある筈です。
 自民党に、それが出来ないのは証明済みです。新たな総裁が続けて、さあこれから、という時に二度も任を投げたのですから。
 政策に変化なくして、捻れは解消はしません。自民党様、有権者が突きつけた捻れを治す政策が、求められています。単なる顔の更新でないことをお忘れなく。



08年9月5日記
 アメリカばんざい(crazy as usual)
 これは映画の題名です。1カ月ほど前に頂いたA4版のカラープリントの映画の宣伝ちらし。大きい文字は良いとして、やたらと文字が小さい。一番小さいのは1.5mmの高さしかない。
 これには参ったが眼鏡もかけずに裏表を読み切った。本当は映画を観てから書くべきことなのですが、宣伝チラシを読んでの感想をひとこと書いておきます。
 映画を撮ったのは「マリンズ ゴー ホーム」の藤本幸久監督です。
 文字は小さくて読むのが辛いのですが、書いてる話が次から次へ目を引っ張って行く。そして細かい文字を読み切った。
 そこで、「ばんざい」の意味が何なのか、映画を観ると納得の出来ることでしょうが、最初は、あれ!と映画の題名に疑問を感じました。しかし今は、見る前からなるほどと納得出来ます。
 藤本監督はチラシの中で、沖縄の若い海兵隊員を撮っている時、この若者は何処から来たのか?が出発点だった、と語っています。
 私はインタビュアーの影山あさ子氏からブートキャンプのスライドを交えた話を聞いて、中標津空港に降りてくる、屈託のないアメリカの若者が如何に恐ろしい殺人者と成って派兵されているかを知ったのです。
 2年に近い取材を経て完成した映画です。私の観たブートキャンプの件は映画の前半で本のちょっぴりだと聞いています。
 世界中で一番の殴りこみ部隊、が如何にして作り上げられるか、そして今アメリカ本国で何が起こっているのか、完成した作品に期待します。
 アメリカで長年暮らしていたビジネスマンの話を深夜放送で聞きました。「今のアメリカ人は貧しい」と。チラシの言葉と一致しています。



08年8月29日記
 「やかましい」発言
 言葉の解釈は難しい。「やかましい」の前には「日本の消費者は」が付いていたらしい。発言者は九州出身で農水大臣の太田誠一氏です。24日の朝日電子版を読むと、言葉の識者は何れも太田氏の使った「やかましい」は中傷的に使った言葉だと非難している。
 直接生放送を聞いていないので、自身の感じたことは言えないけれど大臣が口にするべき言葉ではなかったようです。
 首相や官房長官のこの発言に対する評価と麻生自民幹事長との評価も大違いです。麻生氏は「西日本ではプロを指す」と農水大臣を弁護する発言をしたらしい。
 事ほど左様に色々なのだが、この言葉を発した本人が撤回をしないのだから、ごたごたと尾を引く。
 この太田氏は以前にも発言で物議をかもしたと新聞で読んだが、閣僚ともなると常に責任を持った発言が要求される。
 朝日新聞の、この発言に対する識者のコメントは国民を充分納得させる内容だと思う。そのことを最も知っているのは本人の筈で、消費者を大事に思う大臣なら「やかましい」発言にはならなかったと思う。
 いまだに撤回がないということは、撤回すると識者のコメントを認めることになるからか。
 そんなに遠くない時期に総選挙がある。物議を醸す議員を選ぶのも落とすのも有権者、消費者です。ここで「禍の門」の決着をつけ様ではありませんか。
 そういえば原爆投下で「しょうがない」発言もありました。言葉の本にはその人の思考が潜在しています。



08年8月22日記
 地位協定の話
 米国軍隊と日本国内での権利義務の取り決めを言うらしいが、最近国会図書館の図書公開で国が公開取り止めの処置を取ったことが伝えられた。
 公開文書は法務省が公開していた文書で、日本の一次裁判権を放棄する内容だったことが理由らしい。
 この地位協定も私には分かりにくいことの一つだが、米軍人が公務中だと常に裁判権は米国に在りと言う取り決めです。公務中か、外かの判断は米軍にあり、米軍が公務中といえばそれで決まりです。
 その上に、特別なことがない事件は裁判権を放棄せよ、と言わんばかりの通達が法務省から出ていたらしい。
 自己主張が出来ない日本国政府、その理不尽を何十年と密約で続ける米国政府。認める方も許せないが、他国に来て郷に従わない米国も許せない、そう何時も思う。
 郷に入れば郷に従う。これは中国から入ってきた金言だと思うが、現在社会で通用する考え方だと思う。
 米国は合衆国建国来、外国の軍隊の駐留を経験しないので、自国の取っている地位協定の不平等を認識できないのだろうけれど、明らかに自由平等思想からすると規則違反であると思う。
 国際における自由平等を言うなら、郷に入って郷を認めない米国に帰ってもらうことが、正々堂々の論陣だと思う。何も米国政府に庇護されなくとも日本国は独立国だと自負するならば。
 残念ながら現日本国政府にはその考えがない。
 米国の属国ではない独立国になる。長いものに巻かれよ精神を改めれば、直ぐそこに独立国がある。



08年8月15日記
 エンロン・ループホール
 経済のことが分からなくて困っていたが、少し謎が解けてきた様に思う。サブプライム・ローンもアメリカから発信された言葉だが、エンロン・ループホールも米国から発信された言葉です。
 米エネルギー業界のエンロン社が冠になっている「エンロン社の抜け穴」と呼ぶと赤旗の記事は書いている。
 今年は盆の帰省で自家用車の利用を控える人が目立っています。1年前と比べると5割高のガソリン代の高騰が新幹線や高速バスの利用に変わったのでしょうか。私も極力車の利用回数を減らしている。
 「原油高の原因」はこのエンロン・ループホールの仕業だと赤旗記事は書いています。エンロン社は既に不正会計スキャンダルによって破たんしたものの、その遺産は世界の人々の生存に関わる深刻な被害を与えていると。
 市場が投機化した一因は規制当局による取引市場への監視の目が届かない仕組みができてしまったからで、これが法制化されたのは2000年のことです。共和党の上院議員がエンロン社の強い要請によって土壇場で滑り込ませたと、記事は書いています。
 米国の議会で原油の高騰は「投機」と証言したファンドマネージャーのマイケル・マスター氏は6月の議会証言で「すべての店頭取引の決済を適切な先物取引所を通じて行うことが必要」などと投機のための抜け穴を塞ぐよう提言しました、と。
 これだけ明確に原因を指摘されたのですから、さて米国議会はどう動くのでしょうか。



08年8月8日記
 馬の話、その2
 薪運びや畑の草抜きで、全く馬の相手を出来ないでいるが、馬群は今二群に分かれている。
 一群は3頭、他の一群は11頭と二つの群れに今春から分かれた。少ない群れを率いるのは雄16歳のアカネ号で雌15歳のカシワ号とその娘4カ月の3頭のグループです。
 その他が11頭の群れを作りつつあります。率いるのはカシワ号の息子で3歳の若駒です。昨年虚勢を出来ずに放置したばかりに、3頭の繁殖馬の内、さすがに母親のカシワ号とわ交尾をしなかったが、カエデ号とサビタ号との間に2頭の子馬を儲けた。
 昨春は2歳馬で交尾に奔走しただけで、15歳のお父さん馬、アカネ号に従っていたが、今年は春先から様子が違っていました。
 父さん馬、アカネ号と咬み合って一歩も引かないのです。自然と群は二つに分かれて、今や大きな群の11頭の棟梁的存在に成りつつあります。
 この群にはカエデ号の虚勢3歳馬も玉付きの2歳馬も、昨春事故で亡くなったカンバ号の虚勢3歳馬もいますし、3歳の若駒の直の弟馬、2歳も玉付きでいます。
 このカシワ号の3歳の若駒、父親のアカネ号が群れに近づくと競り合いを始め、ここは俺の縄張りだと10頭の群を守ろうとします。
 春先から続いている睨み合いは今も続いて、時々両者は顔に生傷を作って痛々しい姿に。
私の観るところ16歳のお父さん馬は小さな群れの棟梁に追いやれた様に見えます。
 上風蓮橋から1km程に馬を飼っている牧場があります。
 民有地に越境しない内に、一群にしなくては。気の揉める馬事情なのです。



08年8月1日記
 馬の話、そのT
 川瀬さんが飼い馬を全部売却したのは確か13年前のことです。
 当時矢臼別演習場と民有地の堺を成していたのは風蓮川で橋を南に渡れば両サイドが演習場域になり、約2kmで川瀬東牧場に至る。そして約1.5km南西方向に離れて川瀬西牧場がある。川瀬さんの矢臼別暮らしで略40年は、馬と暮らしたと言っていいでしょう。
 川瀬さんの矢臼別住いの原点は馬との共生ではなかったかと、思います。その馬と別れる因になったのは、飼い馬が演習場から越境して民有地の牧場に侵入したことです。
 自衛隊とは馬のことで一歩も引かなかった川瀬さんが馬飼育の全面撤退を考えたのは北隣の農民の訴えからでした。
 繁殖の為に必要な牡馬は馬群では1頭で用を足す。牡馬が2頭いると、ナンバー2は離れ駒となって、生活の場を新しく求めて群れから外れる。
 このナンバー2が民有地の雌馬にひかれ、今だかつて渡る事のなかったた橋を渡って民有地に侵入したのです。
 馬は美味しいものがあると、それを求めて行動します。そこに雌馬がいるのですから尚更です。
 川瀬牧場内に馬を閉じ込めようと自衛隊が柵を打ち込み、鉄線を張り巡らしたのは22年前の話ですが、馬たちは悠々とその後も演習場内を闊歩したものです。
 牡馬は馬群で1頭が原則、これが上手く出来ないと統制が乱れる。たまたま直近に雌馬がいて被害が発生し、お隣の農民からの苦情となり、馬売却を決意するに至るのです。
 川瀬さんとしては思わぬ結末が待っていたのでした。
 現西牧場のポニー群団にも一つの課題が持ち上がっています。
 その話は次週に。



08年7月25日記
 突発性難聴,、その後
 22日、根室市立病院で2回目の診察を受ける。ここで耳鼻咽喉科の診察を受けるのは旭川医大の医師が診察するからで、悪かった左耳の聴覚の検査を受けるためでした。
 結果は高音域に少し問題は残っているが、略回復と診断されました。自身もこれで元の状態に戻った、と思っている。
 自宅から旭川まで290km、根室まで90kmの行程で退院後は根室を選びました。旭川医大病院様さま、と思っています。
 ネット検索で調べると、札幌と旭川が突発性難聴の治療が出来るとあって、旭川が距離で近いことと何故かしらHPのうたい文句が良い。
 これはネット検索の上手なエーコさんの薦めもあって旭川に決めたのでした。
 時々、今でも耳鳴りがしたり、今回の耳の聴き取り検査でも高音域に問題があることは、高齢者にありがちな人生晩年の姿です。それくらいのことは認めなくては、と思う。
 僅か入院から1カ月、車の燃料費は上がるし、その他の生活費も軒並み上がって、健康でないと田舎暮らしは大変です。と言っても病気を治療するために、ここと思う病院に行くことになります。
 それに付けても道東は医療の過疎地域、と思い知らされました。自宅から100km内に旭川医大病院並の病院があってくれたら、と旭川近辺の人々を羨ましく思いました。
 未だ自分の車の1kmの燃費の金額は出ていないが、道東で晩年を如何に暮らすか、医療機関の過疎化は生活を続ける上で大きな課題になってきました。
 健康に過している時は思いもしなかった医療機関の過疎、突発性難聴で思い知らされました。根室市立病院ではお産が出来ないのですから、悲しきかな道東の医療なのです。



08年7月18日記
 文化果てる地
 昔、若い頃「文化果つる地」という外国映画があったように思う。ネットで検索しても上手く呼び出せないが、確かアメリカ映画だった。時々ここ川瀬西牧場は文化果つるとは言わないけれど、田舎の又田舎等と口にします。
 そもそも文化とは中国の皇帝が自らの覇道を広めることを指して、文化と言ったと、ある本で読んだ。
 そうなのかと、納得です。国の行政に楯突いて生活は出来ないので法に従って暮らさなくてはならない。
 ただ、最近の矢臼別事情を書きますと、この地は電話あり、テレビもあり、インタ−ネットにも繋がる、車も使えるで何の不足もない。
 ただ少し愚痴っぽく話すと、川瀬西牧場は農村としては特殊であると思う。今こそ携帯電話が便利になって利用されている。でも我が家ではこれが自由に使えない。アンテナが窓際でかろうじて2本、立つか立たないか際どい。
 家の周りに14、5mの背丈の北海道の木(柏、楢)が林立していることがそうしている。演習場内の樹の無い所や牧場内の高い草地ではアンテナは3本立ちます。
 固定電話も特別地域だし、アナログ信号しか通じない。時々電話は無い方が好いと思うことがある。便利といえば便利だが、ベルを鳴らしての闖入です。これほど乱暴な訪問の仕方はない。
 デジタル信号の受信を昨年春先にテストした。がデジタル信号は受信できず、未だにアナログのまま。田舎の田舎とはこれが本です。
 デジカメでフルサイズの写真をメールで送られると、1枚受信するのに1時間も掛かります。メル友にはメールサイズでと伝えている。
 矢臼別でフルに「現代文化」を謳歌しているので何の不足もないのです。ただ本の少し田舎的存在を書いてみました。



08年7月11日記
 平和池に橋を架ける
 7月に入って川瀬さんが土木工事を始めました。平和池の中島に橋を架ける橋脚のコンクリート型枠作業です。橋の長さは13m、幅は約2mです。
 川瀬さんは厳冬期に氷結した湖面の上を行ったり来たり、そして設計図を書き上げています。団結道路から中島に13m、その先に渡る橋は17mですが、予算の関係で短い13mの橋梁で今夏の工事は終わります。
 橋梁部は鉄骨製でこれが出来上がってくるのが、7月末です。それまでに道路側の橋脚を鉄筋コックリートで造るが、川瀬さんの考え。
 念のために13mで中島に確りと橋が架かるかどうか、カヌーを平和池に浮かべることに。これは私の担当。
 10日夕刻4時、二人して平和池に向かい、前日運んでいたカヌーを池におろす。早速、型枠の中心から13mを計測すると、中島の中央にぴったり、杭を打つ。カヌーを池におろすのは初めてで、ついでに池の中を一巡した。
 鉄骨製作の業者と最終打ち合わせをして橋梁の出来上がりを待つばかりだ。コンクリートの打ち込みは1週間後と川瀬さん。
 ここでクラブ事務局からのお願いを。全国に散らばっているクラブ会員の意思統一は黙認でお願いする、で現在まで進めてきました。事務局の独断専横で事業は進んでいますが、会員の皆さん今後ともご支援よろしくお願いします。
 何人のクラブ会員方が本ページを見てくれてるか分かりませんが。



08年7月4日記
 諸色が高く、高く
 毎日新聞を読んでたら「諸色」と言う言葉が出てきた。2年ほど前から分厚い広辞苑を止めて電子辞書を使っている。諸色とは色々な物から転じて、物価とある。
 先ずガソリンが1リットル183円、軽油の自動車に乗っているが1リットルが163円。1年前と比べて約50%の値上がり。最も近い店に買い物に行くと往復のガソリン代が350円だった。5割アップで計算して525円。
 自分の車で1kmを如何ほどの費用で走れるか、最近は調べていないが、これだけガソリンの単価が上がると、抑えるべきは使用回数を減らすことしかない。
 もう1年近くになるが、週2回の給付だった福祉牛乳、矢臼別から週2回では福祉にならないからと役場に申し出たら、週1に給付日に替えてくれた。近くても遠くても、週2が週1になるとガソリンの消費は半分に。
 私の申し出を全町で実施しているかどうかは知らない。がこれだけガソリンが値上がりすると、皆さん週1回の給付で良いという人が増えるのでは。
 石油の値上がり、食糧の値上がり、どう見ても人災の部分が見え隠れする。石油の値上がりは投機筋が引き起こしているというのが通説になりつつあるし、食糧の値上がりも何故、何故と追及してゆくと人が如何に自然を変えて来たかに通じる。
 もう直ぐ洞爺湖サミットが開かれる。議長国の日本、何処までアメリカに物言いが出来るのか。福田さんのお手並み拝見と行きたい。
 どうしょうもないではすみません。何とかしなくては。



08年6月27日記
 また海難事故が
 犬吠崎から東方海上350km(189マイル)の付近で100トンクラスの漁船が転覆・沈没した。
新聞ニュースでは何故転覆・沈没したのか、いち早くコメント記事を出した毎日新聞を読んでも20人乗り組んでいた漁船の事故の経緯は分からない。
 これから書くことは全くの推測。カツオの巻網漁にも全く知識を持ち合わせないが、魚網はデッキに積まれていたに違いない。テレビに出た僚船の姿を見ていると、船体中央部にブリッジがあって、船脚は結構深い感じです。
 これ位のことで、見てきたような事を言うのは??とは思うが、言います。船は波の来る方向にではなくて、波を真横から受けてしまったのではないか、と。
 海の荒れ具合は4マイルほど離れていた僚船が異変に気付き、現場に直行している。で当時は操船意の如くならずでは無かった様。
 漁船ではシーアンカーといって、船首を風位に向かわせるため、それを船首から海中に投入し、その抵抗で船首風位を保持しようと。これを使用していたようだ。
 風の吹き来る方位と波の来襲方位とは略同じに変化する。どの方位で荒天を凌いでいたかは分からないが、漁労を中止して天候待ちの中で起こった事故だと言う。
 問題はここにあります。網をデッキに搭載して船体重心はどうだったのか、波の来る方向に対して船首または左右20〜30度の範囲内に船首を保持できていたか、どうか。風・波を船首方向から受けて凌ぐのは荒天時の常識。
 その船の堪航能力は漁船の場合は漁労長が良く知っている筈。大波を二度受けて転覆したと言うことは既に報じられた。
 横から風波を受けないように操船していたかどうか。気にかかる所です。



08年6月20日記
 先週の続きを
 またまたアップのトラブルが起きて、休刊の掲示が出来ないままに矢臼別を留守にした。入院したのは旭川医科大学病院の耳鼻咽喉科でした。先週は詳しく書きませんでしたが、罹った病気は突発性難聴でした。
 6月の6日朝から左耳が耳鳴りがしておかしい。土曜日、日曜日と段々悪くなって、今までの半分位しか聴こえない感じに。
 エーコさんはネットの検索が上手。治療のために探し出したのが旭川医科大学病院でした。ここの耳鼻科が良いという。旭川医科大学病院は医師の紹介状が無いと診察を受けられない。
 月曜日は良い具合に別海町立病院の耳鼻咽喉科に札幌医大の医師が来ていた、で診察の上、旭川医科大学病院への紹介状を書いてもらう。これで用意は完了。
 6月10日(火曜日)は19年前に伊勢市から引っ越して矢臼別に着いた引越し記念日。皮肉にもその日に旭川医科大学病院行きとは。
 朝の2時半に矢臼別を発って、病院に着いたのは8時半。それから診察を受けて入院したのが12時半。病名は突発性難聴でした。
 11日から治療を始めて9日目には元に聴力が戻って退院でした。回復するのは3分の1とか。で私はその3分の1に入ったみたい。ラッキーでした。
 先ずはそのことをお伝えしておきます。



08年6月9日記
 急病で矢臼別を留守に
 年を取ると体調を崩すことが多くなった。当分の間、矢臼別を留守にします。HPはその間、休刊します。



08年6月6日記
 米を作る人が高齢
 元来人類は野に在る物を採取したり、その内に身近に栽培を始めて生きてきた。稲は日本の歴史が始る前から栽培されていて、縄文の遺跡がそれを伝える。
 不思議でも何でもないのだろうが、米が連作障害を起した話は聞かない。優れものなのです。
 その稲作農家、最近は生産費が市場価格を超えて赤字に。農家の時給が265円という話も。
 マニラで米騒動が伝えられたのも今年の話。アフリカでも食糧問題が持ち上がっている。オイルや食糧市場に投機資金が流れ込んで価格高騰を招いているという。
 穀物、トウモロコシが値上がりしているのはバイオエタノール原料に流れて食用や蓄用がそれにつられて値上がりしていると。
 日本は米を作るな、作るなと何十年も減反政策を続けてきた。その為に草ぼうぼうの荒地を山間部に造ってきたと聞く。
 一旦、荒地にすると米を作るために何年もの時間がかかると聞いた。減反政策によって如何ほど荒地にされたかは分からないが、政府は減反政策を見直すと言い出した。(6月1日)
 漸く、ここに来て長年の農政の誤りに気が付いたのか・・?。自給率の向上を口にするのは易いけれど、具体的にどのような施策を取るのか、福田首相それを口にしない。
 米国の稲作は千町歩の水田が単位、日本の大型は精々百町歩と聞く。大型化したら採算が取れるは空論に近い。秋田の大潟村農協の実態をテレビで観たが、離農者が出ている。
 高齢者に支えられている米作農家、田畑の大きさでなく価格を補償する施策でもって、思いっ切り米、野菜を作れる農政を望みたい。
 お金で外国から農作物を買う時代ではない。



08年5月30日記
 四川大地震の特報NHKを観る
 断層が90秒で250kmを走った、と。神戸大地震と比べて30倍の破壊力とか。図解で良く分かる映像だった。その分騙され易いとも言われるが。
 とにかく、桁外れの大地震だったことが伝えられた。これから更に色んなことが、伝えられるだろう。一部、学校の倒壊が何故起こったか、アメリカの地震学者が解説をしていた。
 中国政府の報道姿勢などについても、思惑含みの解説をしていた。アメリカ政府には物言えないNHKのニュース解説が、と思えた。このことはさて置いて。
 6万人も7万人も死者が出て負傷者が29万人とか、住家を失った人が450万人とも、桁外れの被害だ。中国政府は本家だが、国連、世界の各国がどのように対応するのか、人間のあり方が試されていると思う。
 一方、詳しく伝わらないミャンマーのサイクロン災害も同じことが言える。自分の生まれ育った地を離れる農民。水面から顔だけを見せて残った家財を引く映像を観たが、これも酷い。
 これ始りは天災。先週の繰り返しになるが、天災に人災が加担では困る。早、援助物資の横流しの話なども、特報では流れていた。
 四川大地震の特報を観て、思ったことだが、イラクやアフガニスタンで起こったことをNHKはどう伝えてきたか。
 これは天災ではない。ブッシュや小泉がテロを振りかざして、やっていることをどう伝えたか。空から爆弾を、海上からミサイル弾を撃つことが人災であることをはっきりと報道すべきだ。
 NHKに限らず日本の各メディアに報道の真価を期待してやまない。24日夜の特報を観ていてイラク侵略人災にも、的確な報道を、と思った。



08年5月23日記
 ミャンマーの水害と四川大地震
 5月に入ってサイクロンの風水害と中国内陸部の大地震災害。これは天災です。
 未だ災害の詳しい数値は進行中でその大きさは未知数。サイクロン被害についてはミャンマー政府が外国のメディアを受け入れない為詳しくは分からないし、四川大震災も未知数があって被害の大きさは分からない。
 神戸地震の災害をニュース映像でしか理解していないので、人の造った物と天災の破壊力の関係をどう視るかは全くの素人。ただ言えることは天災を見越して何処まで建造物を耐震化できていたかだ。
 すべてで先進国と胸を張るアメリカ合衆国でハリケーンに大被害を出した。神戸もしかりだ。天災が人災に変わるのはその地の権力者が分かっていて、施策をしないことだ。
 四川の地震で学校の建物が壊滅しているのは、おから工事の付けだと言われている。その内に破壊状況が調査されて震源の破壊力8.0Mがどのようなものかが認識されるでしょう。
 ミャンマーのサイクロンについても分からないことが多くて多数の死者、行方不明者が出た。被害の大きさが甚大で、如何にサイクロンが大きな破壊力を持っていたのか、それを思うだけだ。
 しかし最近の気象を考えると今までの自然に対する発想を大転換することを求められているのかも。その良い例がアメリカの竜巻現象。根こそぎ家屋を空中に持ってゆかれる。今までの家屋の建て方では対応できない。
 ミャンマーのサイクロンの来襲は一昨年のインドネシアの大津波級の水害に風害が加わった自然災害だったのかも。
 残るは災害の後の人の復旧力だ。これは人間の回復力。人災にしてはいけない。
 日本も地震王国、道造りも程ほどに震災対策を急がなくては。言うだけではなく、分かっていることから始めないと、そう思う。



08年5月16日記
 水のことなど
 矢臼別原野での地下水の事情がどのように成っているのか、西牧場の井戸から読むことは難しい。が我流で考えてみた。
 気象観測所のプロ並みには無理だが、気の向くままに井戸の水位を測った。

05年井戸完成時水位は7月1日で110cm。
05年最低水位        ・・・  最高水位7月1日、110cm
06年最低水位2月28日、33cm。最高水位5月4日、271cm
07年最低水位3月1日、 62cm。最高水位6月21日、215cm
08年最低水位3月11日、37cm。最高水位        ・・・ 
 
 井戸を新たに掘って以来の水位の変化は上に記した通り。05年の春先はボーリング井戸が水の出なくなった時で、未だ井戸を掘る前のこと。
 現在の井戸の最低水位、06年の33cm。07年は62cm。そして今年は37cm。で増に転じた。
 最低水位を表示する時期が3月に入ってか、10日間ほど過ぎてかが、3年足らずの観測で窺える。
 気象庁の降水量データ、別海町は05年が前10年内で最も降水量が少なかった年で例年と比べて300mm〜400mmほど少なかった。
 それで今年の1月〜4月までの降水量を気象庁データで比較すると05年データより降水量が少ない。
 08年5月10日の水位は<b>49cm</b>。06年5月10日水位は<b>254</b>cm。7年5月11日水位は<b>178</b>cm。雨はこれから降ってくれる、と深刻には考えない。が少し気になる矢臼別原野です。


08年5月6日記
 田舎で聞いた話
 故郷は紀伊水道に面した田舎町。帰省したときはカツオ漁の最盛期で毎日、海岸から見える海面を漁船が走り回っていた。
 南方の外洋から紀伊水道を北上する船、京浜方面から大阪湾を目指す船が集中する水道だ。東京湾と比べて船舶の集中度は好い勝負。
 兄弟達はこの水域で漁をして糧を得ている。昔の話だがここを航行する時は特に気をつかった。ここで事故でも起したら直ぐ噂が立つから。
 今回、耳にしたのはあの漁船(イージス艦と衝突)は二人共に寝ていたのではないか?と言う話だ。これを言うと死者に鞭打つ話になるのだが。
 私の育った田舎の漁港ではその話がおおっぴらに話されたようだ。
1万トン近い船の転舵した時の旋回距離と小型漁船のそれは比べ物にならないくらい小さい。で舵を一杯に転舵した場合、短時間で相手船の進路を避け得る。小回りが良く効くってこと。
 衝突予防法には協力動作を決めてあり、避航船の動作では衝突すると判断したら保持船(漁船)が衝突回避の動作をしなさいとある。
 避けるべきイージス艦が避航動作をしないのだからこれは免責の余地はない。しかし紀伊水道で稼ぐ漁船の間では避航動作を語られたようだ。
 新聞紙上ではあまりこの避航動作の話は出なかった。がこの機会に船の衝突予防にはこうゆう取り決めもあることを知ってほしい。「あたご」が無法船であることを認識していたら、死んでしまうことはなかったかも。
 車の衝突は一瞬にして。海上でも最近はスピードが出る船が多くて衝突は後を絶たない。衝突には色々条件があります、が相手があって起こること。どれだけ法を守っても当ってしまったら、お仕舞い。
 田舎の小型漁船の船長は大きな船には近寄らない。それが危険から遠ざかることと、ルールを抜きに大型船の進路から逃げる話をしていた。
 それにしても無法イージス艦「あたご」は許せない。</p>


08年4月4日記
 春の嵐
 3月17日以来、駅前のエーコさん宅で腰痛のイオン治療を受けている。暖かい日が続いて雪などないと思っていたら、3月28日降雪が5cmほど。で原野が白一色の世界に。そして30日には雪が解けて秋の枯れ草の原野に。3月31日夜、エーコさん宅で治療を受ける。ラジオの天気予報は今夜から雪が降るという。 
 菜園温室の荒天準備はしなくて良いし、薪は必要量、屋内に取り込んだし、少々の雪ならOK。で4月1日の降雪は舐めて掛っていた。
 ところが朝の6時に雪の降り具合を見ていると、大雪の気配。それに風も強い。昼に矢臼別に帰るつもりだったが、それだと雪の吹き溜まりで通行が不可になりそう。
 生活拠点は矢臼別の西牧場にある。治療の効果を試す意味からも帰宅を決意、7時20分、駅前発。7時50分東牧場の車庫着。エーコさんの洗濯物を橇に載せて西牧場に。積雪25cmの雪道を長靴で、40分かけて西牧場に。
 視界100m程で雪は横殴り。海鳴りと言う言葉があるが、山にも山鳴りがある。樹木に風が吹き付けて出る音だ。風速は17m〜20mか。 馬たちは乾草の餌場を離れて林に行ったままだ。とにかく自分が何事も無く、この大時化の中を西牧場にたどり着けて、ホッ。
 この冬で最も気圧が下がりそう。家の中に入っておよそ2時間、7ヘクトパスカル降下し、現在は956ヘクトパスカルを表示。 (気圧計は18ヘクトの過小表示)
 自然の猛威を侮ると大きな付けを突きつけられる。今日はぎりぎりで難を逃れた。それにしても疲れた。気圧計は今冬最低の気圧表示、降雪は50cmくらい、風の勢いは最盛時25mは吹いたか。鶏小屋の屋根が一部剥がされた。でもこれくらいは良としよう。



08年3月28日記
 アメリカの「愛国者法」
 日本のメディアは余り伝えなかったけれど、アメリカには「愛国者法」(2001年10月26日成立)がある。
 最近、「戦争熱症候群」薄井雅子著を読んだ。本には「愛国者法」が出てくる。どれ程酷い法律かと、ネットで検索してみた。
 アメリカ政府支持か、それともテロ方にか、と迫り事を決めたアメリカ政府、法律はアメリカ政府に文句を言わせないテロ封じの法律なのです。
 言うなれば日本の戦前の治安維持法、天皇政府に楯突く輩は牢獄に、というやり口。テロに通じているような話でもしようものなら、逮捕される仕組み。
 著者は元しんぶん赤旗記者で現在はアメリカ人と結婚していて、アメリカ在住7年の方。対「愛国者法」では著者の危機意識が行間に滲んでいて、この本を書くこと自体が大変?と思ってしまう。だから今、現在のアメリカを語って迫力がある。
 サミー・アルーエリアン氏はサウス・フロリダ大学教授だったが2003年2月20日朝逮捕され収監されたまま、という。彼はパレスチナ難民で苦労の末に教授職を得た人だ。
 何故逮捕されているか。「愛国者法」による容疑者としてだ。
 ネット検索でこの悪法を理解していただくとして、さらに2007年10月、連邦下院で「暴力的過激化・国産テロリズム防止法」が成立したと。これはアメリカ市民への思想弾圧法だという。
 イスラム教徒やアラブ系の人に対する取締りが、今やアメリカ市民に対する思想・言論の自由を脅かす事態になってきているという。
 著者は9・11謀略説も一寸だけ書いているが一言、分からないと。しかし「愛国者法」のことがあるだけにうっかり謀略説に言及が出来ないのかも。「愛国者法」のアメリカから日本は独立しないと。



08年3月21日記
 サブプライムローン
 今年になって新聞紙上にサブプライムローンが載らなかった日がないくらい。経済のことはさっぱりの片田舎に生活する農民だが、サブプライムローンが世界の経済を震撼させているように思う。
 アメリカを中心に有り余る紙幣が世界の金融市場を走り回って、投機紙幣となり1バレルの石油があっという間に昨年の倍の100ドル超え、金その他が買い漁られて、いると経済学者は説く。
 サブプライムローンとは金融信用のないアメリカ人向けに高い利率で貸し付けられた住宅ローンだという(日本のサラ金に例える人も)。これが複雑に証券化され日本市場やEU市場に出回り、焦げ付き出している、と。
 それからというもの投機紙幣が矛先を変え石油の先物だの、穀物市場だの、非鉄金属市場だのに流れ込んでいる。
 新聞で色々語られるが、こちとら片田舎の農民には実態がさっぱり見えない。連日、投機筋の動向で、これほど一喜一憂し振り回されるとは。資本主義という現在の怪物、何時まで暴れ回らせる事やら、なかなか制御できない現在社会。
 規制を強化するが本道だと考えられるが、大きな経済力を持ってるアメリカも日本も緩和に血眼。
 最近1兆円がどれくらい膨大な数字であるかを赤旗のコラム記事で読んだが、気の遠くなる数字だ。
 自分の周りの人に、誰が得をして、誰が損をしているのかなぁ、と訊いても得心のいく答えが返ってこない。
 日本政府の借金は900兆円など、と簡単に口にする。けれど兆円の膨大さを思うと、もっと政府には経済政策の重みを考えてもらいたい。アメリカの言いなりでは先が見えないものを。



08年3月14日記
 もう一度考えてみたい
 平和な公海域では海上衝突予防法が最高の海上交通ルール。3月19日04時07分「あたご」と漁船の衝突事故が不幸に発生した。
 ここから先は人命救助に全力を尽くす、両船の記録を残して衝突事故究明に尽くす。これが事故後に課せられた両船の任務で、自動車事故の処理となんら変わりはない。
 「あたご」が漁船に衝突して漁船は大破、漁船の乗組員の行方不明が夜明けと共に判明。ここから先は「あたご」が現場に留まって救助活動を続けるかどうかだ。どうやら「あたご」は救助活動から離れて目的港に19日17時頃入港したようだ。太洋のど真ん中だったら、そうはいかなかったろう。救助艦船が来るまで救助活動をするが、船乗りの掟だ。
 そもそも幕僚幹部があたごに乗船するとか、航海長を防衛省に呼ぶとかはおかしな事故後の対応であって、隠蔽だとか、口裏合せとか、と言われることを防衛省がしたことである。
 現在明らかなように防衛省の事後に取った行為はことごとく批判にさらされている。私が不思議に思ったのは航海長の事情聴取の際、航海長を衝突前の航海当直士官であったことも知らないでいたこと。
 そのことを認識していれば、衝突の30分も前から、海域の状況・関係などを訊けた筈だ。それを航海長から訊き出せなかった防衛省の面々。何とも、間が抜けている。ここで「あたご」の非を認識できていたら、その後の展開は少しは変わった筈。トンチンカン発言の元はここにある。
 ことの始りは海上自衛隊が海上通行の憲法・海上衝突予防法を遵守しなかったことに尽きる。人権ならぬ船権と言い換えるなら、公海では船の大小を問わず動力船なら衝突予防の権利義務は対等・平等。なのに「あたご」は横切り船の航法を守らなかった。



08年3月7日記
 イージス艦の衝突は何を意味するか
 新聞報道で、横浜地方海難審判理事所は4日までにイージス艦衝突事故、当時の当直員のうち5人から事情聴取をしたと。同理事所はあたごの副長を含む乗組員から事情聴取をしたが、衝突時の当直員から事情を聞いたのは初めてという。いよいよ本格的な事情聴取をして「5カ月以内に横浜海難審判庁に審判開始ができるよう事故原因の特定を急ぎたいとしている。
 これから先長い事故究明の審判がはじまる。そんな時に船乗り経験者がことの成り行きを予測するなど、少し気が引けます。しかし批判を承知で申しますと、衝突の様は信号のある交差点を青信号で通過する「清徳丸」に、赤信号止まれの「あたご」が突っ込んだ衝突事故といえる。
 国会議員で海上交通の国際ルールを知らないで、「清徳丸」が軍艦を避けるべき等といって、その無知をたしなめられる一幕があったようですが、赤信号で交差点に侵入した車、「あたご」の誤りは何方にもお分かりでしょう。
 私は事故の朝もっと沢山の漁船が北上する「あたご」の針路上に接近するレーダー映像を想像した。しかし一群は4、5隻の漁船であったようです。どの針路に漁船群を避けるか、そう30分も前に海上の交通規則をわきまえた航海士なら考えた、筈。「あたご」は相手を避けるべき船で減速とか針路を変えて交差点(衝突点)を避けるべきだったのです。
 事故を起したら後は現場の責任者が冷静に事後処理に全力を傾注する。今何が求められているか? 防衛省が取った処置はトンチンカンなことばかり。防衛省に呼んで訊いたからって、事故の事実は消せないのに。
 石破防衛大臣は日本語を満足に話せない。航海長から事情聴取したのに、していないと言ったり、事務次官の言動も頼りない。記憶にないなどと。防衛省のトンチンカン現象は冷静な判断能力のなさに尽きる。よほど衝撃が大きかったのでしょう。
 6日朝のニュースは護衛艦の火災の報告にも防衛省への報告が100分も要したとか。これも内規違反と。腐りきった防衛省、何か起これば自己保身に素早く反応。20年も前から続く海上交通のルール違反。何が問題なのかを見抜けない福田首相。現防衛大臣に防衛省の綱紀粛正など無理です。防衛省がトンチンカンなのです。



08年2月29日記
 艦長は乗っていなかったのか?
 今日は2月23日、衝突から4日目の朝だ。衝突現場の責任者、清徳丸の方は全員が行方不明だから話は聞けない、しかしイージス艦「あたご」は全員無事。だから「あたご」の方から何か説明があって良い筈。なのに誰よりも先に事の子細を語るべき人が未だに何も話さない。
 防衛省の危機管理能力で、事故の一報で遅かった云々と問題になっている。それも問題だが不可解なのは艦長が事故後、艦内で如何に指揮をしたかが見えてこない。
 言うまでも無く事故前の日常の航海術が問題なのだが。
 危機管理能力で第一に求められるのは艦長の指揮能力だと思う。艦長が事故を認識してからどう指図をしたか、動転してうろたえていたとは思いたくない。
 1400億円もかかったイージス艦の最高責任者がそんなに無能な人とは・・・。が東京湾の入り口に来て、自動操作でのほほんと航海直をさせたり、避航義務を負いながら避航をしなかったり、船乗りの基本の基本が何も守られていないのには驚く。
 防衛省に連絡をするにも一言、部下に命ずれば5分後には第一報を出せた筈。何処に問題があって衝突したか、イージス艦内では艦長がもう把握している筈。なのにその立場にいる人が沈黙。
 海上保安庁は今朝のニュースで艦長から事情を聴取するなどと言っているが、何とも間抜けな話だ。
 それに比べて当時衝突現場にいた僚船の船長の発言は衝突事故の解明に貴重な事実を提供している。
 それに比べてイージス艦長、公には無言。衝突直後の艦内で何かあったのだと思う。何処でも保身術が頭をもたげる。
 戦闘海域で軍艦に衝突予防法は無用。しかし平和な公海上には軍艦も商船もない。衝突予防は法の遵守が大前提、国を守るが口癖の自衛艦が漁船を避ける義務を忘れては論外の話。
 4日も経てば何がどうだったのか説明できるでしょうが、艦長殿。観念しなさい。

 27日、新たな事実が
 今朝の電子版朝日、毎日新聞を読んだ。防衛省が19日朝事故を起した「あたご」の航海長(事故前の当直責任者)を海上の「あたご」からヘリコプターで呼び寄せ防衛省で事情聴取したという。勿論、防衛省のトップがである。
 問題は事故発生後、艦長がどの様に指揮したかだ。今朝の新聞で分かったことは6時間後に報告者として、事故前の当直航海長を選任したこと。沿岸海域、電話回線は自由自在だが東京に向かう航海長に艦長が何を伝えたか。
 その内に新たな事実が浮かび上がるだろうけれど、はや艦長の更迭が伝えられている。しかし防衛大臣の辞任、罷免は未だ。
 航海長の聞き取り調査以降、防衛省の対応で、防衛大臣の事故処理能力を疑う。更に28日の朝のニュースでびっくりしたこと。1週間前の事情聴取をメモもしていない、内容を忘れたと言う防衛事務次官の発言に、呆れて言葉を失う。
 5兆円も予算を使う防衛省のトップがこれでは、何と憤ればいいのやら。いい加減にしろと言いたい。
 防衛大臣が清徳丸の所属漁協を訪れた時、家族の方々の悲痛な捜索の依頼を拠り所に、私が職に留まってなどと発言している。しかし、航海長を呼びつけて以降の防衛大臣の発言を聞いていると、組織管理能力は艦長の艦管理と瓜二つ。現場が現場なら組織の上部もばらばらに動いていて事故解明などおぼつかない。何時まで職に留まるのか、辞めろと言いたい。
 艦長の更迭は防衛省内でできる。自ら辞任しない大臣を更迭するのは内閣総理大臣です。福田首相の試される番です。何が隠されている分からない防衛省、これほど腐りきった組織を他人事のように放置する福田首相。最高指揮官が何とも情けない。



08年2月22日記
 感が当った
 イージス艦と延縄漁船の衝突の一報は19日朝のニュース。この時は衝突をしたというだけのニュースだった。
 イージス艦はハワイからの帰り、漁船は房総の漁港から三宅島方面への出漁と報じていた。
 感が当ったとは「イージス艦が避航義務を怠ったのではないか」と言う直感です。
 海上衝突予防法には色々なケースを掲げて衝突回避の行為を義務付けている。東京湾に向かう船と房総の漁港から三宅島方面に向かう船の航路は横切り関係だ。漁船の側に進路と速度の保持義務が、イージス艦には漁船を避ける避航義務を。この関係のことだ。
 夜のニュースで感が当っていることが分かった。大きな船でも小さな漁船でもエンジン付きの船なら五分と五分、海上では平等。
 法を遵守していると起こらなかった衝突事故が起こった。痛ましい事故だと思う。
 30年の船乗り生活で自分の乗り込んだ船が衝突事故にあった事はない。しかし日本沿岸の航海では苦労をした。沿岸航海する船がめっちゃ多いことと、漁船が多い為だ。これを避けて目的地に安全航海をする。これが船乗りの第一の使命ですから。
 自衛艦の使命など考えたことはない、が1400億円もするイージス艦が自分の船に接近する7トンもある漁船を映像解析を出来ないなどは、猫に小判で船橋での航海術はゼロに等しい。
 艦橋左右の見張り員が接近する灯火を当直責任者に告げられないことも、船乗りとしては下の下。
 ニュースでは避航動作としてエンジン後進を使ったと言うが、私の経験からすると舵を左右一杯にどちらかに取ったろう。
 後から色々と言えるが、日本沿岸では目を皿の様に見開いて海上の物体を見張る、が航海安全の原則だと思って、海上生活を過した。
 イージス艦には当直者が10人も居たというのに、一体何をしていたのでしょうか。お粗末の一言。(以上21日記)

 22日、感が当ったの追記
 21日夜のテレビニュースを観た。そして22日朝の電子版読売新聞を読むと色々と新しい事実が報道されている。
 私の船乗りとしての直感が当った横切り関係。が後一つの直感は衝突が4時7分であったことだ。船橋の監視力の最も弱い時間帯に起こっている。イージス艦の航海当直割りが0時〜04時、04時〜08時、08時〜12時、らしい。
 衝突された清徳丸の僚船が時間的に30分も前からイージス艦を自分のレーダーで認識している記事を読売は伝える。イージス艦のレーダーが我々を認識していた筈だと。私は21日、7トンもある漁船を映像解析できないと書いたが、海面の状態によるが、べた凪の海面なら空の一斗缶が浮いていても何百mも先から映像として映る。
 ましてや7トンの清徳丸がどれ程の大きさの船かはテレビを観た人ならもうお分かりの筈です。映らない筈はない。見失う筈もない。
 講釈師のように言う訳ではないが、レーダーには手に余る映像が映っていたのではと想像する。民間商船の場合、当直二人組で責任者は現コース何々、操舵システム、機関部との関係、特にレーダー情報では、この映像が最も危険な映像、距離何マイル・・・などと情報を引継ぐ。見張りではどの灯火が危険かなどを引き継ぐ。イージス艦は10人も居たと。
 私の当直経験からするとこの朝のイージス艦は航海術では最高度の技術を発揮すべき海域に入っている。太洋航海から沿岸航海にスイッチを切り替える入港の朝だ。
 22日朝の新聞は防衛省のドタバタを書いている。早レーダー記録がないとか、監視員の視認証言が2分前から12分前に変わったり、灯火の色も緑色が赤色だったり、イージス艦内のドタバタ振りが分かる。口裏合せの所為なのか。
 その内に事故の全容が明らかになるだろうが、当直を引き継いだ人達が事実を証言し、この朝のイージス艦の実態を公にする、が事故の解明になるだろう。
 海上自衛隊は浦賀水道の潜水艦事故から最近の豊後潜水艦事故、護衛艦の火災事故、インド洋の航海日誌の廃棄、給油量の虚偽報告、イージス艦の機密漏洩等々、何をしでかすか分からない組織のようだ。防衛予算がもったいない。もったいない。5兆円ですぞ。



08年2月15日記
 映画「母べぇ」を観る
 矢臼別から釧路の映画館までは徒歩20分、車1時間、略1時間半はかかる。友人が良い映画だと言うので、11日出かけた。
 映画は12時50分から、ささやかな楽しみは、その前に外飯をすること。映画館に並んだ食堂でカレーを注文したが、美味いとはいえない昼食に、出出しが悪い。10分前に座席に着いた。この映画館、多くの人が菓子を片手に入場、アメリカ流らしい。
 2時間10分ほどの間に菓子を食べる音に煩うことはなかったが、近くに私語をする人がいて困った。
 70年程も遡った日本の話なのだが、母べぇの家が警察官に踏み込まれて、手当たり次第にひっくり返して家捜しをし、父べぇが捕らえられて行くシーンがある。
 このシーンが我が家の記憶と重なった。未だ私が生まれる前の話で、貧乏な掘っ立て小屋のような我が家に警察官が靴を履いたまま踏み込んだ事件。叔父を逮捕する為の家捜しで、昭和6、7年の話。
 その時は難を逃れたが、後に叔父は捕まり大阪の刑務所に送られ、家に帰ってきた時の話を忘れられない。つまり拷問が酷かった事。同じ時に捕らえられた町の人で拷問死した人もいた。
 映画「母べぇ」は戦前の治安維持法がどれほどの悪法だったかを見事に描いている。私の親父は紀州の沿岸漁師で生計を立てていた。しかし11歳年下の弟(共産党のシンパ)を官憲から守るべく立ち回った。その後警察官が月に一度は立ち寄って動静を探ったと言う。
 「母べぇ」を観ていると戦前の我が家のことを思い出して、今でも警察は悪いことしかしないように思えてならない。昔の治安維持系統の公安警察が今も幅を利かす日本国。
 今や、叔父や親父から話を聞けないが、「母べぇ」が確りと生き方を教えてくれた。ありがとう。



08年2月8日記
 餃子の農薬混入で
 2月に入って餃子の食中毒問題で連日大賑わい。問題の冷凍餃子は中国からの輸入品。
 食品の安全検査をする人が少ない。で輸入食品の1割程度しか検査はされていない。次は検査を依頼しても保健所が受け付けないで放置。その次は問題が元締めの厚生労働省に届かない。
 日本は一時、世界で最も治安の良き国と言われた。それに有能な官吏がいた国でもある。
それが最近はランクがおちて夜道を一人で歩けない。その上役人が、と特別視はいけないが、前防衛省の外務次官の不祥事、年金問題、食品を初めとした一連の偽装のこと、日本はがたがただと思う。
 今回の事件で日本の食糧は6割が外国産であると言う事実。
 北海道は食糧自立地方と威張りたいところだが、自宅台所には麺製品が多くて殆どが外国産食糧。毎日頂く牛乳も、使う醤油も、実は自前とは言い難い。米だけはと言いたいがこれが風前の灯。
 金で買える物は金で、という考え方が自公政権の農政。だから自給率をどれだけ上げようとしても上がらない。
 英国や仏国は自給率を上げた国と言う。日本は田畑がなくて自給率を下げた訳ではなくて、農政が悪くて自給率をさげた、と思う。
 今、国内の餃子需要に国内産では満たせない。だから中国産の餃子に頼らざるを得ない、が業者で相半ば、と伝える新聞。
 とにもかくにも、自前では4割しか賄えない食糧事情、丸々1週間経とうとしているが、何処でどうなったのか毒物混入経路が分からない。
 この事件を機に食糧自給率向上の端緒になれば。食の問題、農政の基本が問われていると思う。



08年2月1日記
 「井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ」
 今年の施政方針演説で福田首相が引用した石川理紀之助の言葉という。しんぶん赤旗の潮流欄で知った。私がこの事を教わったのは川瀬氾二さんから。
 川瀬さんが半世紀矢臼別原野で生活する上で、自前の井戸はなくてはならぬ物、自分で6mほどの井戸を何本か掘っている。そして隣近所で掘った井戸も見ている。
 西牧場で私が自分で井戸を掘るに至って、何処まで掘るかで聴いた言葉が「水が自噴して作業が出来なくなるまで」だった。水中映像で川底の砂を吹き上げるように噴出する映像を見ることがある。
 井戸を掘っていてその光景を目にしたら占めたもの。西牧場では一応そこまで掘った。いま少し残念なのはもう少し掘り込んでいたら、とは思う。欲を言うならあと50cm掘り込んでいたら、と。
 井戸を掘ってから3冬目を迎えている。一冬目は渇水期に井戸の水深が33cm。二冬目が62cm。そして今年が3冬目、今朝は62cmの水深。果たしてどこまで下がるかが気に懸かる。あと50cmの掘り込みを悔やむのは渇水期の水枯れを心配するから。
 私がこの「水が湧くまで掘れ」で思ったのは言葉の意味をどの様に理解し、認識するか。今の世の中、井戸掘りで苦労した人がどれだけ居ることやら。現在、東牧場では井戸掘りの真っ最中、水が湧くまで掘るが何を意味するか特と噛み締めたい。
 石油よりも高い水。地球規模で考えると水で苦労している人が何億人も。矢臼別は井戸さえ確り掘れば水の心配はない。
 50年先を見据えて立派な井戸を掘って欲しいと願っている。
 川瀬さん曰く「滲むような水では駄目」。井戸は水が湧くまで掘る。
 私にはこの言葉の意味が身に沁みます。



08年1月25日記
 第1腰椎圧迫骨折
 師走の6日、カシワ号の娘に不覚にも10mほど凍土の上を引き摺られた。回復に向かってはいたが、念のために1月17日、40日後診察を受けた。整形外科で一通りの触診を受け、略健康体の動きをクリアし、特別に問題はない、と。
 最後はレントゲン写真の所見。第1腰椎の上部が圧迫骨折していたという。40日後で骨折は幸い回復しているが、直後ならギブスをはめなくてはいけなかったかも。決して軽傷ではなかった訳で。自己診断は問題ありだったのですねぇ。
 エーコさんが現在、刺絡療法で転地療養中。読む本がことごとく病気は薬で治さないとか、自分自身で治すという自己免疫療法の本ばかり。
 とにかくベッドから起き上がる時に痛む、寝返りが出来ない、腰を曲げると痛む、就寝前に疲れを自覚。しかしそれ以外には特別に痛まない。で自己診断は単なる筋肉痛だと。
 事故、1週間後だったか3kgほどの斧で薪割りをした。振り下ろす斧が薪に当る瞬間、確かに腰椎が痛む。3度ほど試みて、これは好くないと直ぐに止めた。その後は痛むことは一切せずに休養を続ける。
 今も完全に回復したわけではないが、整形外科の先生はこのままで治癒するでしょうと言ってくれた。
 無理をしないでどの様な態勢をとっても痛みが無くなるまで養生する。そして春先の農作業に備えて体調の回復に努める。
 内科の先生は筋肉を包む膜が痛んで腰の周りに痛みが残っているのでは、とも。ああそういうこともあるんだ、と思ったり。 
 確かなことは第1腰椎が圧迫骨折したことだ。自己診断も程々に。



08年1月18日記
 酪農交流会に参加
 別海町は酪農の町。森林面積は町域の25%、で農地は約50%と言う。それに乳牛の頭数は約11万6千頭。人口が1万7千人だから人、一人に牛が約7頭の関係である。漁業で生計を立てている人もいるが、主産業は酪農です。
 乳牛が朝晩、搾乳しないと体調を崩すことを知ったのも、矢臼別に来てから。とにかく別海町は日本の酪農業の最先端地域、ここで今何が起こっているかを知るには、酪農交流会に出るが一番、と。
 1月16日、今年第1回目の交流会、西春別駅前市街の会場に出かけた。11時から始まった交流会には20人が、4人を除く16人は現役の酪農家。この会は全員発言が原則。酪農の危機と言われる今なので、交流会の人達がどの様な発言をされるか、そこを訊きたくて参加した。
 交流会の教祖的存在の三友盛行さんが私の隣に席を取ってくれた。
 それで私の発言に三友さんが直ぐ答えて下さった。三友さん曰く「ここに来て酪農のあり方でワクワクしている」と。特に飼料の値上がりで大変だと言う折柄、放牧を主体にした牧場経営が実力を発揮するでしょう、と三友さん。他の方々も大変な時期ではあるけれど、廃業を口にする方はいませんでした。
 こういう報告では酪農が今、何故、危機に直面しているか解ってもらえないかも。それでもう少し付け加えます。別海での牛飼いの主流は輸入飼料で搾乳をする、です。トーモロコシの値段に即酪農収入に影響します。
 参加された酪農家は輸入飼料を少なく、つまり放牧酪農なのです。三友流酪農術の実践農家ばかり。頑張れ三友教と言いたい。



08年1月11日記
 参考人質疑
 1月8日参議院の参考人質疑をテレビで観る。参考人は金銭の授受についてはことごとく否定した。まあ疑惑を訊かれて素直に授受を認める人などいない。証人喚問と参考人質疑では受け答えで前者は偽証罪に問われるので、応答の重みも少し違う。
 同じ防衛問題で証人喚問された前事務次官も金銭の授受では否定したいた。が開けてびっくり最近の報道では1000万円ほどの収賄があったと伝えている。
 日米平和・文化交流協会の常勤理事の秋山氏は質疑の中でコンサルタント料金については答えなかった。ここに金の流れが隠されているように思えた。
 全国紙の電子版は疑惑が深まったと伝える記事が多い。質問する議員はもっと核心に迫る質問をして国会の場で疑惑の解明に努めてもらいたい。元、現防衛閣僚の名前が飛び交う質疑応答です。底知れぬ防衛疑惑の入り口にたどり着いた、そんな感じの参考人質疑であった。
 福祉も年金も、常に消費税の増税が先に来る、防衛予算は減らせと言うメディアの論調などお目にかかったことがない。消費税の増税しか解決がないと言うメディアばかり。
 800兆円まで借金した国の財政、簡単には帳尻は合わせられないでしょう。9日午後には党首討論があった。年金問題は過去40年間の行政の問題などと福田首相は開き直っていたが、防衛問題も半世紀に渉る憲法違反の自衛隊に関わる問題。
 日本の防衛行政を追求する格好のチャンス、次は証人喚問で疑惑の解明をしてもらわないと。借金財政を立て直す意味からも防衛省の無駄をゼロに。ならば消費税の増税など不要。そう思いません。



08年1月4日記
 生還者の言葉
 元旦の朝、冬山を試みた人が雪崩に巻き込まれて、4人の方が命を落とされた。正月前後によく聞く悪いニュースの一つだ。2日だったか雪崩に巻き込まれながら助かった方の話を聞いて、おやっと思った。「雪崩が起こるような所ではない」、と言うのです。この話の受け取り方は行間に意味ありと言われるかも知れないが、単純にこれは良くない、と。
 過去に自分たちがテントを設営した地点で雪崩現象はなくても、今雪崩に巻き込まれた現実を踏まえて話さないと、いけないのでは。
 降雪の数少ない経験だけど、ここに転居して間もない頃、一夜にして90cmの積雪で、その新雪の中、東牧場までを歩くスキーに身を託して1.4kmを歩いたことがある。51歳の時の話。
 歩く度に40cmほどスキーは沈み、大変です。バランスを失って横に倒れたり、前につんのめったり、車庫直前で雪の深みに倒れこんで起き上がるのに雪の中で溺れるのでは?と何度も。
 雪山は知らないけれど、雪の大波に襲われたら大変だろう事は、想像が出来ます。
 海では泳ぎに長けた者が死に、泳げないものが命を拾う、とよく言われる。状況判断を誤った結果の表現だと思う。下手に自分の船を離れると運が尽きる話だ。
 山の遭難の度に言われる、何故ベテランがこのような事故に。
 自身がつい師走に事故を起したので、大きなことは言えないけれど、自然に対する畏敬の念を忘れてはいけない、そう思う。生半可、知ったようなつもりでいると足元をすくわれる。
  一人暮らしには厳しい西牧場、他人事ではありません、気を引き締めなくては。



07年12月28日記
 第41回平和餅つき・望年会は明日
 41回目を迎える平和餅つき・望年会は29日。26日、矢臼別10大ニュースとして、担当者から次のようなFAXが入りました。
 
<table border="1" width="599">
<tbody>
<tr>
<td align="left" width="32"><font size="-2">番号</font></td>
<td align="left" width="551"><b><font size="+1">    2007・矢臼別10大ニュース</font></b></td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">1</td>
<td width="551">温泉を掘ろう会、運動を全国展開</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">2</td>
<td width="551">いっせい地方選。周辺4町の平和勢力、完勝(4/22)</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">3</td>
<td width="551">川瀬所有地「囲い込み」20周年、土地問題で学習会(7/21)</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">4</td>
<td width="551">8年ぶり、原水禁世界大会に島崎広平さん(22)を派遣
原爆展入場の女子中学生、町内弁論大会で感想述べ最優秀賞(11月)</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">5</td>
<td width="551">落合平和盆おどりと結んで第43回平和盆おどり(8/9〜11)</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">6</td>
<td width="551">9回目の米海兵隊移転訓練</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">7</td>
<td width="551">演習場内砂防ダム問題、大きく進展。防衛省、概算要求断念。
全基調査終え、第6回全道イトウ保護フォーラム別海町で開催(10/21)</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">8</td>
<td width="551">自衛隊、町道封鎖の暴挙(10/19)</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">9</td>
<td width="551">平和の家改装工事完了(7月) あずまや竣工(11/19)</td>
</tr>
<tr>
<td align="right" width="32">10</td>
<td width="551">箕輪訴訟不当判決。瀧川会長傍聴。原告団控訴。
川瀬さん引き続き原告団に(11/19)</td>
</tr>
</tbody>
</table>

 矢臼別平和公園クラブを03年12月に立ち挙げて4年目の07年夏に平和の家改装を完工、秋には東屋の竣工なり、公園クラブとしては記念すべき年と成りました。
 その上、川瀬さんが代表を務める温泉を掘ろう会が運動を全国に展開するわけで、矢臼別平和公園構想、更なる飛躍の年と成りました。
 ニュースには各項目毎に関係した人が説明をします。私も9番を本の少しだけ喋ることに。



07年12月21日記
 「王家の谷」を読む
 船乗り生活で唯一観光として印象的なのは王家の谷を観たこと。
もう28年も前の話。エジプトは紅海のスエズ手前にサファガという港があってオーストラリアから小麦を満載して入港した。
 1週間ほどの停泊中に半舷上陸で昼間1日をかけて見物した。
 ルクソール遺跡の予備知識なしの観光、3台のタクシーに乗り合わせ砂漠の道をルクソールへ。そして観て凄く感動したこと、現在それが昨日の事のように脳裏によみがえる。
 「百聞は一見に如かず」は耳と目からの認識度を比べる言葉だが、新たな百聞を加えるために本は無くては成らぬもの。その後どんなことが分かったのか。
 蘇る「王家の谷」近藤二郎著を読んだ。著者が初めてルクソールに調査隊の一員として行ったのは30年前らしい。こちとら、たったの1日とは言え王家の谷を観ているので話が手に取るように分かる。有名なツタンカーメンの墓には副葬品などは一切なかった。が確かに「一見に如かず」でナイル文明って凄い、と本を読んで又感動。
 この本にはカイロのピラミッドの話も出てくる。が残念ながらピラミッド見物は半舷上陸が実施できず、一見の機会は逃した。だからピラミッドの話になると俄然認識度がガタン、と下がる。
 王家の墓が造られたのは今から3550年も昔の話。日本には国も文字も無い時代。その時代にこれだけの物を作り出していたナイルの文化、文明には驚くばかり。
 予備知識の無い観光だったが一見に如かず、見るはすばらしい。
 昼食を公園のベンチだったか、仲間10人で、おにぎりを食べていたら、日本の子ども連れの観光客がいて、あれっと言った顔つきで子どもが両親に話す光景を思い出す。季節は正月でルクソールの観光シーズンだった。蛇足ながら。



07年12月14日記
 コレステロールとは
 電子辞書に、高等動物に見出される代表的ステロール。最初胆石から発見された。神経・脳脊髄などに多い。生体膜の重要な成分。性ホルモン・胆汁酸などは生体内でコレステロールから合成される。血管内に沈着すると動脈硬化を起す、等と。
 今読んでいる本は「コレステロールに薬はいらない!」浜六郎医師著です。
 本にはコレステロールの働きを分かりやすく、如何に人体にとって大切な物質かを説いている。
 ところが、日本では日本動脈硬化学会が健康体としてのコレステロール値220mg/dlを上限と決めている。
 それでコレステロール値が220mg/dlを超えると低下剤の服用を勧める医師が多いと。が著者はここで「薬はいらない」と説く。
 私のコレステロール値は11月30日、235mg/dl、そして長年病人の数値だが薬を飲んでいない。偶然、著者の処方に則っている。
 30年も前になるか、宮本顕治の獄中闘病記で読んだ。最近、見直されつつある免疫療法は自然治癒力を説く療法で薬は毒だと言う。
 「コレステロールに薬はいらない」に戻りますが、長生きをしている人はコレステロール値の高い人だと。確かに心筋梗塞を起す確立はコレステロール値の高い人に多いが、日本人の心筋梗塞は欧米人に比べて確率が低く、低下剤の服用で他の病気を起し早死にする人が多い、と。
 健康管理だけでなく、医療費の節約も提起。学会が設けた科学的根拠が乏しいコレステロールの上限220mg/dlが、無益な低下剤の服用となり年間3000億円の出費とか。
 低下剤を止めると医療費を節約、その上コレステロール値の高い方が癌にも罹らない、と良い事ばかり。



07年12月7日記
 今週読んだ本
 「矢臼別の人々」は福山瑛子氏著の川瀬牧場に生活する、地主の川瀬氾二さんを主モデルとして描かれた小説です。今、川瀬牧場には三人の住人が居て私もその一人、あと一人は東牧場の「平和の家」に住む女性です。
 作家は住人をどう描くのか興味を持って一気に読みました。で私の読後感を言いますと「フーンこんなに成るんだ」・・と。
 もう30年も前になるか、「海霧のある原野」という窪田精がしんぶん赤旗に連載した小説がある。モデルになった方に直接作品の評価を訊いたことがる。すると別海在住者の中では評価は好評と悪評、相半ばであったと。が作品の評価は読者が決めるもの。
 私は今も小説「海霧のある原野」を根釧台地の生活で、バイブルの如くに重宝している。
 今度は自身がモデルの一人として描かれた「矢臼別の人々」をどう評する? で、すべては作家の頭脳によって創造された小説、現地とモデルを知らない方々がどの様に評価するか、それは読んでみて貰わないと、始まらない。
 「こんなに成るんだ」に一言付け加えると、虚実がまみれているのが小説。だから18年川瀬牧場で暮らして分かったこと、知らなかったこと等が表出されていて、興味深く読み終えた。それらしき人の、らしき実相に触れて「フーン」と言う形で認識を新たに。
 自身についてはデフォルメが大きく、実物に行き会わしたときは落胆しないように、と付加えて置きたい。作家の創造力とは凄いというのが偽りの無い読後感でしょうか。
 つい、ここ3、4年の川瀬牧場を話の中心に書かれているので川瀬牧場に興味のある方は是非一読して欲しい作品です。



07年11月30日記
 最近読んだ本
 「反転」田中森一著、これを読む。エーコさんが送ってくれた本で、本の副題が「闇社会の守護神と呼ばれて」とあり、検察官を経て弁護士をした人が書いた本。
 11月28日午後、防衛省の前事務次官が収賄で逮捕された。という状況であるだけに、面白い本を読んだと思っている。
 弁護士になってからの話は読み物として、びっくりするようなことが次々と書かれていて、読者が夫々に楽しまれると良い。
 フーンそんなものかと思ったのは検察組織が国家権力者の為にしか働かない組織であることを明確に書いていることだ。ただし田中角栄の場合は日本国の上司、アメリカのお怒りがあったことを書いている。これも頷けることだ。
 地検特捜本部で活躍した話、弁護士として活躍した話、そして最後は被告として裁判中であることを記して本は結ばれている。
 繰り返しますが前防衛事務次官の逮捕から政治家、軍事商社、官僚がどの様に裁かれるかが今の政治に求められている。
 この「反転」では政治家がいつの間にか特捜本部の動きを制することを書いている。防衛族と称される政治家が、また政商がどの様に裁かれるか。司直に任せるなどといって国会は知らぬ振りをすることが多い。政治の場でもしっかりと政治家を追及してもらいたい。
 つい先だって朝鮮総連のビル売却で検察のOBが詐欺罪で逮捕されたが、この本を読むと如何に検察の縦割りが整然としているかが分かる。
 国家権力がどの様に働くか、それを制するのは国民力(個人造語)だと信じるが。



07年11月23日記
 ガソリン1リットル150円
 軽油1リットル130円、灯油1リットル91円。これは19日現在の道東は中標津のガソリンスタンドの表示価格。赤旗日曜版11月18日号で”北海道の一般家庭の灯油消費量は1戸建ての場合、年間1900リットル。全国平均の3倍です。10月末の価格は1リットル当たり82.1円(全道平均・道環境生活部調べ)。15万円以上かかり、5年前より6万円以上の出費増と”と伝えています。
 我が道東地方は平均より1割高ですから、今年は一段と寒い冬になりかねません。
40年も前の話をすると笑われるかもしれませんが、アメリカでは真冬でも家の中は半袖で、外出するときは玄関から車までを外套を羽織って、車は暖房で車内は暖かく、家に入る時外套を着て屋内に。そして真冬なのにアイスクリームを食べている。私の行った先は港湾労働者の家庭でしたが、車は仕事用と娯楽用の車を持っていて、アメリカはリッチなんだ、と思った。(アメリカ航路の船長に55年も前にその話を聞いていたのだが)
 北海道に転居して19年、冬の暖房だけはアメリカ並みであることに、びっくりしました。外気温が零下20度の北海道で火鉢の暖では過せないとは思いますが、何処に訪ねても寒いと思ったことが無い。それくらい暖房には金をかけているのです。
 私は年間で精々、灯油の消費量は250リットルくらいか。風呂と台所で時々、給湯器を使用する。今冬はお風呂だけに使って、暖房は一切薪ストーブにして出費を抑えなくては、と気持ちを引き締めている。
 スタンドの若い人は年末には後一段値上がりするのでは、と教えてくれた。



07年11月16日記
 砂利舗装の茶内線で
 11月13日午前11時頃、別海町茶内線の行き止まり約300m前、川瀬東牧場の手前200m程で乗用車の脱線事故がありました。
 川瀬さんは散歩の途中で、事故現場に行き合わせたようです。運転者には傷害は無かったようですが、車は大破していました。この事故を川瀬さんから聞いて現場に行きますと、釧路の業者が車の撤去作業をしていました。午後2時半のことです。事故車は路外から引き上げられて釧路に運ばれました。
 上風蓮橋から東牧場までの約1.7kmは砂利舗装の道路で、四季の変り目にグレーダーで凸凹を補修されます。その度に砂利が露出して、スピードを出して走ろうものなら、ハンドルがとられて進路の確保が難しくなる。
 事故の想像ですが、速度の出しすぎと砂利道にハンドルをとられて路外に転落、路側の立木に衝突し、前部エンジンが大破、と。
 この場所では過去にも何度か路外転落があって、危険な場所なのです。それに40度近い曲がり角で先が見通せない処でもあります。
 川瀬牧場にお越しの方はくれぐれも上風蓮橋から川瀬東牧場へは低速で近づいて下さい。砂利道はスピードを出しすぎると進路を保持できなくなることをお忘れなく。
 そろそろ路面が凍て付きます、何処と言わずこれからは車の運転は要注意です。



07年11月9日記
 東屋の竣工
 11月6日、いよいよ屋根板の張る日となりました。がやるかたない所用で午前中、隣町へ。そして午後は東屋の屋根張りを、と考えて、とんぼ返りで矢臼別に帰ったのが午後2時。しかし遅かった、既に屋根張り作業は完了していた。釧路市から3人、別海市街から3人そして川瀬棟梁の7人での屋根板張り作業、午前中に終わったと言う。残るはトタンを張る作業のみ。屋根板を張ると東屋が一段と存在感を増してきた。
 8日が屋根トタン張りの作業。これは釧路の業者がやってくれる。6日の屋根張りは写真撮影を逃した。トタン張りはきちっと撮影をしたくて仕事始めからと東牧場に出向く。
 業者はトタン屋根の完工は9日の予定で、今日はトタンの折り方中で、明日一気に張り終えると言う。
 9日9時から張り始めたトタン屋根、一気に午前中にあらまし張り終え、昼食後ご午後2時半に屋根張りを終了。東屋の竣工なる。
 思い返すと基礎工事の始まったのが6年6月20日の15時30分。暮れの12月3日上棟式を。そして7年9月4日に本棟が川瀬さん一人で上棟されて、屋根板を張り終えたのが11月6日の12時。そしてトタン屋根の張り終え、東屋の竣工が7年11月9日午後2時30分。
 色んなことがありました。エピソードはおいおい語ることにして、取り敢えずは東屋竣工のお知らせをします。



07年11月2日記
 賞味期限で
 10月30日の電子新聞で知ったのだが、御福餅も営業停止になった。赤福餅が賞味期限の偽表示等で、既に営業が禁止され、赤福関係の従業員は仕事が無くて困っているんだろうなあ、などと。と同時に御福餅は売れて売れて、大忙しなどと想像していたら、それまでの七倍の出荷だったとか。で予想は的中したのだが、御福餅も赤福と同じ羽目に。
 伊勢市に25年余、住んでいたので気になっていた。赤福餅は矢臼別に来てからも時々食している。
 今夏にも赤福餅を食べたばかり。赤福の販売店では2日も時間がかかる所へは発送できないと、断られ、エーコさんがクール便で送ってくれた。赤福餅の即売主義をアピールする店先の対応であった。さすがと思っていた矢先の、赤福餅の偽装表示の発覚、そして御福餅にも。
 偽装表示にも色々あって、豚を牛と言ったり、地鶏でないのに地鶏と表示したり、これは許せないことです。しかし賞味期限については余り気にしない。それだけに何故に賞味期限に偽装を持ち込んだのか、と疑問に思う。
 老舗は老舗らしく、流儀を変えなくては対応できないときは素直に流儀を変えるべきを、偽装表示では許されない。
 ただ賞味期限については、豆腐の賞味期限切れを食べるし、別海産牛乳の賞味期限切れを毎週飲んでいる。口に触れた瞬間の味覚を大切に、自らの味覚を信じて、食したり捨てたり。
 五感を研ぎ澄まし、匂いと味と見た目で良し悪しを選別する。が段々衰える五感、と成ると表示が頼り、先ずは疑ってかからねばならないのか。次々起こる食品の偽表示。
 中国産の大根が鹿児島産に化けたり。世の中変です。



07年10月26日記
 赤旗の記事で
 10月20日土曜日の3面記事で「暗視ゴーグルを空自に不正納入か 防衛省が商社を調査」の見出し。
 これを書くのは他でもありません、9月の海兵隊が暗視ゴーグルを使って小火器訓練をしたばかりだから、です。その時、自衛隊もそんな訓練はしていると言うだろうなど、書きました。案の定でアメリカから輸入していることが分かりました。
 赤旗は次のような内容で伝えています。”渋谷区の商社が、米軍事機器大手ノースロップ・グラマン社製として航空自衛隊に納入した基地警備用の暗視ゴーグル136個が、正規の手続きを取らずに納められた疑いがあることが分かり、防衛省は19日までに調査に乗り出しました。
 ほかの業者からの情報で疑いが発覚。防衛省は「必要書類の提出は受けておりゴーグルは偽物とは考えにくい。性能に問題があるとも聞いていない」としていますが、メーカーと商社の間で、米国業者など数社が仲介しており、今後、流通に関する書類の提出を求めるといいます。136個の暗視ゴーグルが4100万円で昨年3月に落札、今年2月に空自第一補給処(千葉県木更津市)に納入された。”と。
 不正と言うか、嘘をつくというかこの3面記事の並びに前防衛事務次官のゴルフ接待の記事が出ていて、ここ数日は赤福餅の偽装表示があったり、比内地鶏の偽表示があったりで何と賑やかなこと。
 暗視ゴーグルが高価な商品であることは分かったが、狙撃するために自衛隊がそっくりアメリカの真似をしていることが改めて。知らなかっただけで「ゴーグル」とは、で検索するといろんなことが分かる。
 インターネットの検索を上手に使わないと。



07年10月19日記
   米原万里の話
 最近読んだ本、米原万里の「愛の法則」。水沢のエーコさんから回ってきた。ロシア語の同時通訳者をしていた人が書いた本。他にも何冊か読んでいますが、「愛の法則」も直ぐ読んでしまう。
 国際という言葉を分かりやすく話してくれる件がとてもいい。国際は国と国とのあいだ。これが言葉の意味だと。
 続けて読んでいくと、グローバリゼーションとインターナショナリゼーションの説明が語られる。前者の意味を説いてゆくと、「グローブ」という言葉が基になっていて、地球の球形を意味する時に使う言葉だと言う。つまり英国や米国流にさせることを意味すると言うのです。
 かつて日本の有識者で日本語を捨ててしまえと考えた人が居たとも。明治時代の森有礼(もりありのり)は英語を採用しろ、北一輝はエスペラント語を第一公用語にしろ、志賀直哉はフランス語を話すべき等と。尚最近では元小渕恵三首相が「英語を第二公用語にしたい」と提言など。
 その時の世界最強の軍事、経済国を一つ定めて、日本はそれに付き従う癖があるとも。歴史始まって来、漢語、オランダ語、そして英語と言葉の国際は続いているが自国の文化を大切にが著者の論なのです。
 サミットの同時通訳の話も面白い。日本だけは英語を経て各国の言葉が通訳されているという。28年間もです。国際という言葉が泣いています。英語と日本語はアメリカ、イギリス、カナダでは国際でも、フランス、ドイツ、イタリア、ロシアとは日本は国際が成り立っていない。国際を取り違えているからでしょうか、英語のふるいがかからないと日本語に変わらないとは。
 米原万里の話は面白い。この人の知識をそっくり無くしたことが悔やまれる。



07年10月12日記
 医者が居ない病院
 我が道東の別海町で医師が居なくて困った、という話は聞いていない。しかし根室市には産婦人科医が居なくて別海町や釧路市に行かないと子どもが産めないという。
 専門的に何故田舎に医者が居ないかを調べた訳ではない。田舎で暮らす年金生活者の直感で言うと、医師の絶対数の少ないことが大本では、と思う。
 千葉県という首都圏に近い地域でも妊婦がたらい回しにされたり、奈良県でもそのようなことがあった。
 先進国といわれる国の中で医師が少なく、OECDの国で医師数が最下位から3番目と新聞で読んだことがある。それは政府が医師を少なくするために、医学生を少なくしたから・・。
 北海道では地域からの医学生を地域に赴任することを条件に、医学生を増やすなどの話があった。しかしそれで来年から地域の医師が増えるわけではない。医師になるまでは年月がかかる。
 3月に一度、釧路の病院に検診で行くが、診てくれる医師は何時昼食をとるのかと思うほど働いている。そして病院に行く度に看護士、医師の卵を探す宣伝文書を見る。
 医師不足や看護士不足は政府に責任があって、これは即、自民党政治の責任でもある。
 年金の問題、政治資金の偽報告問題、保険会社の保険金のねこばば、官民合わせてとんでもない事が噴出している昨今。何故こういうことが次から次へと起こるのか、分析追求が求められます。
 100年安心と見えを切った年金、ところが5千万件もが宙に浮いていた。医者が居ないのは?答は簡単、養成しないから。
 これ皆、自民政治のつけです。も一つ言うと国民自身のつけかも。
 こちとら一度たりとも自民を支持したことはないが。



07年10月5日記
 ADSL方式に切りかえ
 田舎の田舎だった矢臼別原野、ADSL方式で田舎を返上できるか。アナログからデジタルに、電話線の利用の仕方の切りかえと理解しているが・・。
 遠距離電話をIP電話ですると、市内通話と同額に。これは有難い話。それでインターネットの接続業者に問い合わせると、何年か前はどうにもならない地区だと断られていたのに、話はとんとん拍子に進んで、10月4日12時からADSL回線でインターネットも電話も、と相成った。
 私の早とちりで、3日にモデムをセットしたが回線の切りかえ工事が4日12時と言うことで、せっかくPCの師匠のヘルプを受けながらこの日は空振り。
 そんなこんなで4日は自力による接続作業を。
 4日の13時、自宅から19km先の工事は終了した。これでADSL信号が安定したらすべて良し。なのに期待は虚しくADSL信号は届かず。3時間後、故障担当の技術者が自宅に来てくれた。が結果は同じ、ここではADSL接続は無理と。
 これが上手く行くと電話代が安くなる、その上インターネットは長時間使っても料金は嵩まない、速度が速くていらいらすることもない。まあいい事ずくめだったのに。
 無線によるネット接続も上手く行かなかったし、当分はアナログ回線による接続しかない。
 矢臼別はネットでも少し不便な所のようです。でもインターネットが利用できるだけを喜ぶべきか。



07年9月28日記
 五感を研ぎ澄ませ(その2)
 夜間の監視テントには40燭光の裸電球を軒先に吊るす。でこの光を頼りに監視記録を綴る。
 雨でも降らない限り監視員が全員テント内に居座ることはない。発射音の度に時間を計測する人、方向と音を見極める人等がテント外で構える。
 記録をノートする人以外は裸電球の光線を避けて、暗闇に佇んで監視。写真を撮ろうとする人は勿論外に出て、カメラを三脚にセット。
 テント内で裸電球が視野に在っては、如何に視線を着弾地に集中しても、7km先の閃光を視認することは出来ない。
 照明弾の炸裂閃光を視認し正確に着弾地の上空に砲弾が撃たれているか、等は監視員の常識だ。
 が今回、助っ人の女性が視認したのは発射音の東方向で、東の空に閃光を確認。監視テントの前方7、8mで誰もが西の空に視線を集中する場所で、東の空に閃光を視認したのだ。でそれからが大変。監視テントの背の方向に視線が向けられた。
 この夜は低い雲がかかり、その雲に光が反射。射撃する度に発光があり、光が雲に反射する。
 映画やニュースで大砲を撃ったら砲身の先端から赤く火の噴くのを見ている。でも監視テントには155mm砲の射撃を直接見た監視員は居ない。だから、講釈師に負けない見てきた様な話だ。
 昼間の公開訓練で155mm砲の射撃を見た人は砲身からの火は見えない、と。で益々、見てきた様な話になるが、光った後、決まったように同じ時間差で射撃音が聞こえることを19日、20日夜と確認した。
 監視テントからの発射地点の距離は約5.5kmと推定。これ、監視テントとしては初めての発射地点の推定。
 段々月が明るくなって四夜め、五夜めは確認は出来なかった。六夜め、七夜めも明るくて駄目。8夜めは中秋の名月、気温9℃、北西の風が15m/秒で体感温度寒くて寒くて。
 しかし仲間6人で頑張った。そして「五感を研ぎ澄ます」、大切さを改めて学びました。



07年9月21日記
 五感を研ぎ澄ませ
 こんなことを話すと笑われそうだが、昼食後に時間単位で午睡をする。時には2時間も、目を覚ましたら午後の3時と言うことも。それからおもむろに農作業や雑の仕事を。これ、西牧場の日々の生活。
 しかし海兵隊が演習場に入り、訓練を始めたら午睡抜きになてしまった。いつもは寝ている時間に監視テントで聴覚神経を研ぎ澄ます。(もうぼろぼろなのだが。)
 朝8時から夜9時半までを監視テントで一応は集中する。午後4時半から2時間半は休憩が入る決まり。射撃のない間は話しに花が咲く。そして「海兵隊野郎」と、けんか腰で今日、4日目をむかえた。
 今回の監視、3日目にして気付いたことがある。それは聴力が落ちたこと。
 若い助っ人(女性)がここ3日、監視テントに居てくれる。この人、すごく耳が良くて、トラックの移動音、小火器の射撃音、と何でもかんでもこちとらよりも聞き分けが早い。若い人が監視テントに今まで居なかった訳ではない。しかしこれほど聴力の差を感じたのは初めて。
 この前の監視テントは2年前の9月だった。経年による聴力の衰えなのか。とにかくこちとらが何も聞き取れない時に、ちゃんと知っている。
 海兵隊が演習場に入って「糞野郎」という思いと、そのことから派生して色んな認識をする機会にも。
 五感の鋭さで、後一件やはり若い助っ人が昨夜、監視テントで威力を発揮した。9回目の監視行動で発射地点の推定が可能に。長くなるので詳しくは次週にしますが、視力神経の鋭さが発射地点の距離を推し量ることに貢献。
 監視テントでは五感を研ぎ澄ませ。この事が身に沁みる



07年9月14日記
 北海道防衛局が口止め
 9月10日午後4時過ぎ、根室市の窓口に入港船の問い合わせを。すると担当者に代わります、と言って次の人が。次の人が出て又何ですかと訊く。そして同じ事を訊ねて、出た人が又何ですかと訊く。
 私はかなり苛立ってきた。貴方の所はそのような電話の取次ぎしかしないのですか、と一言挟んで、明日入港する筈の沖縄からの海兵隊の荷物を運ぶフェリーの船名と時間を教えて欲しいと話した。
 久しぶりに米軍車両の降ろし荷役を監視する為に。が市役所の担当者は「それは札幌の防衛庁から口止めされているから、話せない」と。
 根室市役所が入港を許可しておきながら、市民には公表しない。
貴方の言ってる事はおかしいですよ、と抗議した。で貴方では話にならないので上司に取り次いでください、と受話器を一旦置いた。
 戦時下でもない日本の国で、軍艦でもない一般の貨物船の出入港を許可しておきながら、その事実を公表しない。これほど国民を馬鹿にした話はない。しかも国民の税金で運行される貨物船の動静を秘密扱いにする、断じて許せないと思う。
 その後、閉庁前にこちらから電話を入れた。すると担当する部署の責任者は次のように語った。
 「確かに防衛庁から口止めされている、そして問い合わせがきたら、この電話番号に問い合わせるように」、それが市の対応手順だったと。それを聞いて、なら「その根室市の対応がおかしい、詳しいことでも何でもない、入港を許可した船名や入港時間じゃないですか、何故言えないの」、と強く抗議した。
 すると、船名かりゆし、入港時間7時30分、出港時間12時30分、の答えが。市民のための地方自治体でしょう、しっかりしなさいと言いたい。

 追記 11日朝8時半、矢臼別川瀬牧場を花咲港向け出発。花咲岸壁に着いたのが9時45分。間もなく「かりゆし」は出港した。はや荷揚げされた榴弾砲には青いカバーがかけられていた。
 以前と変わりないのは海上保安庁の小型警備艇2艘、大型艇1艘が港内に漂泊していた。一般の貨物船の入出港には見られない風景。港の花咲岸壁にたどり着く道路の角々に警察が検問を設けて厳しく行き先を確かめる。これも以前と変わりない風景。後一つ根室市役所の港湾関係者はどうやら早朝から現場に張付けになっていた模様。8時には担当部門は出払って誰もいなかった。
 そして岸壁を見下ろす灯台の丘を見ると、いつもは高台に旗が立てられ、少人数とは言え監視行動をする人が居たのに、今回はゼロ。
 警戒態勢を敷いた警察も拍子抜けしたのでは? などと思った。
 今日岸壁に残されたあまり多くない米軍車両、中標津空港に今日、着く筈の海兵隊員が輸送に就くのだろうか。
 一連の貨物輸送実態、荷揚げ港での警備艇の配船や諸々のトラック輸送を見ていると、「米海兵隊様、矢臼別演習場を存分にお使い下さい」と、揉み手をして頭を下げる安倍首相が脳裏に浮かぶ。お祖父さんの岸信介が先鞭をつけたのだが。



07年9月7日記
 ペルシャ湾での古い話
 しんぶん赤旗8月31日号から”1面アフガン戦争6年2”から、内容を短く。米誌ニューズウィーク最新号はアフガニスタン戦争開始以来の米軍秘密情報機関のビンラディン追跡の経過を特集しているという。この中で米軍特殊作戦の専門家で海軍大学院のジョン・アキーラ氏は、最近の米軍の作戦状況を「米軍は米兵の死亡一人に対し百人のゲリラを殺害している」としながら、米軍による「この殺害率は不適切で非生産的」だと指摘。同校アフガニスタンの専門家トマス・ジョンソン氏は「一人を殺害すると、それは何倍にもなって跳ね返ってくる。男性の親せきすべてをたたかいに参加させることになる」と、米軍の作戦がテロ撲滅どころか、テロリストを増産していることを指摘しています。
 これを読んで船乗り時代の見聞を思い出した。もう35年も前の話。ペルシャ湾の南部にドバイという港があります。アフガニスタンから出稼ぎに来ていた港湾労働者の話。確か当時はソ連が軍事介入をアフガンにしていた頃です。
 労働者曰く我が部族を侵す奴は決して許さない、その為に俺は働いているんだと。侵略されているアフガンの労働者だったのです。
 私はその直前にクウェートの港でパレスチナからの労働者と話す機会があった。もう争いは止めたら、と拙い英語で話したら、俺が止めたら「民族の独立」を誰がやる、自分の子どもにも、この闘いを続けることを教えている、と。
 この時、中東の紛争が如何ほど難しいかを認識した。先の赤旗新聞の記事は認識の正しさを伝える内容です。
 テロ特措法が如何にも正義の法律のようにアメリカよりのメディアは宣伝しますが、とんでもない法律だと思う。
 論より証拠、6年経ってもテロは治まりそうにありません。



07年8月31日記
 今年の夏は暑かった
 昨年は夏場を本州で過した。それで今年は1年飛ばしの矢臼別の夏を過しています。
 夏の暑い話をする時、矢臼別では8月中に30℃を超える日が2、3日が相場でした。
 きちっと記録をしていないが、今夏は6月下旬に30℃を超して暑い日が数日。そして7月は寒い日が続いて朝は石油ストーブを1時間ほど焚くことが。そして8月、それ程気温が上がらず、11日の盆踊り前夜祭などは焼肉の炉から離れずに過した。
 それが12日以降はそれまでとは一転、昼間30℃を超す猛暑の天気が続き、28日から漸く20℃半ばの気温に。
 27日、町に出て矢臼別以外の人と話すことがあり、話題は今夏の暑さのこと。こんなに暑いのは初めての経験と。別海で生まれ育った人の話でした。
 川瀬さんは半世紀にわたる矢臼別の生活感覚で、こちとらは18年の住み心地で夏を振り返る。そして答えは暑い夏になりました。
 冬の寒さには十分対応できたのですが、この夏の暑さには負けました。それで手立て等せずに、もう昼間の仕事はしなかった。仕事をせずに過せたのは幸せ。
 8月に入って雨が降ったのは初旬に2日、中旬に1日降った切り。三寒四温は春秋の話で、夏場にそれはない。
 気象の異状は世界の各地で伝えられ、降雨による水害、雨の降らない干害、異常乾燥による火災、北極の氷解現象等々が。
 幸い矢臼別は風水害もなく、また干害もなく過し易い。心配しなくとも、あっという間に秋本番になるでしょう。
 とは言え今夏は暑い日が多かった。本は地球温暖化に違いない。
 


07年8月24日記
 インスタント食品
 だしは鰹節、昆布、煮干の3種を使ってとる。これが我が家の基本。ところがここ1週間は夕食は専ら”どん兵衛”だの何だの、というインスタント食品。盆踊りに来た友人達がとりで会館に置き土産してくれた今流行の即席食。
 明星ラーメンとか、45年も昔の即席ラーメンを船乗り時代(鮪漁船)に食べていたので、その習慣が未だに残って食卓には即席食が出る。で今も3分待つのだ!を時には食べる。
 しかし置き土産は知らない新種ばかり。そして1食のカロリーは340カロリーとか315とかで、味も良い。かなり我が家の基本味に近い。買われた訳が分かる。
 アメリカの西海岸に丸太やチップを積みに行っていた頃、港湾労働者に土産物として持っていくことが多かった。彼らは即席麺を好んだ。自分で直ぐ作れるからだ。
 ご飯を炊いて、味噌汁を作り、三度の食事をきちっとする。これは理想だが、手っ取り早く口に出来ることで、ついつい即席食品に手が出てしまう。
 お金を出せば、美味しい料理を頂けるが、矢臼別生活でそのようなことをしていては大変。で極力、内飯主義を守っている。
 23日は所用で中標津の町に出た。丁度昼食の時間になったので、久しぶりに外飯をする。頼んだのは「カツカレー」。これは大盛りで、腹は満腹に。カレーを食べたかったのと、豚肉も1年ほど食べてないので、味は普通だったが食欲は大満足。
 食べ物を売る商売、インスタントにしろ街中の食堂にしろ、人に気に入られないと生業は成り立たない。即席食品もお客様に気に入られるように頑張っているのだろうなぁ。
 置き土産はまだ幾つかある、今夜も又頂くか、どれもこれも結構いける味なのです。置き土産に感謝。



07年8月17日記
 第43回矢臼別平和盆踊り
 10日の前夜祭は60人くらい居ただろうか。午後7時から松平さんのトランペットの音をファンファーレに前夜祭が始まる。8個の焼肉の炉を囲んで賑やかに食事、歓談が進み。食が落ち着くと、南から北の順に参加者がひとこと発言をする。
 今夏は大阪がトップバッターで神奈川、東京、北海道と進んで最後は釧路、別海町で締めくくり。その後、即席ステージが設けられて、歌や演奏になり、10時頃まで交流が続きました。
 そして11日は本日、今年も略会場はテントで埋まり、前夜祭の寒い夜とは打って変わって天候にも恵まれました。夜7時から始まった開会宣言、夫々の発言の後、8時から花火大会、その後約40分間の仮装盆踊り大会、10時から本舞台での音楽交流等々と進んで、12時きっかりに舞台は終わりです。
 それからが夫々の交流テントでの歓談が続きます。1年に一度の顔合わせの機会にしている人にとっては本日の一夜が貴重な時間になります。
 12日午前1時には休みましたが、参加した多くの方々はどうだったのでしょうか。
 12日の午後はお別れです。6時から8時半が東牧場から西牧場往復の基地散歩。その後、朝食を済ませて9時から1時間半は川瀬さんと語る会が、そして11時には閉会。 
 そして12時、盆踊り広場に張られていたテントは一張りもなく元の広場に戻っていました。参加者は400人くらいだったでしょうか。
 前夜祭に語られる話、「ここに来ると勇気を沢山貰える、又来るぞう」が多い。
  無事に今年も矢臼別の盆踊りが終わりました。



07年8月10日記
 頂いた彫刻
 8月9日朝、ブルーベリーの実を採っていたら、自動車が我が家に近づく音。来客です。東京から毎夏、設営隊に参加される阿部大乗さんでした。
 何か御用ですかと話すと紙袋から取り出してくれたのが高さ30cmほどの彫り物で、父の作品だと言って。
 無造作に菜園のフェンス越しに受け取って、それから自宅居間に持ち帰った。すぐさまベリー園にとって返し、熟したベリーの摘み取りを続ける。採り終えた2kgを早速埼玉の友人に発送すべく荷造りを。
 そしてようやく、昼前に頂いた彫り物を観る。埃を被ったままだが、一木彫りのようでこれは凄いと思う。
 それで彫り物と一緒に封筒に入っていた文書を見て、納得でした。
 作者は阿部晃工氏、「昭和の左甚五郎」といわれた人。頂いた作品、大乗さんの朝の話では、馬を呼ぶ笛を吹く農民だとか。よく見るとあっちこっちに、ささくれた処があって、後一のみ入れてくれると、と思ったり。でもその辺りを良く見ると、どれほどの切れ味の鑿を使っていたかが推察できて、楽しい。士別市立博物館に秋にでも阿部晃工氏の大作を見に行きたい。
 盆踊りが授けてくれた贈り物、設営隊の阿部大乗さん有難うございます。
 


07年8月3日記
 7月27日朝4時のラジオ
 幼稚園の園長先生の話だった。目覚め直後で頭の回転が本調子ではない。が不思議と話は頭の中に、面白かった。 
 一つは赤ん坊の胃潰瘍の話でした。赤ちゃんの胃潰瘍なんて、と思うがあるらしい。その治療法が一風変わっている。母親のお腹の上に乗せて、赤ちゃんに話しかける。これで治ると言う。これで赤ちゃんのストレスが解消する。
 次は子どもを5分間、いや4分間だったか、黙らせる、つまり話に集中させることの難しさ。子どもは面白くない話だと直ぐに自分のしたいことを始める話。大人に話すよりは遥かに難しい仕事であることを。
 園長先生は子どもに話す時の秘訣はイメージを膨らませると、子どもは乗ってくると。
 これは作文の奥儀のようにも聞こえた。子どもを5分間、話に引き込む、これは大変ですよね。
 次の話も面白かった。授乳しているお母さんは視線を子どもの瞳ではなくテレビに。おっぱいを飲む赤ちゃんも視線はテレビに。これは変だと。目と目で親子が心を通わす大切さを説いていました。
 この朝、覚めきらない頭脳でハッと思ったこと、西牧場のポニーの子馬、7頭のこと。彼らには生後1週間は飼い主がハミング風に「うーうー」声音を聞かせている。
 時々、木陰で休んでいるとポニーの子どもが側にやってくる。例の鼻からの声を出すと、彼らは一応に反応する。生まれて間もなく耳にした、目がよく見えない時に聞いた飼い主の鼻声を思い出すのか。
 鼻からの「うーうー」を馴致に応用する。そんな思いをラジオから。



07年7月27日記
 蟻の話
 しんぶん赤旗の潮流欄に蟻のことが載った。確かコラムを書いている方の家にも蟻が侵入したような。
 我が家では、5月頃から始まった蟻の台所侵入が凄まじく、流し台の周りが軍団の終結地と化した。どう探すのか、砂糖の置き場所や甘い果物のへた等をゴミ入れの中に求めて軍団が集中した。蟻の家屋侵入は我が家だけ、と思いきや記事を読んで少し、ほっ!
 私の蟻対策は、先ず除去は掃除機で吸い取ることに。しかし侵入の防止方は彼らの好物を屋内に放置しないことだ。
 蟻がどの様に生きているかについては全く知らない。ただ我が台所に侵入してくる蟻を見ていて分かった事は獲物を発見した蟻が仲間に伝え、いつの間にか大集団になって行動すること。又私に何匹かが殺されてだが、仲間が被害を受けた事をどの様に伝えるのか、仲間の遺体を綺麗に運びさることは台所で観察済み。6月には食卓の上にまで進出したが、ちゃんとルートがあって、その道を群れになって行ったり来たり。
 台所に、今年初めて侵入した日時は記憶していないが、姿を消した日時は大体覚えている。7月に入って間もなく蟻の姿を全く見なくなった。6月と台所の状況は変化していないのに。
 現在、ブルーベリー園では堆肥の下敷きになった所で卵を産み、一大軍団を成していることを草抜き作業中に確認している。しかしこれは種類が違う蟻だと思う。
 とにかく台所に侵入した蟻軍団、7月に入ってぴたりと姿を消した。冬を越すための食料が確保したからか、それとも台所での食糧確保が有利でないと行き先を変えたのか、そこのところは分からない。
 蟻軍団の突然に近い消え方、何か特別な理由があるのだろうか。



07年7月20日記
 水の話
 最近、中国の黄土高原地方の記録映像を観た。途中からだったが水は深い井戸から汲み上げていた。日本から緑化運動でこの地方に住いを決めて働いている人の話も、ラジオで聴いていたので、改めて黄土高原をネットで調べてみた。
 山西省大同市を検索すると、地下水位が段々下がっていて、盆地の周りに当たる地域では数年で水がかれるだろうと言うようなことを書いている。
 ヤオトンと呼ばれる崖に造った住居の映像が映っていた。水のことが直ぐ気に懸かるが、どれくらい水で苦労しているかは分からないで終わった。
 大同市の検索記事で、地方の農村部では1日一人で水使用料は4.3リットル。一般的に1日一人が最小必要なのは3リットル、と。ですからかなり厳しいと指摘しています。
 大都市・北京もこの大同市の水系に位置し、ラジオ番組ではオリンピック後の水問題を大変と報じていた。
 最近知ったことで、水洗便所の大の使用水量を6リットルにするメーカーの話。ちなみに我が家の水洗便器は11リットルタンクです。大同市の農村部の一人1日の使用水の2倍余を一度の水洗で流していることに。
 日本列島は水に恵まれている。その上食糧の輸入で水換算すると計り知れない水消費国だという。
 一昨年、井戸のトラブルから水には考えさせられる事ばかり。新潟の地震で水に不自由、四国の早明浦ダムの渇水でも不自由。蛇口から水が出なくなって考え込む。これでは遅すぎるのですが。



07年7月13日記
 平和の家、12日竣工
 4年前の03年12月、矢臼別平和公園クラブを発足させ、「平和の家」の改修工事を始めて3年半、1階が7月4日に工事を終え、2階の断熱工事も7月12日に完了しました。
 全工程、99%は川瀬さんが一人で、言うところの時速4kmのペースで改修工事をされました。
 1%に満たない部分は、1階の基礎工事、風呂と便所のコンクリート工事に私がヘルプしたことと、ストーブの煙突穴をコンクリート壁に開けた仕事。それに風呂のタイル張りだけが外注。
 この間、大きなピンチに陥ったことがありました。1昨年秋、目眩病の発症でした。これが昨春まで川瀬さんを悩ませ、大幅にペースが乱れました。無理をしないで治療に専念され、その後体調に合わせて時速4kmのペースを守って竣工を迎えることとなりました。
 第43回目の矢臼別平和盆踊りが1カ月後に迫っています。盆踊りに参加される方はこの「平和の家」を特とご覧になって下さい。
 休む間もなく盆踊り広場で東屋の工事を再開された川瀬さん、無理な計画は立てないで「今秋には出来るかな?」 と屋根材の刻み作業を始めています。
 矢臼別平和公園の建設も「時速4km」に習って無理をしないで着実に展開したい、事務局もつい、そんな気持ちになります。
 盆踊り大会に参加されましたら、「平和の家」を一度見て帰って下さい。川瀬さんの平和公園に対する心意気が分かって頂けると。



07年7月6日記
 マッチ箱の大きさの爆弾が
 62年前に聞いた記憶で、敗戦前の話だった。もうマッチ箱といっても直ぐに大きさが分からない人が多いかもしれない。2x4x6cmのマッチ箱、この大きさの爆弾がとてつもない破壊力を持っているという話を聞いた。それが初めて聞いた原子爆弾の話でした。
 6月30日、千葉県の講演で久間防衛大臣が長崎への原爆投下を「しょうがない」と発言して今問題になっている。で7月3日午後、防衛大臣を辞任した。残るは安倍首相の任命責任です。メディアが伝えるところによると、安倍首相の対応が鈍い、と。
 原爆の投下には色々と語られてきた。使うべきでなかった、が被爆国の言い分だと思う。それを「しょうがない」では政府要人とは言えない。そうした人を大臣に指名した総理大臣の責任も又大きい。そして又庇おうとしていた安倍ボン首相。
 メディアは「靖国」派とか、「日本会議」とかの表現はしないけれど、18人中15人までが「日本会議」に組織された人脈で構成されている現内閣で。そして後任も関係者です。
 「1つの爆弾10の人生」という本の最後にエレン・ウィーバー氏が出ている。この人の言葉を、『今のアメリカの指導者たちは、核兵器がどれだけ強力か忘れてしまったか、おそらく理解できないか関心もない人たちですからね。1945年以来、核兵器が兵器として使われることはなかったけれど、今の大統領と彼の顧問は自分たちが良く思わない、いわゆるならず者国家っていうのに「小型」核兵器を使うことをぺらぺらとしゃべるような人間ですからね。本当に心配だし、自分の政府の方がテロリストよりずっと怖いわよ。だから政府の職にはもっと知的でずっと正気な人間が就くようにできるだけのことはしています。』
 ブッシュを批判する言葉です。そして安倍内閣にもそっくり当てはまります。そう思いません?
 註 エレン・ウィーバー氏はアメリカの女性科学者です。



07年6月29日記
 25ガロンの車燃料は人間一人分の・・
 「農民」という新聞の’07年6月25日号の記事で読んだ話を。アメリカ・アースポリシー研究所のレスター・ブラウン氏が5月23日都内で行った講演での要旨を伝えています。
 25ガロンではピンと来ないので、リッターに換算しますと約95リッターです。自家用車で2回の満タンク給油の量でしょうか。今盛んに言われているバイオガソリン、25ガロンは人間の1年分の穀物を原料として生産されるという話です。車社会は如何ほどの食料を車に食べさているか、これは良く分かる話です。
 別海町は酪農の先進地域です。バイオガソリンの生産のためにアメリカのトウモロコシは値上がりしていて、酪農家の餌代金の高騰で経営に大きな影を投げかけています。
 我が川瀬西牧場でも、ポニー11頭、鶏(チャボとウコッケイ)6羽がいて配合飼料を本のチョッピリですが与えています。昨年から急に値上がりしてきました。
 どうやらバイオガソリンの生産にアメリカ産のトウモロコシが使われだしたことが大きな理由でしょう。
 レスター・ブラウン氏の講演は食料(トーモロコシ)を車に食べさせることは一時的に停止しすべきだと呼びかけています。車社会と人間の食料をどのように解決するか、今その岐路に立っていると警告しています。
 お隣さん(演習場)の事をこっぴどく批判したいけれど、先ずは自分の暮らしから。
 この記事を読んで私に出来ることは、矢臼別で暮らすと車は必要ですが、使う回数を極力減らす、その他にも省エネルギーの考えは生活の場に活用しなくてはなりません。
  


07年6月22日記
 書憲のすすめ
 先週土曜日、奥州市から届いたユウパックに入っていた本、それが「書憲のすすめ」です。畑田重夫先生の本です。私は直接教わった訳ではないのですが、エーコさんの勤通大の先生。そんな関係で畑田重夫先生の本が時々届きます。そのおこぼれが。
 読みましょう、学習しましょう、語り合いましょう、愛しましょう、活かしましょう、つまり「読憲」『学憲」「語憲」「愛憲」「活憲」そして最後が護りぬきましょうで「護憲」でした。
 そして最新に安倍内閣が発足直後、思いついたのが、憲法を書きましょうが「書憲」の始まりといいます。
 未だ書き始めては居ませんが、これは肯けることです。自筆は極まれに。で97%はPCのキーボードを打つことで文字に。でも頭を使うことでは自筆並みに脳を酷使します。下手な作文といえども、それなりに。だから自筆で書き始めると、一層効果が上がること請け合いです。
 そろそろ始めますが、友人にもと思い10冊ほど注文しました。
 金を残す人生は下 仕事を残す人生は中 人を残す人生こそ上 という言葉が本の中に出てきます。出所は後藤新平の言葉か。その他にも名句が沢山出ています。
 早速第25条は「親方日の丸」の件で使いましたが、憲法に書かれていることを堂々と踏みにじる現政権。年金問題、改憲問題、一つ覚えの「美しい国・・」を唱えて何を成す、と抗議したい。
 今、矢臼別にとっては人を残すことこそが大きな課題。
 「書憲のすすめ」を手に入れ、改めて人を残す生き方に専念しなくては、と思う。



07年6月15日記
 移転記念日
 6月10日は午後1時頃だったか、矢臼別の川瀬西牧場に着いた日なのです。平成元年の6月でしたから矢臼別の住人を始めてから丸18年が経ちました。
 大した引越し荷物もなく小さな引越し便に家財を頼んで、取り敢えずの所帯道具を自分の車に積み、夫婦二人の矢臼別到着だった。自宅の外回りは出来上がっていたが、内装作業が一部残っていて、2階の一間を掃除して寝具を運んだことを思い出す。
 何よりも先にした仕事は車を停めた周りに馬除けの柵を作ることでした。新築の電気配線をした社長の車が馬にかじられた話を川瀬さんに聞いたので。当時川瀬さんの馬は18頭あって、川瀬牧場を本拠として演習場内に放牧していたのです。
 今でも矢臼別に着いた日の、空が爽やかに晴れ、南西風に吹かれて水楢の新芽が揺れる風景を思い出す。そしてここ2、3日の日和はその頃と同様の南西風が吹いている。
 少しずつ矢臼別・川瀬牧場の風景も変わり、生活実態も変わったけれど、お隣さんが演習場である関係に変わりはない。
 いや変わらないどころか、お隣さんは益々元気に、こちとらは年を重ねて高齢域に突入。如何にして後継者を迎えるかが川瀬牧場の大きな課題となっています。時間は待ってはくれない、後継者を早く迎えなくては。川瀬さんも今一番に思っていることなのです。
 19回目の転居記念を契機に、これから先の矢臼別の暮らし、しっかりと見つめてみたい。
 若い人が矢臼別に住む、闘いの展望をそこに見つけたい。



07年6月8日記
 藻琴山、そして次は
 6月5日藻琴山に登る。矢臼別に来てから3度目の登山。もう10年も前になろうか、摩周湖の側にある西別岳に二度ほど登ったことがある。平地で歩くのとは違って、高い所に自分の身体を移動させるのは骨が折れる仕事です。
 山登りにはエベレスト級から5、600m級まで色々です。つい最近71歳の方がエベレストの登頂をされたばかり。もう一度、と訊ねられて「もうこれでたくさん・・」と話されたのをテレビで。
 自分の体力を測る意味で山に登ってみたいと友人に話していたら、藻琴山行きをに誘ってくれた。初級のもう一つ初級です。6月5日8時から登り始めて、頂上に着いたのは9時15分。
少し詳しく言いますと、登り始めは標高725mの小清水町の駐車場。7合目までは車で、残り3合を自力で登る、山なのです。
 友人は10kgのリュックを私は2kgのリュックです。
 歩き始めて15分間がきつくて、後は楽々と聞いていた。その通りで15分間は友人と話すことも出来ずに黙々、と。比べようもない苦しさでしょうが、エベレストに登った人のことを思いつつの15分間でした。
 10分ほど頂上に居たか。屈斜路湖から吹き上げてくる風が強くて霧が吹き上がる頂上付近。オホーツク方面は比較的に晴れてはいるが眺望は今一。でも頂上に立った気分は最高。記念撮影の後は下りに、吹き上げる風を避けて握り飯の軽食を。その後約1時間で、無事に725mの駐車場に。私の膝はこの駐車場の5分前が疲労のピークで、がくがくという感じでした。
 たった3度の登山です。前二度の登山で思ったのは下山の最後が要注意と。まあ無事に下山、めでたしめでたし。ランクを上げるには、西別岳を二度ほど登って、すると雌阿寒岳に登れるという友人の話。これは矢臼別からも見える綺麗な姿をした山。どうしようかなあ。



07年6月1日記
 「昭和史」後編を読む
 読みやすく書かれた本で戦後の昭和を読み終えた。あんなことがあった、こんなこともあった、と読んでいくと、いつの間にか読み終える。すらすら読める本でした。1960年の岸内閣の安保条約改正の件を読んでいるとその孫が今将に憲法書き換えをしようと企んで、なんとも不思議な気持ちになります。
 読後感を一言でいうと、安保は諸悪の根源と思っているこちとらにとって、書いて欲しいことを書いてくれない、そんな気持ちになります。そして天皇はついに国民に頭を下げて謝る事をしなかったが、そのことを咎め様ともしていない。
 如何に教育がその国を歪めるか、国民の考え方を歪めるかを知っていた筈の著者は岸内閣でやろうとした勤務評定や警察職務法の闘争についても的確に批判をしていない。
 読み物として、すらすら読めることと的確に論評することとは別であって、その辺は物足りないどころか不満。
 拠ってたつ所が何なのかで、昭和史も色々だと思う。私は戦前の教育勅語は「ちんおもうに、わがこうそこうそう、くにをはじむることこうえんに・・・」くらいしか覚えていません。が、著者はこれもお気に入りのようで、これも180度方向が違います。これでは本の内容に納得できないのは当然の成り行き。
 天皇のために、と繋がる道徳を認めるわけにはいかないからです。国民小学校2年生で、内容を理解できない年でした。が全ては天皇のために、と教えられた道徳教育だった筈です。
 後一つ気になったのはトンキン湾事件がアメリカの謀略だったことを認めない書き方には驚きます。
 ただ最後の締めくくりで、軍事力ではなくて平和を目指す国であれと結んでいる点はせめてもの救いです。



07年5月25日
 酪農交流会
 別海町は酪農の町、その酪農家の交流会に20日、久しぶりの参加。今酪農がどのような問題を抱えているかが良く分かりました。
 新聞やテレビで入手する情報でなく直に聞く酪農情報はために成りました。噂には聞いていましたが2、3のフレッシュな情報をお知らせしましょう。
 酪農交流会に参加してくるのは、札幌から大学の先生だったり学生だったり、釧根地方の農業の役人だったりと色んな層からの参加者で100人ほどでした。勿論北は稚内方面から、南は帯広からの酪農家が参加しています。
 年間の生乳の生産高が250トンの人から1000トン以上の酪農家が混在するのが今の別海町です。それで居て収入がどちらが上なのか分からない。これが酪農業の難しいところらしい。
 放牧を主体にした家族的な酪農なのか、牛乳生産工場のような農業労働者を雇用しての酪農なのか、別海町では大きく揺れ動こうとしているのです。
 本年冬、オーストラリアの畜産農家を視察した酪農家の話も聞けました。親娘3人で800町歩の土地で羊飼いをしている話ですが、今冬は旱魃が続いていて継続が大変な話なども聞きました。別海町の酪農家の草地面積は50町歩から100町歩では、で規模の点では太刀打ちの出来ない両国の畜産レベルではと思います。
 私は演習場から流れ出る川は綺麗な川で、草地から流れ出る川は農業汚染されていること、別海町で実施されている灌漑排水事業は無駄な事業では、と発言をしました。
 環境問題が酪農を続ける上でも大きな課題になっていることを実感する交流会でした。



07年5月18日記
 LANシステム(高速無線通信)のテスト
 5月16日は別海町の企画事業で行う無線を使ったインターネットサービス、電波の受信テストを川瀬西牧場で行う予定日。このシステムを利用してインターネットを24時間利用したい、期待するところ大です。
 現在の電話線に拠るでは接続が不安定で何時中断するか分からない、そのような状況が年中続いているのです。
 テスト担当者が東牧場から、今からそちらに向かいますと電話があったのは12時15分頃。1時間経ってもこないので自分のトラックで東に向かう。案の定、平和池の上、坂道の曲がり角で、タイヤが路面にめり込んで立ち往生。電話や電力線を空中で修理するために人を乗せて修理台を支える4トントラックです。
 何度か立て直して、こちとらの自家用車の牽引も加わって西牧場に届いたのは連絡があってから1時間半後のこと。5分で届く筈だったのに。
 電波の受信テストは地上10mほどでする、が結果は受信不良です。周りの樹木が電波の受信を妨害しているという。
 この受信テスト、良い結果なれば、LANシステムを少し出費が嵩んでもと期待したのですが、がっかり。
 町の担当者の言うには、東牧場を経由しての方法もあるので、と話して帰途についた。家の周りには矢臼別原野の楢の木が立ち並んで、昔の別海町の風情を残しているのです。これが電波の到来を遮断している。でもこの木のお陰で冬の強風から住宅が守られている。喜ぶべきか。
 どのような方策があるのか、西牧場はインターネットでも不便な土地柄です。



07年5月11日記
 昭和天皇の責任
 「昭和史」という本の前編を読み終えた。半藤一利氏による「昭和史1926−1945」です。分かりやすく書かれていて、読みやすい。
 半藤一利氏は1930年生まれの方で第2次世界大戦が敗戦した時は15歳です。だからもう大人と同じ思考力を持っておられたと考えます。
 1945年から1989年の戦後編はこれから読みます。それで先ずは前編を読み終えて感じたことを一言。
 昭和元年から書き始めているのですが、主権者であった天皇が何の責任も追及されていない文脈です。
 天皇が真の平和主義者であったなら必ず追求する筈の大事件が何の咎めもなしに書き進められています。
 私は敗戦時、7歳でしたから著者の様には大人に近い思考力はありませんでした。しかし学校に朝行くと二宮金次郎の像に敬礼し、次は奉安殿に最敬礼して自分の教室に向かいました。そんなことを思い出します。天皇陛下さまさまでした。
 軍隊の話を聞くときは天皇の赤子である兵は天皇から賜った兵器を傷つけたりすると大変だったと聞くし、上官の命は天皇の命で以て全てがそれで統率されたと聞いています。
 大日本帝国憲法(明治憲法)がどれほど強力な天皇制を国民に強いたか、昭和20年8月15日敗戦迄の歴史を拘束したか。それを考えると、その主権者たる天皇がことごとく善人に描かれていて、あれれれ、と思います。
 統帥権を持っている天皇が宣戦を布告していながら、その責任は輔弼した大臣の責任であり、天皇の責任を追及しない。
 戦後、30年も経って毎日新聞の記者が責任問題で天皇に質問したら、言葉の「あや」云々で責任をぼかした天皇発言をどのように書かれるか、後編が楽しみです。



07年5月4日記
 車が入る
 4月30日夕刻、川瀬宅からの帰り道、東の車庫から車で帰宅する。今年は1週間くらい東と西牧場を結ぶ土道が開けるのが遅れた。5月からは家から何処へ行くにも車を使うことに。
 今や日本は車社会に成った。もう40年も前の話に、いや50年も前か、アメリカ航路の船乗りから聞いた話。アメリカでは一家族で2台の車を持っていると。未だ日本は当時1台を持つのだって珍しい時だった。私も40年前にそのことを知るのだが、仕事場に通う車とドライブ専用の車を持っていることを知った。
 現在私の周りに、というと酪農家のことなのだが、大人一人が1台の車を所有している。日本も、そのような車社会になってしまった。
 そして例に洩れずこちとらも一人で1台を使っている。本当は1週1回の外出で好いのに、時には2回も外出する。
 55年前、川瀬さんが矢臼別に入植した当時は町に買い物をするに1日がかりだったと聞く。最も近い旧市街まで14kmの道を歩いて行ったり来たりだと朝出て夕方帰る、当然の成り行きです。このペースを時速4kmの人生と言ったのでしょう。
 今世界は地球の温暖化をどうするか、人間社会は大問題に突き当たっています。私も車を使うことに抵抗を感じる日々が道開けと共に始まります。
 車を極力使わない生活で、時々通販の利用を考えます。既に川瀬さんは通販利用のキング。自転車を使うことも考えますが、そう若くもない年です。道開けと共に、日常生活のあり方を考えさせられます。
 考えなくてはいけない事ばかり。



07年4月27日記
 戦いすんで日が暮れて
 4年に一度のお祭りが4月21日夜8時、終わった。自分に出来ることはやり尽くした。晴れやかな気持ちで選挙事務所を出て矢臼別に帰る。
 東牧場の車庫からは炭鉱夫が頭につけるようなヘッドライトを帽子の上に付けて、夜道を25分徒歩で。泥んこ道を歩くのは大変だった。
 21日の選挙活動、候補者カーが夜8時に終わるだけで、まだまだ選挙戦は続く。言い古されている言葉、投票箱が閉じられるまで、というと未だ23時間も残っている。
 22日は選挙事務所に一寸顔を見せただけで、詰めの詰はしなかった。しかし友人たちはそれをちゃんとしてくれた。
 後は結果を見るだけです。23日02時ころ、別海町のHPを観たら、自分の通っていた選挙事務所の候補が見事当選を果たしていた。当選は予想していたが、どれくらいの得票でか? それが気になった。
 自分達の予想を超える得票であった。これで4年間、町議会で発言権を得た。
 我が候補が議会で追求した負債問題が40年振りに争そわれた町長選挙での争点にもなった。この負債問題、有権者は町長を選ぶ上で参考にしたのでは、と思う。よりましな町長を選ぶ点で、負債問題を候補がどう考えているか? は大きな争点だったと思う。
 別海町の未来を考える上で330億円の負債を当然のように考えるような人は選ばれなかった。そんなこんなで4年間隔のお祭りは終わった。
 少し気が緩むが、又新たな選挙活動が始まる。次は参議院選挙。
 時速4kmが疲れなくて、良いペースなのかな。



07年4月20日記
 カエデ出産
 4月初旬に生まれると読んでいたカエデの出産、10日の読み違いをした。もう毎年のことで、出産を何時か何時かと気を揉むようなことはない。ただ10日も遅れると少しは気になる。3月の5日にカンバ号を亡くして落ち込んだが11日にはカシワが出産、その時点で次はカエデの出産、4月初旬と読んでいた。
 19日朝5時30分屋外に出たら家の周りに8頭が集合したばかり。そして北の出入り口から殿のカエデがコッコを連れてこちらに来るではないか。生まれる直前の腹がそれ程大きくないので小さいコッコを想像していた。しかし思っていたよりも背が高い。
 腹の小さかったのはコッコが痩せていたからか。背は高い。近くに行こうとしても直ぐに離れるように動いて10mにも近づけない。コッコは雌ではないかと思う。名前はサツキと決める。
 選挙が終わったら、畑作の準備、馬の捕獲、コッコ馬の馴致作業と課題は山積です。特にカエデのコッコを捕まえるのが厄介だ。
 出産の3頭目はサビタだ。これは5月の初旬と診ている。5月に生まれると何かと安心。3月に生まれたヤヨイは雪の中。それにみぞれが降る中で震えているのですから、気を揉みます。
 それに比べると5月は暖かい、それに青草も芽を出す。条件が良いのです。
 カンバの不幸の後は上手く行きますように。



07年4月13日記
 長靴なしでは
 4月も残りが2週間と少し。川瀬牧場の道が最も悪くなる季節。長靴を履かないで東の車庫には行けない。車内に外出用の靴を置いておけば良いのに、それをしたことがない。だから何処に行くにも長靴スタイル。東の車庫前に着いた時は田圃から畦に上がったときの長靴姿。長靴は泥で膨れ上がっている。
 車庫までの1.5km、半分は雪も消えて田圃のような路面が顔を出す。この路面にうかうか足を乗せると大変。下手にすると脛まではまり込む。それで専ら自動車の土道は避けて笹の上を歩く。
 今、4年に一度の統一地方選挙の真っ最中、で4月22日が町議会議員の投票日。残りは少なく毎日顔を出さなくてはいけない情勢に。
 ものは考え様、やりたくても10日もしたら出来なくなる選挙活動、頑張るしかない。
 別海町では雨雪が降らない限り、農業関係者以外は長靴には縁がない。まあ水を使う職場では長靴は必需品ですが。でも矢臼別では年中、長靴なしでは生活は出来ない。特に今の季節。
 今日は13日、長靴を履いて街に出かけます。



07年4月6日記
 温泉を掘ろう会
 4月5日のしんぶん赤旗の北海道のページに「温泉を掘ろう会」4月中の発足へ、の記事が掲載されました。
 この話、事務局を立ち上げる話は4月2日に川瀬さんから直に聞いていました。「温泉を掘ろう会」が動き出したのは昨年の盆踊りの本日のこと。こちとらは7月、8月と矢臼別を留守にしていました。だから動き出した時のことは後で聞くことに。その後も時々、事務局をどのように立ち上げるかを、川瀬さんから聞くこと度々。
 赤旗日曜版に事務局員の公募等もありました。そしてジグザグの経過を経て今回の「温泉を掘ろう会」発足への記事、いよいよ事務局態勢にも目途が立った、ということでしょう。おめでとうございます。
 私は矢臼別平和公園クラブの事務局を担当しています。川瀬牧場に温泉を掘る。温泉を出そうと言う話は大歓迎です。温泉が湧き出たら、平和公園の行き先はばら色です。
 今日の話はこれでお仕舞いにします。話が進むと、このページに。



07年3月30日記
 文化果てる地の如く
 時々、矢臼別の川瀬牧場に住んでいると言うと、まだ住んでるのとか、あんな不便なところにとか、とよく言われる。まるで文化果てるが如き地のように。
 確かに冬から春の5カ月間,車庫と自宅は1.5kmを歩かないと車は使えない。で少しは不便になるけれど、電話もあるしインターネットも利用できるし新聞も年間を通じて、日曜祭日を除いて午前11時には配達される。その上テレビもラジオも自由に聞ける。とにかく陸続きが好い。
 私が少し物足りないのは大画面の映画を観れない事と、観劇と演奏会に出向く機会のないこと。でも時々テレビで芝居や演奏会を小さな画面で見ているので、まったく文化果てる地に生活しているなど思ったことはない。
 あと4年もしたら大画面のデジタルテレビでも買い求めて、一人だけの矢臼別シアターを開設してやろうと目論んだりしている。
 今地方選挙が始まっていて選挙事務所に出かけるには約1時間は掛かる。東牧場からだと30分で行けるのに、1.5km歩くことが倍の所要時間になってしまう。ただそれだけの負担が掛かるだけで、なんら問題はない。東京で片道何時間も掛けて通勤する人に比べたらラクチン、ラクチンです。
 だのに、ここに住んでいると一寸変わった人に思われる。何てこともないのに。
 4月も射撃音が一切ない矢臼別原野。文化も満喫、自然も満喫素晴らしい所です。



07年3月23日記
 ファーストとスローフード
 未だマクドナルドの店で買い物をしたことはない。でも時々は外飯をする。スローフードの運動は世界を席巻する米国の食品会社がイタリアに進出した時から始まったと言う。
 他でもありません、我が家では矢臼別で生産された人参、ジャガイモ、を自宅の室に保存し、今も食しています。作り始めて食べるまでは時間がかかる。と言ってもインスタントラーメンと比べての話です。でもまあ地産地消のスローフード系でしょうか。
 スローフードの考え方は手作りか工場生産かにありそうです。
 自分でだしを取り、自分の町、村で取れたものを時間をかけて作る人はスローフードの親玉でしょう。でその食にありつける人はスローフード族でしょうか。
 我が家のだしは鰹節と昆布と煮干の3種を適量に混合してだし汁を作る。そして味噌汁、煮物、麺類のスープにと使用する。生まれは漁師の家で、魚のだしで大きくなったようなもの。しかし鰹節、昆布、煮干は長い船乗り生活と故郷を後にしてからの食生活に影響されるところが大きい。
 インスタントの味付けをあまり好まない。とは言え即席ラーメンは40年来の食歴を重ねているし、味噌、醤油等々出来上がりの物によって食生活をするる現在、スローフード系とは言い難い。
 だが、最近食事作りに時間をかけると、美味しいものを作れると人生の晩期に分かってきた。遅すぎだが。
 今の日本、金さえあれば何でも買えると思ってか、食糧自給など考えない。全てを金や時間で換算して、安いほう、手っ取り早い方に流れ勝ち。
 スローフードの運動は米国流への警鐘。米国一辺倒の世の中だけに、こちとらスローフードに組したい。
 これからますます矢臼別産を食べなくちゃ。



07年3月16日記
 二大政党制
 辞書を引くと二つの政党が交互に政権を担う政党政治。英国や米国が代表的と。日本でもそうならないかと、メディアは盛んに宣伝する。そして現日本では自民党と民主党が当たるらしい。
 しかし自民党と民主党とは前者が親で後者が子供の関係でそっくりです。これでは政権交代しても、何も変わらない。変わるのは顔だけで脳味噌は同じ。だから政治に変化は望めない。
 共産党や民社党は予算委員会やその他で頑張っているが質問時間が僅かで、ほんのチョッピリ鍼を刺す程度。で、政府の弱点を暴き切るところまでは時間がない。
 憲法を守る事では二大政党制になっても何の効果もない。昨年までは自民、公明、民主は改憲で一致。改憲反対は共産、民社の二政党だけ。
 民主主義というと何でも正しいと思っては大きな間違い。今の米国のブッシュ政権、英国のブレア政権。国民の4分の一の支持で政権に就き、主権在民で選ばれたとはいえ、これが民主主義の政府なら、安心できる政治とは一寸、否大いに不安です。
 選挙制度に問題が存在するように思う。米国では大統領を選ぶ政党選挙で代議員の独占があり、イギリスは小選挙区制に問題がある。過半数を制したら他の声を抹殺する。
 民主主義を騙って、時の政権党が数に任せて好き勝手に、自分に有利な選挙制度を決議して長期政権を狙うからだ。
 現在の自民政権だって、郵政是か非かだけで選挙をして、その議席を糧に何でも仕様としているのが現政府の政治手法です。時の与党は有権者を騙すのが上手だといったら現政権を選んだ有権者に失礼だろうか。
 東京都知事選では二大政党は影を潜めている。どれだけ笛を吹いても日本にはそのような政治状況がない証拠。で唐突ですが確かな野党は共産党しかいないように思う。



07年3月9日記
 地下水の変化
 昨年は冬が始まって来2月末日まで減じていた井戸の水深、3月1日に水深33cmで増加に転じた。給水ポンプの吸い口まで18cmだったのでハラハラしたものです。今年はその日から1週間も過ぎたのになかなか増水に転じてくれない。3月9日朝の水深は58cmで今冬の最小水深に。
 吸水口まで43cmを残している現在、水枯れの心配はしない。
 昨年の水深値を見ていると、増水と言っても増えたり減ったりを繰り返し、3週間ほど渇水時の水位を保って、4月に入ってようやく10cmほどの増水。
 3月を境に減水が止ると言うことは地表からの雪解け水が地下浸透を始める証拠で、今春も少しのずれはあっても、その内地表から浸透を始めると思う。
 懸案の水質検査の結果が5日届いた。1昨年の7月と略同じ結果が出て、無菌でPH値7.0、で飲料水としては問題なしです。
 この先長い時間で考えた場合、決して安心のできる現在の井戸の水量ではない。年間降水量が500mm等と言う時は後1m井戸を掘り下げないと水は枯れると推測します。
 それだけに西牧場の水を考えると、もう一度掘り下げをやらなくてはならない、そう考えます。
 30年間の降水量の数値を見ていると年間降水量が500mmに近い年がある。これに備えておくと、ここに移住してくる人にとって水の不安は解消する。これも大きな課題です。



07年3月2日記
 23日夜6時から24日朝8時30分
 このHPの更新日は毎金曜日で、アップしようとして電話の不通が分かった。23日夜6時過ぎでした。そして翌朝、隣の川瀬さん宅に電話を借りに出かけようとした08時30分、電話の呼び鈴がなりました。
 川瀬西牧場は別海町でも最も遅く電力が供給された農家で1975年12月30日でした。総工費580万円川瀬さんの自己負担70万円とパンフ、「矢臼別」にあります。そして川瀬さん宅に電話がついたのは1979年とあります。私の移住する10年前のことです。
 西牧場の電話線は1990年、移住してから1年後のことでした。川瀬牧場は特別地域と呼ばれれ、街中なら1万2000円でつく筈の電話が約30万円ほどかかった。
 それだけ高い電話線が雑音は混じる、FAXは交信エラーで中断する、インターネットもプツンと切れるで困ることが多い。
 3月24日、修理の方が来てくれたが、何故電話回線が不通になったか理由は分からないと。それで雑音除けのフィルターを付けて修理は終わり。
 矢臼別に転居した当時は電話は要らないと思っていたので、アマ無線の免許をとって、車と自宅に送受信機を付けていた。しかし電話を勧めてくれる人が多く、1年後につけることに。
 今回の電話線の不通事故で思ったことは、一人でいて何かが起こった時、救援を求めるにも時間がかかり過ぎる事。郵便屋さんは日曜、祭日を除いて毎日11時頃までには新聞を配達してくれる。この配達員を待つか、自ら徒歩で隣家の川瀬宅に出向いて電話を借りるか、そこも電話不通なら、車で街に出て行くしかない。これは元気な時の対応です。で自分が動けない状態になったら、お手上げです。
 それで結論、携帯電話を手にしようか、なのです。
 軽薄なれど切れ者。高齢者には少し荷の重い道具ですが。



07年2月23日記
 水事情その後
 2005年の春先に50万円かけて掘ったボーリング井戸が10年を経て使い物にならなくなり。その年の夏に手掘りの井戸を20万円余で掘り、渇水期の6年の冬を過して掘り込みが少し浅かったことに気付く。そして二年目の渇水期、7年冬を過しています。
 昨年の2月17日は水深41cm。今年は71cmですから30cm水位は高い。但し日変化量は昨年とは異なる。去年はー0.4cm/日が今年はー0.8cm/日と倍の速さである。
 昨年、井戸の水深が増えたのは3月1日ですから、それまでの日数は10日余、今年は吸水ポンプが空気を吸う事は無さそう。
 昨年の年間降水量は一昨年に比べて430mm多くて、現在における井戸の水深差が降水量の差に近い数値を示しているように思う。細かい分析は横において、今冬も水に不自由なく生活は続けらそう。
 馬達に水を与えることはボーリング井戸が駄目になって以来していない。馬は雪を食べて水の補給をしている。11日、15日の雪が降るまでは硬くなった雪をガリガリ食べる感じで食べやすい雪が降ってくれたら、と思っていた。
 今参考にしている年間の降水量は川瀬牧場から東方に35km離れた別海町市街での観測値です。矢臼別の生の降水量とは言えないけれど、’05年の876mmという降水量を下まる時は井戸の水枯れを心配しなくてはいけない。
 念のため30年前まで遡って年間降水量を調べると、1976年396mm、1977年632mm、その後800mm代が4年、と900mm代が4年で30年の間で1000mmを割った年が10回もあったことが分かった。
 2、3年は井戸の水深を計測して、掘り下げの計画をしなくては。
 まあ今冬、問題はないけれど。



07年2月16日記
 建国記念日とは
 神武天皇が即位したのが西暦紀元前、2660年だと言う。私の歴史知識では、紀元前には未だ日本には国など無かった筈。邪馬台国は確か3世紀の半ば、中国の文献に出てくるのが国の始まりだと。
 まあ列島には何万年も昔から人は住んでいたでしょうが。
 グーグルで検索すると、日本書紀から神武天皇が即位したのが紀元前2660年2月11日と。それで天皇制を統治の大本にするためには「建国記念日」が必要なことだったのでしょう。今から134年前(1873年)に祝祭日に定めたとある。
 第2次世界大戦敗戦後の、新しい日本国憲法にも「建国の日」として書き込まれていたが、連合国司令部が削除したとある。その後1967年2月11日から「建国記念の日」として再制定され、現在に至る、です。
 何故にこれほど天皇制を日本国は取り立てようとするのだろうか。それに天皇家のこととなるとメデイアも批判めいたこと、何一つ言えなくなる。
 連合国軍最高司令官だったマッカーサー元帥は日本を占領統治する上で、天皇を利用することは100万の兵に値するとか。マッカーサーのみならず米国政府の意向がそうだったのでしょう。
 日本国民の多数は天皇家を敬う気持ちがつよいのでしょうか。明治憲法以来の朕を奉る政治が77年、そして戦後は日本国の象徴として62年、合わせて139年、天皇は憲法に書き込まれて生き続けています。民主主義の考え方からすると、おかしな存在と考えますがねぇ。世界の趨勢はエンペラーは消えてゆく運命とか。
 建国を言うなら、神話を元にしないで、納得の行く時を記念日に選びたい。おかしいかなぁ。



07年2月9日記
 民主主義とは
 小学の2年生まで明治憲法下で育ち、戦後の1947年から新しい日本国憲法で育った。そして俄然民主主義という言葉が、猫も杓子も口にするようになった戦後日本社会。隣に住んでいたおじさんは戦後間もなくこの言葉をよく口にした。
 それを言われると対抗するべき言葉がなかった。数年前の「テロに対する戦争」と同じだったかも知れない。
 現日本国政権も価値観を同じうする国だからといってインドは友好国と。しかし中国にはそのようなことは言わない。つまり資本主義の国でないと価値観を同じくする国とは言わない。その事を言い換えると、民主主義国だから、らしい。
 そこで問題、では民主主義国とは何ぞやである。国民が主権者で選挙で選ばれた議員の多数決で以て政府を作り、政治を執り行う。これでなくては民主主義国と認めない。これが現在における民主主義国らしい。
 日本政府が最も尊敬してやまない、アメリカ合衆国、民主主義国といわれているが、果たして尊敬に値する国だろうか。
 有権者の四分の一にしか選ばれなかったブッシュ大統領が思いのままに、現在イラクを侵略している。そして中間選挙後、国民はイラクから撤退しろといっているのも聞かずに侵略兵を増派する。これらを考えると米国の民主主義も手放しでは喜べない政治形態です。
 何処に問題があるか? せっかく手にしている天下の宝刀が、切るべき対象を見誤る。
 つまり時の政府に騙される事の多いのが、有権者のようです。
最近酷いのは安倍政権の厚生労働大臣の擁護。それに東京都知事の公私混同ではないでしょうか。ごまかされる有権者にも責任があります。民主主義のために、酷い人を選ばないようにしなくては。
 


07年2月2日記
 環境問題の学習会
 1月27日、「イトウを守る会」の学習会に参加。集まったのは32人。集会では4人の方が報告をされた。
 川村洋司氏(道立水産孵化場主任研究員)は平成15年からのトライベツ川の環境調査の結果を詳しく映像を観ながら、解りやすく説明してくれました。結論は砂防ダムは有効な物でない、でした。
 続いて野本和宏氏(北海道大学大学院生)がイトウの演習場域での生息状況を報告されました。今や道東では演習場から流れ出る川にしかイトウは生息しないという貴重な報告でした。
 3人目は安部政博氏(風蓮湖流入河川連絡協議会代表)の特別報告でした。環境を良くする為に草地に植林をすることなどを報告されました。これに関連して同会副代表の松原政勝氏が風連湖底にはシジミが採れていた低質上に37cmの泥が堆積して、それがシジミの生産を近年極端に激減させたと報告、そして最近僅かながらシジミの採取が始まったことも報告された。
 私は集会後半の質疑の中で、砂防ダムの不要なこと、37cmの堆積物は何なのかを訊き、この学習会の主催者が砂防ダムの建設継続を断念させるように、別海町や施設局に働きかけることをお願いしますと発言した。
 30年前には確かに演習場から土砂が流出する状況はあったらしい。しかし今はそのような現実はなく、イトウが棲息する現環境が魚の生息環境の良さを証明している。
 今や風蓮湖を汚染しているのは何が原因なのか、何がシジミの激減させたのか? 答えは出ている筈。
 演習場内で砂防ダムを造るために、人の一生よりも長く生きた雑木林を切り倒すダム建設工事。
 無駄なことに血税を使わせない。学習会に参加された町会議員さん、砂防ダム建設中止、頼みますよォ。
 


07年1月26日記
 目配せだけで罪になる!?
 「いつでも元気」はあなたと民医連をつなぐ月刊誌名。表題はその2月号の巻頭エッセイの見出しです。380円で購入できるが、このエッセイを読んで、380円がチャラになった、と思う。後のページは丸得です。共謀罪の悪法ぶりが良く分かったから。
 安倍内閣が今年の国会で成立を狙っている共謀罪が何なのかを説くエッセイなのです。
 昨年、成立を阻止できたと思っていたら、改めて成立を狙っている安倍内閣。国会では安倍内閣は絶対多数を握っている。時間をかけたからという論法で教育基本法改悪のように採決されたら、どんな悪法でも採決可能な国会構成です。
 これを阻止できるのは国民の反対の声だけです。「ホワイトカラー・エグゼンプション」という時間外手当てを除外する法案は国民の声で法案の国会提出を諦めさせた。またまた狙っているが。
 目配せだけで罪になる!? を国民の多数が目にしてくれたら間違いなく廃案に持ち込めると思う。どれだけ国会が自民・公明党に占拠されていても採決をさせない世論を作り出せる。
 残念ながらこの月刊誌、部数は大新聞のような部数ではない。
 部数の多いマスメディアが警察絶対法案(共謀罪)は悪法と宣伝してくれるとありがたいが、ちょいと頼りない。
 検索エンジン社、「グーグル」の検索でトップ5に入る、つまり悪法を宣伝してくれる?なら凄いこと。でもこれは夢に過ぎるよう。
 だから後はもう共謀罪は悪法を周りに広めるより手はない。 
 目配せだけで罪になる!?を書いたのは林克明(はやし・まさあき)氏です。



07年1月19日記
 降水量と井戸水のこと
 1月5日の水事情で、年間降水量と井戸の水深のことを書きました。正月も月半ば、昨年の別海町の年間降水量が分かりました。
 1306mmです。そして一昨年の降水量は876mmでした。
 一昨年12月30日の井戸の水深は62cm。昨年は115cmでした。その差は53cmのプラス。降水量の差は43cmのプラスです。想像したほど数値は一致しませんがこれは基準点に問題ありで、降水が多いと井戸の水位も高いは間違いのないところでしょう。
 1月13日午後1時半ころ震度3の地震が5分間ほど続いた。お客さんと二人で、これは震源が遠いのではなど、と話していたら千島列島の東沖合い。津波警報が出てこの日は日付が変わるまでテレビは津波情報を流し続けた。
 矢臼別は津波に対しては心配は要らないけど、地震には気を使う。井戸水がバケツ二、三杯でポンプが空気を吸うようになったのは1993年冬の釧路沖地震でした。川瀬さんが40年ほど前から使っていた井戸を使い始めて4年目でした。水が不足する原因は液状化現象で水の溜まり場が無くなったと解釈。それから10年はボーリング井戸を使い、これが使えなくなって一昨年自力で井戸を掘った。
 地震で家の倒壊も気になるが、釧路沖地震に家は耐えたので、どちらかというと井戸水が枯れないか? 水が気になる地震の発生。地震による地層の変化、地下水に影響しますから。
 井戸の水位は15日現在101.5cm。日変化−1cmとしても85日間、吸水ポンプは水を送ってくれる。4月25日までは大丈夫。
 その頃には天からの降水が地下を潤すでしょう。



07年1月12日記
 新聞が3日分重なると
 3連休で新聞配達が郵送によるため、3日分が火曜日に配達された。矢臼別では午前11時前後に郵便物が届く。冬場は特別に仕事もないので、時間はたっぷりです。でも、くまなく目を通すと結構時間がかかる。だから面白い記事が多いときは新聞を読むは一仕事です。
 最近はラジオを、それもNHKが主だが聞くことが多くなった。テレビや新聞から取り込む情報より楽だからかも。テレビは視覚と聴覚の連携、読書も紙面に集中しないと情報は入ってこない。それに比べてラジオはパソコンをしながら、炊事をしながらでも聴覚だけで楽に情報を入手できる。
 年を重ねると、若い時は沢山読んでいた人が、もう読書が大儀になったという話を。少しづつそうなっているのだろうか。
 これはNHKテレビのニュースで聞いたことです。ベネズェラのチャべス大統領が選挙で再選されたときのコメント、最後に「チャべス大統領は」独裁政治に向かうのだろうか、と。
 国民に選ばれ、善政をしているのを知っているので、NHKのコメントはおかしい。と思っていたら、そのことをNHKに抗議した人がいた。NHK曰く、担当の記者がそう報告したから、だと。
 NHKがそれほど現場を重視しているとも、記者のコメントを即全国の視聴者に生放送するとも思えないので、調子の良いことを、と思いました。
 注意しないと何を聞かされるか分からない。ということです。



07年1月5日記
 さて今年の水事情は
 一昨年は4月から7月まで井戸の水を使えなく、ずいぶん水には不自由して、それ以降井戸の水深には注意している。1週間前の12月30日の水深は115cm。1年前は62cmでした。今年は53cm水位が高い。水深100cmから30cm辺り、水位の日変化は約−0.5cmです。現水位からポンプの吸水口までは100cm、で200日は井戸水を吸い上げ可の計算。雨が6月半ばまで降らなくても井戸水は枯れない。昨年は3月に入ると地上からの雪解け水が届いたので、今年は気が楽です。
 新しい井戸で1年しか冬を越していませんから、予測どおりに行くか、即断は出来ませんが。
 何故今年は地下水位が50cmほど高いか、それは年間の降水量が多かったから、と思う。別海町の最近、10年間で1昨年の降水量876mmは最低。昨年は12月を含めないで、1238mm、その差は362mm、36cmです。ぴったり降水量の差と符合しませんが、水深の決め手は降水の量と考えて間違いないでしょう。
 井戸水で気になることをあと一つ。菜園の近くの井戸水を利用する人間にとって、菜園に殺鼠剤の使用は「天に唾をする」に等しい行為です。これからは殺鼠剤のお供えはやめよう。
 ここで暮らしていると、自らの行為がすぐ生活に跳ね返ってくる。農薬、化学肥料は一切使ってませんが、殺鼠剤使用で考えさせられました。生活用品として色んな物が出回っていますが、その使用は注意しないといけません。家の周りで使ったもの、流したものすべてが地下水にかえるのですから。
 前の井戸水検査は1年半も前、検査は必須事項、近々に検査をしよう。



06年12月29日記
 26日、27日は雨と雪の低気圧
 全国的に暖かい嵐が通り過ぎ、道東地方にも雨と雪を降らせて。矢臼別原野にどれだけの降水量があったのか分からないけど、平和池の水嵩で言うなら、それまでの氷面上、10cmほどに新たな水面が出来ていた。
 車は26日朝早く東牧場にシフトして置いたが、27日の積雪は精々10cmほど。問題はこの季節に降った雨がどのように今後影響するか。それが分からない。団結道路(東牧場と西牧場を結ぶ道路の呼称)歩いて分かったことは凍土の上が15cmほどシャーベット状で、車で走ると土面まで水雪を跳ね上げる。東牧場を30mほど走って西牧場への車乗り入れは断念。
 28日は昼間、外気温は氷点を挟んで推移した。町道のアスファルト舗装道は除雪され、夕方には路面は乾いて不安のない路面に。しかし矢臼別原野は土道、除雪もなく話は別です。
 今年の餅つき大会は徒歩で出かけて、徒歩で帰ることに。何の変哲もないことですが。
 最近、地球上で経験のない事象が次々と起こっている。竜巻が起こったり、異常乾燥が続いたり、極点の氷が溶けたり、元をただせば人間の仕業なのでしょうが。
 


06年12月22日記
 パソコン組み換え
 15日HPアップ以降ネット接続が出来ずに、持て余していたたノートPCが17日午前11時、友人宅で見事機能を回復、それに懸案だった組み換えパソコンも16日夜、既に組み立てが完成していた。30分ばかり雑談の後、2台のパソコンを車に乗せ、雪道を安全運転で矢臼別の自宅に帰る。12時ちょうど。
 昼食もしないで、12時から15時40分までかかって、9月1日の手馴れたパソコン操作の出来る状態に接続が出来た。プリンター2台もうまく機能するし、HPの編集も出来るようになった。50日間、友人宅の方々にどれほどお世話になったことか。有難うございました。
 今回の組み換え作業をする間に、色んなことを学習しました。なかなか直ぐには身に付きませんが、せっかく機能の高いパソコンに組んでくれたのですから、操作は学習して上手にならなくては、と思っています。
 本日は20日、相変わらずネットへの接続の不調が続くパソコンです。接続を解除しないのにいつの間にか切れている。これがここ数日続いています。何か原因があるのでしょうがねぇ。
 接続不調はあってもHPの編集も、金銭出納簿もどうにかこうにか操作が出来るとろまで。
 組み換えパソコン、機能は上々のようです。早く操作を覚えなくては、「猫に小判」のおそれありです。
 

06年12月15日記
 年を取りたくない
 色んなことで、ミスをして年配者が使う言葉だと思います。そういうことが日々多くなってきたこの頃。5カ月間、HPの更新をしなかったら、操作の仕方を忘れて、その上パソコンも機種が換わって上手く操作できず、失敗の連続。
 6年使ったウインドウズMEをXPシステムに替えるべく11月初旬からパーツを取り寄せ、機種組み換え作業を始めた。他力本願の試みです。現場は自宅から20kmほど離れた友人宅です。連日通うこと30日、ようやくパソコンが動き出し、と言っても組み換え中のパソコンではなく、ピンチヒッターのノートパソコンのこと。11月の下旬はノートパソコンを機能させることと重なって、てんやわんやでした。まあお陰で「矢臼別平和公園通信」は月遅れで秋号を発行しました。
 矢臼別の川瀬牧場は田舎の又田舎です。通信用語でアナログ回線とか言うようですが、川瀬さんと私の電話機は全国とその回線でつながっていて、駅前の中継点まで川瀬さんが約18.5km、私が約20kmあります。この立地条件がインターネットの接続に影響があるのでは? と考えたりもしています。ネットの接続が良くない。それにファックスも不調時が多い。
 12月に入って、現在も組み替えパソコンは調整中です。友人は仕事を終えると組み立てを繰り返し、調整に時間を費やしてくれます。そして訳の分からない私はそれを連日眺めるだけの日々。まあせめて操作だけでも知識を積み増そうと、慣れないノートパソコンを操作しています。
 でもフォルダやファイルをどのように整理するかをわきまえない我流操作をしてきたので、操作の度に、友人には笑われます。
 時は休んではくれません、刻々と進みます。めげずに、やるしかありませんねぇ。少し分かってきたことはパソコンの機能って凄い! ということです。</p>


その他のページへ戻る